第74話 増え続けるタスク
「現状については理解しました。住人に関してですが、書類上で認められているのは、浅葱暦さん一名による実証滞在だけです」
白根は、手元の資料へ視線を落とした。
「ですが、さすがに舞倉さんを追い出すわけには――いきませんね」
七築の現状についても理解した白根は、悩ましげな表情で鼻の頭を押さえている。
鰓呼吸について説明したときは、本当にどう声をかければよいのか分からない、といった顔をしていた。
それはそうだろう。
暦や鐘々も、社会生活には少なからず苦労している。
だが、陸上では呼吸すらできないという七築の事情は、あまりにも重さが違いすぎる。
「ひとまず、緊急保護を目的とした短期滞在者という形で、こちらで書類を用意します」
「助かります」
これで、すぐに七築を追い出さなければならない事態は避けられそうだ。
「そうだ、白根さん。七築についてなんだが……」
「まだあるんですか?」
「いや。七築が、どうして鱗ヶ池にいたのか知りたいんだ。役場側で、人魚型の異形に関する相談記録や書類が見つかったら、教えてもらえないか?」
「あの、あなた……私の立場を理解して言っています?」
「でも、調べてはくれるだろ?」
「~~~~っ」
白根が、ものすごく難しそうな顔をしている。
だが、白根自身は、俺よりもはるかに善人寄りの性格をしている。
おそらくだが、このままでは人間社会で生活することすら難しい七築を、捨て置くことはできないだろう。
利用させてもらうぜぇ。
「先に言っておきますが、役場で確認できた情報を、無条件に網代さんへお伝えすることはできません」
「やっぱり駄目か」
「個人情報ですから当然です。まずは舞倉さん本人の同意を取ってください。そのうえで、行政上必要な範囲については確認します」
「分かった。七築には、俺から話してみる」
白根から情報を聞き出すのではなく、七築自身へ返せる情報があるか調べてもらう。
それなら、白根の立場としても、ぎりぎり許されるらしい。
「教授のほうでも頼む。俺も七築自身に、それとなく聞いてみるからさ」
「いいでしょう。私も、探索者仲間や研究者の知人に当たってみます」
教授が、あっさりと引き受けた。
こちらはこちらで、どこまで信用してよいのか分からないが、情報を集められる人間は多いほうがいい。
さて。
これで、七築についての調査が進展すればよいのだが――調べたところで、どうしようというのだろうか。俺は。
事情を知って。
また、おせっかいでも焼くつもりなのだろうか?
コアちゃんのほうを見る。
コアちゃんは、また腕を組みながら、じっと俺を見つめていた。
……なんなの、それ?
あ、そうだ。
もうひとつ、確認しておきたいことがあった。
「『迷宮内居住施設運用認可通知書』についてなんだが、何か進展はあったか? 誰が許可を通したのか、とか」
「いえ……」
白根が、わずかに顔を伏せた。
何か分かったのかもしれない。
だが、まだ確証がないのか。
それとも、分かっていても俺には言えないことなのか。
白根は、そんな表情をしていた。
「分かりました。今の質問は、聞かなかったことにします」
「……ありがとうございます」
やはり、何も知らないわけではなさそうだ。
『迷宮内居住施設運用認可通知書』の許可は、白根の上を飛び越えたところから下りてきた。
つまり、俺たちはもしかすると、思っているよりもずっと大きな何かを敵にしている可能性がある。
今後の対策を考えるためにも、せめて足掛かりくらいは掴んでおきたかったのだが——。
そこで、ふと気づいた。
なんとなく。
本当に、なんとなくだが——教授が、今まで見たことのない表情をしていたような気がした。
一瞬だけだった。
すぐに、いつもの余裕を感じさせる表情へ戻っている。
気のせいだったのだろうか?
そういえば、教授にはまだ、祖父のことを詳しく聞けていなかった。
聞こうと思うたびに何かが起きて、結局、機会を逃したままだ。
「ふむ。名残惜しいが、私はそろそろ失礼するよ」
教授が服の乱れを直し、完全に外行きの顔へ切り替わった。
どうして、それをダンジョンの中でも維持できないのだろうか。
「人魚型の異形については、こちらでもしっかり調べておこう。期待しておいてくれたまえ」
「ありがとうございます」
「では、失礼」
教授は軽く手を上げ、入口へ向かって歩き始めた。
何故だろうか。
普段なら、帰る前に全身全霊で深呼吸をするなり、地面へ頬ずりするなり、何かしら余計なことをするはずなのに——今日は、それがない。
教授は一度も振り返ることなく、そのままダンジョンを出ていった。
◇
駆の家から、徒歩で五分ほど。
コインパーキングに停めておいた黒いセダンへ乗り込むと、教授はエンジンもかけずに手帳を開いた。
「ふむ。人魚型という珍しい異形――本来、発生することがほとんどないイレギュラー種……。彼女の戸籍、以前の住居、勤め先。調べる価値はありそうですね」
教授は、手帳へペンを走らせる。
紙面に並んでいるのは、普通の文字ではなかった。
短い線。
流れるような曲線。
ところどころに打たれた点。
それらが、ほとんどペン先を止めることなく、次々と紙面へ刻まれていく。
教授が使っているのは、手書き速記と呼ばれる記録法だった。
速記は、議会や講演、取材などで、人の発言を書き漏らさず記録するために使われてきた。裁判所でも、証人や当事者の言葉を逐語的に残すため、速記官が法廷へ立ち会うことがある。
もっとも、裁判所で使われているのは、専用の速記タイプライターによる機械速記だ。
教授が身につけているのは、それとは異なる手書きの方式だった。
聞き取り調査の内容を、その場で可能な限り多く記録するため、学生時代に習得したものらしい。
速記符号は、後から普通の文章へ書き直す。
その作業を、反訳という。
しかし教授は、すべての記録を反訳しているわけではなかった。
公表する必要のない個人的な考察は、速記符号のまま手帳へ残している。
同じ方式を身につけた人間なら、読むことはできるだろう。
だが、教授の手帳には迷宮研究で頻繁に使う言葉を示す独自の略符や、自分にしか分からない省略が大量に混ざっている。
たとえ速記の経験者であっても、完全に読み解くのは難しい。
その新しいページへ、教授は一行を書き加えた。
そこには、他人には容易に読めない符号で、こう記されていた。
——先生の目的についての考察、と。




