第92話 解離性ペルソナ症候群
草原を、爽やかな風が撫でていく。
教授が最後の良心とばかりにつけているネクタイが、風に揺れた。
「「「…………」」」
全員が硬直していた。
不意に、脳の処理能力を超える量の情報を叩きつけられた気分だった。
「教授」
「なにかな?」
「どうやってここに?」
「いつも通り、普通に入口から入ってきたよ。入り方が変わっていて驚いたね」
「……普通に?」
「普通に」
「…………」
あとでコアちゃんに確認しよう。
……うん。
今はそれどころじゃない。
「そうじゃなくて……なんで気づかなかったんだ?」
「ああ、そっちか」
教授が納得したように頷く。
「いくら会議室がないからといって、こういう開けた場所で重要な話をするのはよくない。私のように慣れた探索者なら、魔物避けに使う魔法を応用して、気配を消しながら近づくくらいできるからね」
魔物避け……気配遮断とか、そういう魔法だろうか?
「白根君にまた何か言われるかもしれないが、そういう建物くらいは用意しておいたほうがいいだろうね」
「あとで七築に伝えておきます」
また建物が増える。
いや必要な施設なら、今度こそちゃんと白根に相談してから建てよう。
「ちなみに、どこから聞いてました?」
「重蔵さんのイメージが、みんな違うというあたりからだね」
「…………」
だいぶ最初から聞かれていたようだ。
なんで気づかないんだよ。
こえーよ、探索者。
「じゃあ、『深山を巻き込むな』って話も?」
「もちろん」
「……どう思いました?」
「そうだねぇ」
教授は少し悩んだような顔をしてから、一言。
「どちらの意味でも、言うかもしれないね」
「……? どういうことですか?」
「これは、言っていいものかどうか悩むところでね」
教授にしては珍しく、歯切れが悪い。
「というのも、私の勝手な思い込みかもしれない部分があってね……」
「いや、どういうことなのよ」
鐘々が急かす。
「いやね。彼——重蔵さんは、異形になったあとからだったかな。どうにもチグハグなところがあってね」
「チグハグ?」
「ああ。まるで、解離性同一性障害のように、人格そのものが切り替わっているように見えることがあったんだ」
「解離性……?」
「俗な言い方をすれば、二重人格だね」
「…………」
教授は、すぐに言葉を付け足した。
「もちろん、私は精神科医ではないし、彼が実際にそうだったと言っているわけではないよ。診断を受けていたという話でもない」
「じゃあ、どういう……」
「同じ網代重蔵という人間なのに、時折、考え方も、話し方も、判断の仕方まで、まるで別人のように感じることがあった——という話さ」
「…………」
おいおい。
なんか、とんでもない話が出てきたぞ。
「もっとも、私は当時、それを精神疾患だとは考えていなかった」
「じゃあ、何だと思ってたんです?」
「異形化による、精神への影響だよ」
鐘々と凪原さん。
二人の表情が、わずかに強張った。
「ただ、これもだいぶ怪しくてね。異形化をきっかけに、強い解離症状を示すようになった事例そのものは報告されている」
「解離症状……」
「単眼だったり、全身に鱗が生えたり。蜥蜴のような姿になったりね。元の自分から、あまりにも大きく姿が変わった異形ほど、そうした症状は起こりやすいとされている」
教授が、自分の顔を指で軽くなぞる。
「昨日まで鏡に映っていた自分と、今日の自分がまるで違う。身体の感覚まで変わる。それを精神が受け入れきれないのさ」
「…………」
確かに……自分の姿が突然、人間とはまるで違うものへ変わる。
それを受け入れられず、変わってしまった自分を、どこか自分とは別のものとして切り離す。
そういうことなら、俺にもなんとなく想像はできた。
「だからこそ、分からなかった」
教授が続ける。
「重蔵さんは、エルフ型だったからね」
「……それが?」
「耳が伸びる。多少、身体的な特徴が変わる。もちろん本人にとっては大きな変化だろう。ただ、単眼種や完全な水棲型のように、人間としての生活そのものが成立しなくなるほどではない」
「…………」
「少なくとも、あれほど人格にまで影響が出る理由としては、弱いように思えたんだ」
なるほど。
祖父の変化が、異形化そのものによるものなら——その異形化は、あまりにも普通すぎる。
だから教授も、ずっと答えを出せずにいたわけか。
「ただ、事実として——異形化したあと、彼の話し方や行動に違和感を覚えることがあった」
教授が、そこで言葉を切る。
「私から言えるのは、それだけだよ」
「なんというか……結局のところ、分からないってことですよね?」
「ああ。その通りだ」
あっさりと認めた。
「だから、別の解法を取るとしよう」
「別の解法?」
「そもそも、君たちが私を信用できない。それが問題なのだろう?」
「…………」
否定できない。
「ならば、そこを解決しよう」
教授が、いつものように笑う。
「私が知っていることを、すべて教えよう」
「……全部?」
「ああ」
教授は、軽く両手を広げた。
「なんでも聞いてくれたまえ」




