第66話 さぁ、理科の時間だよ
七築は、俺の言葉の意味をうまく咀嚼できていないようだった。
なお、俺の後ろでは、コアちゃんが腕を組み、得意げな顔をしている。
いわゆる、後方腕組みドヤ顔というやつだ。私が育てましたって顔をしないでほしい。俺は、コアちゃんに育てられた覚えはないのだが?
「うちっていうのは、俺が今住んでいる家のことじゃない」
「ほんなら、なんのことなん?」
「俺が管理しているダンジョンのことだ」
「ダンジョン?」
七築の表情に、警戒が戻った。
「……いや、それは危ないやろ」
「大丈夫じゃ!」
コアちゃんが、俺の背後から勢いよく顔を出す。
「妾は安全じゃぞ! 今は魔物もおらん!」
そこで、少しだけ考え込んだ。
「猫はおる!」
「猫?」
「猫?」
七築の表情が、困惑の色で染まる。あと鐘々、そこは反応しなくていいぞ。
「そこは今、重要じゃない」
話がややこしくなる前に、コアちゃんを押し戻す。
「わ、妾って……?」
「それについて説明すると長くなるから、ひとまず置いておいてくれ」
「置いといてええ要素なん、それ?」
「俺の管理しているダンジョンには、魔物はいない。すでに家を建てて、実際に暮らしている人もいる」
「人が暮らしとるダンジョンなんて、ほんまにあるん?」
「あるのよ」
鐘々が、俺の横から口を挟んだ。
「私たちは今、行き場を失った異形が暮らせる場所を、ダンジョンの中に作ろうとしてるの」
「異形のための……住む場所?」
「そう。勝手に人を連れ込んでるわけでもないわよ。低活動で安定しているダンジョンを使った、異形の居住適合性を調べる実証滞在として、ちゃんと許可も取ってある」
説明だけを聞けば、かなりまともな事業に思える。
実際、嘘は一つも言っていない。
まだ猫ばかりが増えていることも、全裸の教授が草原を歩き回っていることも、今は言う必要がないだけだ。
「だいぶ怪しいんやけど……それ、大丈夫なん?」
七築は、俺たちを疑わしそうに見回した。
「自分ら、変な宗教に騙されたりしとらんか?」
警戒心が高い。
だが、それも当然なのかもしれない。
人魚型という、極めて希少な異形。
ダンジョンを崇める連中からすれば、喉から手が出るほど欲しい存在だろう。
気に入りそうどころか、見つかれば確実に狙われる。
「安心してくれ。実際に見てもらうのが一番早いんだけどな……」
こういうときのために、説明用の資料を用意しておくべきだった。
暦に頼めば、作ってくれるだろうか?
――いや、漫画と事業案内のパンフレットでは、勝手が違いすぎるかもしれない。
どう説明したものか……。
鐘々へ目配せする。
鐘々は、任せておけと言わんばかりに頷いた。
本当にいけるのか?
「まあ、警戒するのも分かるわ」
鐘々はそう言って、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「私たちだって、口だけで信用しろとは言わない。まず、これを見て」
画面に表示されたのは、役場から交付された承認通知だった。
『低活動・安定型迷宮における異形居住適合性検証事業』
事業名。
実施場所。
責任者である俺の名前。
役場の電子印まで、きちんと表示されている。
「これ、ほんまもんなん?」
「少なくとも、役場から正式に発行された書類よ。照会番号もついてる」
「役場に問い合わせたら、うちの居場所がばれるやろ」
「ああ……それもそうね」
鐘々は少し考えたあと、別のファイルを開いた。
「なら、こっちは?」
再生されたのは、ダンジョンの中で撮影された映像だった。
どこまでも広がる草原。
その中に建つ、一軒の家。
カメラが玄関を通り、明るいリビングへ入っていく。
家具。
照明。
水の流れる台所。
窓の外に広がる草原。
『電気、水道ともに問題ありません。室温も安定しています』
画面の中で、暦が説明していた。
役場へ提出する経過報告のために、以前撮影した映像らしい。
「……ほんまに、家がある」
七築が、食い入るように画面を見つめる。
「この人が、今そこに住んどるん?」
「そうよ」
「話したりはできへんの?」
「今は無理ね。ダンジョンの中には電波が届かないから」
「圏外なんかい」
「そこは今後の課題ね」
鐘々は、しれっと答えた。
「ただ、見学するだけならできる。実際に見て、自分の目で安全かどうか確かめればいい」
「……帰りたくなったら?」
「ここまで送り返す」
「研究所に連絡したりせえへん?」
「あなたの許可なしにはしない」
鐘々が、はっきりと言い切った。
「私たちを信用しなくてもいい。見に来てから決めればいいのよ。住むかどうかも、事情をどこまで話すかも、全部あなたが決めればいい」
七築は答えなかった。
ただ、画面に映る家を、じっと見つめ続けていた。
「分かった。それはええ」
しばらくして、七築が画面から顔を上げた。
「せやけど……うちを、どうやってそのダンジョンまで連れていく気や?」
もっともな問題だった。
「水を固める魔法で、なんとか地上でも呼吸できないのか?」
「少しの間なら、できるけど……」
七築が水面へ手を触れる。
持ち上げられた水が彼女の身体へまとわりつき、首から下を包み込んだ。
まるで、水の衣を身にまとっているようだ。
「この状態で、安静にしとって二分もつかどうかやね」
「二分!?」
想像していたより、はるかに短い。
「水に溶けてる酸素って、かなり少ないからね」
鐘々が、七築を包んでいる水を眺めながら言った。
「さぁ、理科の時間だよ」
「急に始まったな」
「空気から十分に酸素を取り込んだ水でも、1リットルに含まれている酸素は、気体に換算すると6ミリリットル前後しかないの」
「そんなに少ないのか!?」
「七築が全身にまとえるだけの水を集めても、そこに溶けている酸素は、缶ジュース一本分くらい。成人女性が安静にしているときでも、一分間に二百から二百五十ミリリットルくらいの酸素を消費するから……」
「待ってくれ」
「なに?」
「酸素の量だけ言われても、まったく実感が湧かない」
「今の説明で?」
鐘々が、信じられないものを見るような目を向けてきた。
こいつの頭がよすぎる気がする。
いや、鐘々は学生時代にゲーム感覚で億万長者になったような人間だ。
こいつを一般人の基準にしてはいけない。
「要するに、魔法で水をまとっただけじゃ、家まで運ぶのは無理ってこと」
「ああ。それなら分かる」
普通の車で連れていくどころか、軽トラックを使っても相当危険そうだ。
水をためられる巨大な容器。
水を循環させるポンプ。
酸素を送り込む装置。
揺れや水漏れへの対策まで必要になるだろう。
――そもそも、七築はどうやってここまで来たんだ?
気になったが、今は問い詰めるべきではないだろう。
しかし、困った。
七築をコアちゃんの中へ招くには、大型の水槽と、それを運べる車両を用意しなければならない。
準備している間に、町内会や研究所へ見つかる可能性もある。
そこで、ふと今朝考えたことを思い出した。
「そういえば、コアちゃん」
「なんじゃ?」
「コアちゃんの入口って、増やせたりしないのか?」
その言葉を聞いた瞬間、コアちゃんが俯いた。
何も答えず、黙り込んでしまう。
「お兄さん、それは無理でしょ」
鐘々が、呆れたように言った。
「入口が複数あるダンジョンなんて、私は聞いたことないよ。教授の論文にも、そんな例はなかったでしょ?」
「それは、そうなんだけど……」
ダンジョンの入口は一つ。
少なくとも、俺がこれまで知っていたダンジョンは、すべてそうだった。
けれど、コアちゃんは普通のダンジョンではない。
身体を作り、外を歩き、生き物の欲望と意思を読み取れる。
なら、入口についても――。
「主よ」
コアちゃんが顔を上げた。
いつもの無邪気な表情ではなかった。
「試してみたいことがあるのじゃが……よいか?」
普段なら、二つ返事で頷いていただろう。
だが、なんというか。
とてつもなく、嫌な予感がした。
コアちゃんと行動するようになってから、数こそ少ないものの、俺もそれなりの修羅場をくぐってきた。
その経験から得た勘が、全力で告げている。
それ。絶対に、やばいやつだぞ?




