第75話 法治国家ですよね?
白根も帰り、ダンジョンには普段の光景が戻っていた。
とりあえず俺は、七築が建てた家の桟橋へ腰を下ろし、暦が豆を煎るところから淹れたというアイスコーヒーを片手に、七築との交流を深めていた。
「その髪、どうして濡れてないんだ? いや、服も濡れてないのか」
「ラッシュガードな。濡れてへんのは、水魔法の応用やで。うちかて、濡れた髪のまま人前に出たくないし」
「なるほど……。確かに、あそこまで自在に水を扱えるんだ。そういうこともできるんだな」
七築の身につけている服へ目を向ける。
「でも、なんでラッシュガードなんだ?」
「いや、普通にあんな池でビキニとか着て泳いどったら、ただの痴女やん……」
「あー、確かに」
人目がほとんどないとはいえ、七築本人には誰かに見つけてもらいたいという気持ちもあったはずだ。
その状態で水着姿を晒し続けるのは、さすがに抵抗があるだろう。
「それに、ずっと水の中やから、日焼け止めを塗り直すこともできんしな……。早めに連れてきてもらって、感謝しとるわ」
「日焼けか……」
そういう問題もあるのか。
いや。
それも、人の営みというやつなのだろう。
「そういえば、ここって紫外線あるのか……?」
「えっ。あるんか!?」
「分からない」
「えぇ……」
いや、だって分からないものは分からない。
そもそも、どうして酸素がちゃんと存在しているのかさえ、誰も正確には把握していないのだ。
俺たちが気づいていないだけで、妙な放射線が出ている――なんてことはないと思いたい。
安心安全なコアちゃんでいてほしい。
まあ、そういう欲望があるなら、おそらく大丈夫なはずだが。
「日焼けしたくないって思ってるなら、大丈夫だよ」
「無茶苦茶やな……」
呆れたような顔をしながら、七築がアイスコーヒーを飲む。
ミルクとガムシロップがほどよく混ざっていて、苦すぎず、甘すぎない。
いい塩梅だ。
「なあ、聞いてもいいか?」
「何を――と言いたいところやけど、だいたい分かるわ」
七築は、手にしたグラスへ視線を落とした。
「ええよ。そのために、ここへ来たんやしな。後ろ暗い住人がおるんも、管理人さまにとっては、ええ気分やないやろ」
「率直に聞くけど、どうしてあの池にいたんだ? 池へ来たのは二日前って言ってたけど、それまでは何をしてた?」
「そうやな……」
七築が、短く息を吐く。
「一言で言えば、誘拐されて、隙を見て逃げ出した。かな」
「誘拐?」
「うちな、風呂で人魚になったやん」
「ああ」
「幸いやったのは、うちが実家暮らしやったことや」
「家族と住んでたのか」
「子離れできん親でな。人魚になったあとも、医者を呼んだり、いろいろ世話を焼いてくれたんよ」
七築が、わずかに笑う。
「まあ、そのせいでバレたんやけどな」
「バレたって……誰に?」
「どこかの研究所の連中やね」
一気に話が暗くなってきたな。
「治療のための研究や、言うとったけど……あれは完全に、モルモットを見る目やったわ」
七築の指が、グラスの表面をなぞる。
「うちの親も反対してくれてな。だって、ほら。異形って、基本的には元へ戻れんし……」
「そうだな」
「でも……でもな。うちが普通の家で生きていくんは、やっぱり厳しいんよ」
それは、そうだろう。
人間一人が、常に全身を水へ浸していられる環境が必要になる。
一般家庭の浴室だけで、長期間生活するのは難しい。
水族館のような設備とまでは言わないが、それに近い環境がなければ、七築は呼吸することすらできない。
「それでも、家族みんなで、なんとか頑張っとったんやけどな……」
七築の声が、少しずつ細くなっていく。
「三日前かな。夜中に研究所の人らが来て、おとんたちが押さえつけられて……」
声が上ずっていた。
七築の頬を、涙が伝っていく。
「トラックの荷台に積まれた水槽へ入れられて、そのまま車が走り出して……」
「……それで、逃げたのか?」
「なんとかせなあかんって思って、水魔法でこう……ばーんってな」
「水槽を破ったのか」
「うん。荷台の隙間から池が見えたから、ワンチャンに賭けたんや」
七築は涙を拭いながら、手を前へ突き出した。
「で、あとはこぼれた水を集めて、こう……車みたいにして、がーっと池まで、な?」
めちゃくちゃ器用だな、おい。
「連絡先を教えてくれないか? 家族の無事を確かめる必要があるだろ?」
とりあえず、やるべきことが一つできた。
家族がいるのなら、まずは話をしたほうがいい。
だが、七築はここから動けない。
加えて、ダンジョンの中ではスマートフォンも圏外だ。
なら、俺が代わりに連絡を取るなり、様子を見に行くなりすればいい。
家族に、どこまで話すかは考える必要があるが……。
いや。
七築がコアちゃんダンジョンで暮らすこと自体は、すでに行政にも話がいっている。
コアちゃん本人に関する部分さえ伏せれば、いずれ家族をここへ案内することだってできるかもしれない。
「いや、それはありがたいんやけど……」
「遠慮しなくていいぞ。場合によっては、家族をここへ案内することもできるかもしれないし」
「…………」
七築の表情が曇った。
目に、怯えの色が浮かんでいる。
家族を恐れている?
いや、違う。
七築が恐れているのは、おそらく――。
「そうか。研究所に、ここが知られるかもしれないってことか」
七築の身体が、びくりと震えた。
ビンゴ、か。
「そこは、少し裏から手を回そう」
「裏から?」
「大丈夫だ。こういうのに向いてるやつがいる」
「え、それって……」
以前作った、コアちゃんダンジョン内専用の内線トランシーバーを取り出す。
こういうときに頼る相手は、一人しかいない。
「鐘々、ちょっと相談したいことがある」




