第65話 喪失ってレベルを越えている
「すごいな、これ……」
俺は、水上に建てられた竹の家を改めて見回した。
「マジで、どうやって作ったんだ? 道具がなければ、竹の加工なんてできないだろ」
「それについては、この身体に助けられたところもあるな」
七築はそう言うと、水面へ指先を触れた。
そのまま指を持ち上げる。
すると、指先へまとわりついた水まで、一緒に持ち上がった。
「なんだ、それ……?」
水は地面へ落ちなかった。
七築の手の中で細長く伸び、鋭利なナイフのような形を保っている。
俺の知っている魔法から、明らかに逸脱していた。
まるで、物語に出てくる本物の魔法だ。
「人魚になってから、水を使う魔法に関しては、めちゃくちゃ上達してな」
七築が手首を動かす。
刃の形をしていた水が崩れ、何事もなかったかのように池へ戻った。
「このくらいの量なら、形を固めることもできる。水圧を上げて、カッターみたいに使うこともできるから、竹を切ったり、表面をきれいに削ったりもできるで」
水圧を利用した切断技術くらいなら、俺にも分かる。
だが、普通の人間が水魔法を使ったところで、せいぜいホースの先を指でつまんだ程度の勢いだ。
竹を切断するどころか、汚れを洗い流すのが精いっぱいだろう。
そのうえ、水がある場所でなければ、まともに扱うこともできない。
もっとも、その制約については、七築も変わらないらしい。
「水がないと、ろくに使えんけどな」
七築は、自分の下半身を見下ろした。
「まあ、今の身体やと、水がないこと自体が命に関わるから、あんまり関係ないけど」
「命に関わる?」
「うち、鰓呼吸になってん」
「は?」
鰓呼吸?
今、鰓呼吸と言ったのか?
「いや、待て。じゃあ、どうやって声を出してるんだよ」
「肺自体は残っとるで。ただ、酸素を取り込む機能は、もうほとんどない」
「ほとんど?」
「空気を入れたり出したりはできる。せやから、声は出せる。ただ、呼吸には使えん」
肺は残っている。
だが、それはもう呼吸器官ではなく、発声のための空気袋に近いものらしい。
酸素を取り込むのは、下半身にある鰓。
つまり、七築は下半身を水へ浸していなければ――。
「陸に上がったら、窒息するのか?」
「せやな」
七築は、あっさりと頷いた。
「鰓が乾いたら終わりや。水から出た状態で話し続けるんも、あんまり長くは無理やな」
「ひぇっ……」
思わず、情けない声が漏れた。
これは、あまりにも――。
俺がこれまで見てきた異形とは、変化の度合いが違いすぎる。
「まあ、引くわなあ。うちも最初は、そうやったよ」
七築はそう言って、自分の下半身へ目を落とした。
青みがかった鱗に覆われた尾が、水面の下でゆっくりと揺れる。
「ねえ。この家、素人が作ったにしては出来がよすぎない?」
鐘々が、竹を組み合わせた壁や支柱を見回した。
「何か、建築関係の仕事をしてたんじゃない?」
「ああ。これは仕事より、趣味の影響が大きいかな」
「趣味?」
「昔から、建物を作るんが好きでな。竪穴式住居に始まって、ツリーハウス、自宅用の倉庫まで建てたことあるで」
「竪穴式住居を作ったのか……?」
「学校の自由研究でな。庭に穴掘ったら、親にはめちゃくちゃ怒られたけど」
「そりゃ怒られるだろ」
まさか、趣味でここまでの技術を身につけているとは思わなかった。
しかも今の七築は、下半身が魚である。
そのうえ、満足に使える道具もない状態で、この家を建てたのだ。
建築への執念が、桁外れだった。
「仕事は建築士やったんやで。二級やけどな」
「二級だけどって……建築士って、普通にすごいんじゃないのか?」
「すごいわね。あ、私も宅建士を持ってるよ」
「張り合うな」
「いや、不動産と建築なら相性いいで?」
七築が、少し興味を示した。
「ほら。役立つじゃん」
「今はお前の資格自慢をしてる場合じゃないだろ」
俺は、改めて水上の家を見回した。
これだけの技術があるなら、普通に働いて暮らしていたはずだ。
それが、どうして池の奥で、拾った竹や流木を使って生活しているのか。
「それで、七築。どうして、こんなところに住んでるんだ?」
「……家族に迷惑かけられへんからな」
七築は、わずかに視線を逸らした。
「家出したんよ」
「家出?」
「せや」
「そんな身体でか?」
口に出した直後、失言だったと気づいた。
いくらなんでも、言い方というものがある。
「悪い。今のは――」
「ええよ」
七築は苦笑した。
「うちも、自分でそう思っとるから」
だが、やはりおかしい。
七築は、水から出れば呼吸すらできない。
陸上を歩くこともできないはずだ。
そんな彼女が、誰の手も借りずに自宅から鱗ヶ池まで来られるのだろうか?
「でも、どうやってここまで来たんだ?」
「それは……」
七築の表情から、笑みが消えた。
「話すと、ほんまに長くなるで」
「それは、あとでいいんじゃないかな?」
鐘々が、俺たちの間へ割って入った。
「あ、何か食べる?」
「食べ……」
おそらく、その一言が引き金だった。
七築の顔が、くしゃりと歪んだ。
次の瞬間、堰を切ったように涙があふれ出す。
「う、うち……」
何かを言おうとしている。
だが、声は震え、まともな言葉になっていなかった。
俺は思わず視線を逸らし、半水没した家の中を覗き込んだ。
池で捕まえたらしい魚。
ザリガニ。
貝のようなものも転がっている。
だが、どれにもほとんど手をつけた形跡がない。
一匹の魚には刃物を入れた跡があった。
おろそうとしたのだろう。
けれど、途中で作業をやめてしまったらしい。
そうか……。
人間が、ある日突然、水棲生物になったらどうなる?
まず、それまで暮らしていた家に住めなくなる。
陸上を自由に移動できないのだから、仕事にも行けない。
スーパーにも、コンビニにも、飲食店にも行けない。
食材を買う。
料理をする。
温かいものを食べる。
昨日まで当たり前だった生活のすべてから、切り離される。
現代には魔法がある。
だが、誰もが自由に火を起こせるわけではない。
俺だって、せいぜい火花を散らせる程度だ。
そして、それが一般的な水準でもある。
買い物もできない。
火も使えない。
誰かに食事を用意してもらうこともできない。
そうなれば、自分で生き物を捕らえ、自分でさばき、そのまま口へ運ぶしかない。
生きるために、昨日まで食べ物としてしか見ていなかった生き物を、自分の手で獲物にする。
それは七築にとって、人間らしい生活を捨てることと同じだったのかもしれない。
そんな暮らしを、正常な精神のまま、どれだけ続けられるのだろうか?
少なくとも、俺なら――。
三日ともたない。
コアちゃんが、俺の顔を見上げた。
何も言わない。
けれど、その目が何を訴えているのかは分かった。
ああ。
そうだな。
そうだよな。
このまま、七築を池へ置いて帰るなんてできるはずがない。
「なあ、七築」
声をかけると、七築が涙に濡れた顔を上げた。
「うちに来ないか?」
七築の目が、大きく見開かれる。
「……うち?」
自分のことを言われたのか。
それとも、俺の家のことを言われたのか。
一瞬、意味を理解できなかったようだった。




