第十七話 正解
すみません。完全に忘れてました。
――鶴賀視点
「猫影殿。お待たせしました」
森田のエスコートを終えた鶴賀は、すぐに猫影のもとへ向かった。
呼び出された理由は、おおよそ察しがついている。
彼が何かを決断したのだろう。
それも、おそらくは戦線を離れる覚悟を。
「いや、いいんだ。まぁ、ちょいとこれからのことを話そうと思ってな」
「大丈夫でする。猫影殿は、ここで安静に」
「……あぁ。いや、そうじゃなくてな」
猫影は少し間を置いて、淡々と口を開いた。
「どうせ織田も長続きしないだろ。だから、森田さんたちと俺以外で伊達の方へ逃げろって話」
「……は?」
鶴賀には、意味が理解できなかった。
何を言っている?
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
「だから、おまえらは伊達で平和に暮らしとけって話だよ。ほら、ここ危なくなるだろ? 槍真倉とか敵にいるし」
「ですが……」
「ん?」
「猫影殿は……」
「あぁ、俺?」
猫影は少し考えるように天井を見上げた。
「そうだなぁ……ここに残ろうかな。まぁ、あとは一人で天下取りに行ってもいいし」
「何を……」
「俺、やめたんだわ」
その言葉に連なり発せられた言葉は、鶴賀にとってあまりにも残酷だった。
だが、猫影にとっては――それが当然のことなのかと思わせるぐらい、平然と淡々と発せられた。
「仲間とか、信じるの」
「……信じるのを……やめた?」
「うん」
猫影は何でもないことのように頷いた。
「みんな。どうせ裏切るでしょ?」
「わ、私は……」
「こんな俺を見かねて、いつか裏切るでしょ?」
その声に、怒りはなかった。
あるのは、諦めだった。
「それでまた何かを失うくらいなら、もう何も持たない方がマシだと思ってね?」
猫影は懐から形見の髪を取り出し、そっと顔に擦り付けながらそう言う。
鶴賀は息を呑んだ。
確実に、何かがおかしくなっている。
――否。
もう、壊れている。
彼は強い。
どんな苦境に立たされても、何度だって立ち上がってきた。
だが、今回は違った。
耐えきれなかったのだ。
今も平然としているように見える。
だが、それは崩れかけた心に、薄い殻を被せているだけ。
その中身が、まだ以前の猫影照春の形を保っているのか。鶴賀には、もう分からなかった。
「俺さ、新しい目標ができたんだ」
「……」
「何がなんでも、俺を裏切って、こんな目に合わせた奴を――ぶっ殺すって」
猫影は笑った。
狂気じみた笑顔だった。
鶴賀は、想定していなかった。
この世界の闇が、ここまで彼の心を蝕んでいたなんて。
だが、考えてみれば至極当然のことなのかもしれない。
「猫影殿……」
「もちろん、邪魔する奴も殺す」
淡々とした声だった。
「どんな手段でも、どんな方法でもな」
彼は何度、心を打ち砕かれても立ち上がってきた。
その度に壊れて、その度に自分で直してきた。
だが――それも今回は違う。
何度も壊され、無理やり繋ぎ合わせてきた心は、とうとう歪んでしまった。
もう、元の形には戻れない。
言葉と言葉の間に、長い沈黙が落ちる。
やがて猫影は鼻で笑った。
「目的のためなら、なんだってやるつもりなんだ……」
自分自身に言い聞かせるように呟く。
「そう、なんだってな」
そして、少しずつ声が強くなっていく。
「靴だって舐める」
「……」
「俺を苦しめた奴を殺せるならね」
怒りが滲む。
「どんな辱めにだって耐えるさ」
憎しみが混ざる。
「俺を痛めつけた奴を殺せるならな!」
鶴賀は何も言えなかった。
「猫影殿……」
「それを邪魔するつもりなら、例外なく殺すよ」
猫影は鶴賀を見た。
「たとえ森田でも、天宮でも、虎子でも――おまえでもな?」
胸を貫かれたような気がした。
私の知っている彼は、こんなのではない。
当たり前だ。
私が見誤ったのだ。
もっと彼の心を見ておくべきだった。
もっと、ケアをしておくべきだった。
このままでは、本当に――。
「もう遅いよ」
猫影が呟く。
「何もかも……」
「猫影殿……」
名前しか呼べない。
そんな自分が悔しくて仕方がなかった。
「なぁ、鶴賀」
猫影がこちらを見る。
「おまえは邪魔するのかよ」
「わ、私は……」
答えられない。
すると猫影は、ふっと表情を変えた。
「あ、ごめーん。うそうそ。ジョーク」
そして、いつものような軽い口調で笑う。
「そうだ。決めたじゃん。俺はもう誰も信じないって。今のなしで」
「猫影殿……」
「それでさぁ、鶴賀。最後の頼みなんだけど」
「……はい」
「みんなの説得、頼んだわぁ」
「猫影殿、ですが……」
「チッ」
その瞬間だった。
猫影は舌打ちをすると、突然立ち上がった。
近くにあった皿を掴み、投げる。
皿が床に落ち、乾いた音を響かせた。
「猫影殿、猫影殿って……うるっせーんだよ!」
数秒。
沈黙が続いた。
やがて猫影は俯く。
「……すまん」
先ほどまでの怒気が、嘘のように消えていた。
「わかってる。これが良くねぇって」
猫影は自嘲するように笑う。
「だって全部は俺の責任だもんな。そう、全部」
「それは……」
違う。
そう言いたかった。
だが――。
「じゃあ、なんなんだよ!」
「……」
「チッ。答えられねぇじゃねぇか」
深く息を吐き、猫影は再び布団へ腰を下ろした。
「だから、これが八つ当たりだって理解してんだわ」
少しだけ目を伏せる。
「とりあえず、さっきの件。頼んだ」
「……わかりました」
今は、もう引き下がるしかない。
情けない。
だが、今の自分には、それしかできなかった。
―――――――――――――
天宮視点
廊下には、いまだに晴れない空気が漂っていた。
この場から離れたい。
そう思う。
だが、それは彼を見捨てることになる。
それは果たして、良いことなのか。
否。
してはならない。
鬱の辛さは、知っているつもりだ。
なぜなら、自分もそうなったことがあるから。
だからこそ、見捨ててはならない。
見放してはならない。
「春くん……」
篠原が小さく呟く。
そういえば、気になっていたことがあった。
彼女。
篠原さんと猫影さんとの関係だ。
……聞くべきではないだろう。
そう思っていた。
すると、
「篠原さん……ちょっと良いですか?」
愛菜が、自ら篠原へ声をかけた。
「愛菜、さんですよね。なんでしょう……」
「猫影さんとの関係を知りたくて……」
「あぁ……わかりました」
彼女は少しだけ遠くを見るような目をした。
「それは、前回の事件にまで遡ります」
―――――――――――――
当時、彼女は猫影の一つ上だった。
風呂に入って一息ついていたところ、浴槽ごとこの世界へ来てしまったらしい。
状況だけ聞けば、どこか間の抜けた話にも聞こえる。
だが、当事者にとっては笑い事ではない。
見知らぬ土地。
見知らぬ人々。
そして、タオル一枚。
そんな状態で、彼女はこの世界を彷徨うことになった。
想像するだけでゾッとする。
「そこでね。私の格好も相まって、襲われたんです」
「……」
それも無理はない。
この時代では、女性が一人でいること自体が危険なのだ。
ましてや、そんな格好であれば――。
「そこで助けてくれたのが、彼だったんです」
―――――――――――――
「や、やめて……!」
「そんな格好で外を歩くからだぜ? 嬢ちゃん」
「こいつぁ上玉だぁ」
嫌だ。
私、こんなところで。
来ないで。
「お願い、これには事情があるの!」
「えぇ? 言ってみろよ、露出痴女ちゃん!」
「ひゃぁ!」
その瞬間。
男たちが突然倒れた。
「がぁっ!」
「兄貴!?」
目の前で何が起きたのか分からない。
だが、彼らの間に太い棒を持って立っている少年を見れば、その理由は明らかだった。
「あ、あの……大丈夫?」
「え?」
「いや、その……何も見てないから!」
「……あ」
自分が今、タオル一枚だったことを思い出し、慌てて身を隠す。
すると彼は、少し照れたように何かを差し出した。
「あったあった。はい、これ」
「これ……?」
手渡されたのは、体操服だった。
「今日ちょうど体育でさ」
少年は少し困ったように頭を掻く。
「なんか事情があるんでしょ? お金ないとか」
「あるわよ!」
思わず声を荒らげる。
「でも、お風呂に入ったら急に……って、あ! こっち見ないでよね!」
「ばっ! わかってらぁ!」
二人の間に、妙な沈黙が流れる。
「にしても……ここ、どこなんだろう」
「俺も……帰り、こんな道だったっけ?」
そして少年は、こちらを見る。
「君、名前は?」
「俺? 猫影照春。君は?」
「私、篠原虎子。よろしく、春くん!」
「よ、よろしくお願いします……虎子さん」
「敬語はなしでいいよ!」
「わ、わかった……よろしくね、虎子」
―――――――――――――
「そこからだね」
虎子は懐かしそうに笑った。
「彼との出会い」
「なるほど……」
愛菜は静かに頷く。
「それでね。春くんを見てると可愛くてね!」
虎子は楽しそうに笑う。
「なんというか、胸がキュンって――……あ」
しかし、その笑顔はすぐに曇った。
「ごめんなさい。私だけ……」
せっかく和らぎかけた空気が、再び重くなる。
すると――。
「パリン!」
何かが割れる音が、廊下に響いた。
続いて、
「猫影殿、猫影殿って……うるっせぇんだよ!」
猫影の怒鳴り声が響き渡る。
「春くん……」
篠原は、小さくそう呟いた。
人間関係というものは、難しい。
天宮には、今の彼女が何を思っているのか分からなかった。
悲しいのか。
怒っているのか。
それとも――別の感情を抱いているのか。
理由は、さっき彼女自身がそれとなく口にしていたことにある。
篠原もまた、猫影のことが好きなのだ。
そしてそんな彼女も、知らされたはずだ。
猫影が、なぜあそこまで変わってしまったのか。
何を失い、何を背負い、そして今、どんな状態なのか。
だからこそ、天宮には分からなかった。
璃奈という人がいなくなったことを知った彼女は、
今、何を思っているのだろう。
好きな人が大切なものを失ったことへの悲しみ。
その一方で、自分にとっての恋のライバルがいなくなったことへの、ほんの僅かな安堵。
そんな相反する感情が、彼女の中にあったとしてもおかしくはない。
人間なのだから。
どれだけ大切な人を想っていても、綺麗な感情だけを抱いていられるわけじゃない。
天宮には、それを責めることなんてできなかった。
だから、分からない。
篠原が今、何を考えているのか。
何を感じているのか。
それでも――
天宮は、ただ一つだけ願った。
彼女が、今の猫影の空いた心に寄り添ってくれればいい。
ほんの少しでもいい。
猫影がこれ以上、一人で抱え込まなくて済むように。
彼女の存在が、ほんの少しでも――
猫影の支えになってくれればいい。
そう、思った。
それから数分後、鶴賀が部屋から出てきた。
その表情を見た瞬間、全員が察した。
きっと、何かあった。
「皆に…話が……」
―――――――――――――
鶴賀視点
「それ、本気で言ってるの?」
鶴賀の説明を聞くなり、最初に口を開いたのは愛菜だった。
「えぇ……ですので」
「今の彼を、本気で一人にさせる気?」
「それが、猫影殿の頼みです」
「なら、その頼みは聞かない方が彼のためなんじゃないのかよ」
そう森田も続けて反論した。
彼の判断に反対する者は、愛菜や森田だけではない。
「僕も……そう思います」
餅蔵が口を開く。
「同じくです……」
天宮も続く。
そして
「鶴賀は、どっちなの?」
そう問いかけてきたのは、篠原だった。
「私は……」
鶴賀は答えられなかった。
なぜなら、分からないのだ。
彼の今の本心が
だか、それでも
「俺はもう誰も信じない」
あの言葉は、本物だった。
誰が彼に寄り添っても。
誰が彼を助けようとしても。
きっと、それは届かない
今回の作戦で亡くなった璃奈でなければ――。
今の彼の心を救うことは亡くなった彼女にしかできない。
皮肉なものだ。
彼女が死んだからこそ、彼の心は壊れた。
そして、その心を救える可能性があるのもまた、彼女なのだ。
「鶴賀だって、わかってるんでしょ?」
篠原が静かに語りかける。
「彼を一人にさせるのは危険だってこと」
「あぁ……」
分かっている。
分かっているとも。
だが――。
「だが、私にはもうわからない……」
それが本音だった。
「私たちでもう一回、説得しましょ?」
そう提案するのは、愛菜だった。
「あぁ、そうだ。それが良い」
と言葉にはできなかったが、鶴賀もそう思った。
そうしなければならない。
彼を一人にしてはいけない。
そう思う。
その一方で――。
やめろ。
やめてあげろ。
そんな言葉が、自分の中から聞こえてくる。
鶴賀は思った。
いや――思ってしまった。
彼の決断は、正しいのではないか。
その判断は、間違っていないのではないか。
人を信用できなくなるほどの傷を負い続け、今はもう治るかも怪しいほどの傷。
ならば、これ以上誰かを失うくらいなら、自分から人との関係を断つ。
それは、彼なりの防衛策なのではないか。
これ以上、誰も死なせないために。
これ以上、自分が傷つかないために。
それが一番、彼のためなのだと。
「春くん……待ってて」
そう言い、篠原が猫影のいる部屋の扉を開こうとすると――。
「……おぉ。みんな……ごめん。心配かけたな」
平常を装い、不自然な笑みを浮かべこちらに話しかけてくる、彼。
猫影照春(狂人)が、自ら部屋の扉を開け、その場に立ち尽くしていた。




