第60話 これ、征服されない?
猫たちの移動は寅次郎に任せ、俺たちは一度、家へ戻ることにした。
家には誰もいない。
鐘々は、相変わらず単独行動中である。
定期的に姿を消しては、どこからともなく生活費を持ち帰ってくるので、大変助かっていた。
何をしているのか、詳しく聞くのは少し怖い。
「それにしても、暑くなってきたな。まだ昼前なのに、結構やばいぞ」
「それなら、私の家に行きませんか? コアちゃんの中なので、快適ですよ?」
そう。
最近、身をもって知ったことがある。
コアちゃんの中には、四季がない。
太陽のない青空が広がっているものの、暑くも寒くもなく、常に過ごしやすい気温が保たれている。
これから酷暑が近づいてくる。
まともな冷房設備のない我が家にとって、これは死活問題を解決する重大な発見だった。
加えて、暦の家では電気代もかからない。
ついでにスマートフォンも充電させてもらおう。
こら。
せこいとか言うな。
死活問題だ。
そうして、俺たちがコアちゃんの中へ入ると――。
草原に、一人の全裸の変態が佇んでいた。
「おや? 外にいたのか。誰もいなかったから、上がらせてもらったよ」
「その台詞は、俺の家のほうで聞くべき台詞なんだが」
「いいじゃないか。私と君の仲だ。それより、聞きたいことがあるのだが……」
教授の視線が、草原に生えた茂みへ向けられている。
まあ、予想の範囲内ではあった。
「なるほど。猫か……」
教授はそう呟くと、茂みから葉を一枚ちぎった。
そして、何の迷いもなく口へ入れ、咀嚼する。
本当に恐れというものがないのか、この人は。
「あの、それ、食べられるんですか?」
暦がおそるおそる尋ねた。
「いや、食用ではないな」
教授はハンカチを取り出すと、口の中の葉をそこへ吐き出した。
「まあ、調査の一環というやつだよ」
調査なら、何を口に入れても許されると思っているのだろうか。
そのとき、入口の扉が再び開いた。
コアちゃんが草原へ戻ってくる。
そのあとから、ぞろぞろと猫の群れが入ってきた。
……待てよ。
寅次郎一匹の欲望を食べただけで、茂みがいくつも生まれた。
なら、あの猫たち全員の欲を食べたら――。
「なあ。あれ全部の欲をコアちゃんが食べたら、ここ、猫に征服されないか?」
辺り一面が、猫に都合のよい世界へ変わる光景が頭に浮かぶ。
茂み。
爪研ぎ用の木。
大量の段ボール箱。
日当たりのよい場所を占領する猫の群れ。
人間の住む余地がなくなりそうだ。
「コアちゃんが、一匹ずつ直接欲望を食べなければ、急激な変化は起こらないだろう」
教授が断言した。
「どうして、そう言い切れるんだ?」
「ダンジョンの中で生活しているだけでも、生き物の欲望は少しずつダンジョンへ伝わる。だが、その影響は薄く、曖昧だ」
教授は、寅次郎の欲望から生まれた茂みを指さした。
「一方、これはコアちゃんが欲望を直接食べ、その内容を明確に理解した結果だ。だから、短時間で具体的な形として現れた」
「普段の生活から漏れる欲と、直接食べさせる欲では、出力が違うのか?」
「そう考えるのが自然だろう。もし、生活しているだけで強い変化が起こるのなら、以前ここにいた魔物たちの欲望によって、環境全体がとっくに作り変えられている。いや、作り替えられた結果がこの草原かもしれないがね。他のダンジョンに通っている私の経験則だと捉えてもらっても構わないよ」
経験則、か。だが、様々なダンジョンを探索しており、なおかつダンジョンを研究対象としている教授の言葉だ。説得力がある。
「猫を大量に放せば、猫の欲望だけで一晩のうちに世界が塗り替えられる、ということはないだろう。ただし、長期間暮らせば、少しずつ猫に都合のよい環境へ偏る可能性はある」
「結局、征服される可能性はあるんじゃないか」
「時間をかければね」
安心させる気があるのか、この人は。
「だが、これは重要な発見だよ」
教授の目が、いつものように危険な輝きを帯び始めた。
「動物を大量に入れ、その生活から間接的に欲望を取り込ませれば、特定の個体ではなく、動物全体が必要とする環境が形成されるかもしれない」
「動物全体にとっての、理想の環境か」
「そして、この実験に成功すれば、ライフラインの問題も解決できる可能性がある」
「それこそ、どういうことだよ」
「普段生活している人間のうち、どれほどの者が、水道や電気の仕組みを正確に理解していると思う?」
「ほとんどいないだろうな」
「そう。多くの人間にとって、水道とは蛇口をひねれば水が出るものだ。照明とは、スイッチを押せば明かりがつくものだ」
仕組みを理解していなくても、それがある生活を当然のものとして思い描いている。
暦の家に水道や電気が備わっていたのも、それが理由なのか?
「つまり、人間が増えれば……」
「水道や電気を当然に必要とする、複数の人間の欲望が重なる」
「その結果、コアちゃんの中に、ライフラインを備えた環境が自然に作られるかもしれない?」
「そのとおりだ」
そんなことは、考えてすらいなかった。
いや、最初の検証を行ったときから、細部までしっかりとイメージできなければ、完成したものは生み出せないと思い込んでいた。
だが、暦の家が、まさにその反証なのだろう。
暦は、水道管の構造や発電方法まで考えて家を生み出したわけではない。
蛇口をひねれば水が出る。
スイッチを押せば電気がつく。
その程度の、ごく当たり前の認識しか持っていなかったはずだ。
そして、コアちゃんの中では、それで十分だった。
仕組みを理解する必要はない。
それが存在する生活を、当たり前のものとして望めばいい。
これまでとは正反対の可能性が、新たに浮上してきた。
そう。
つまり、このダンジョンに足りないものは――!
「結局、マンパワーが足りないってことじゃないか!」
コアちゃんのダンジョン。
従業員募集中である。




