第58話 嘘だろ? そんなことが!?
寅次郎については、近所の事情に詳しい暦から、いろいろと話を聞いた。
少なくとも、特定の誰かに飼われている猫ではないらしい。
そもそも、コアちゃんが寅次郎の欲望を味わったところ、帰る家も、飼い主だと思っている人間もいないという。
野良猫であることは、ほぼ間違いなさそうだった。
俺が倉の扉を開けると、コアちゃんが先に中へ入った。
寅次郎も、当然のようにそのあとへ続いていく。
「何の躊躇もなく入ったな……本当に大丈夫か?」
「まあ、今は魔物もいませんから、捕食されるようなことはないと思いますけど」
暦が、さらりと怖いことを言った。
実際に捕食されかけた側としては、思い出すだけでも身体が震える。
焼けた右腕の痛みは、今でも夢に見るほどだ。
おそらく、あの魔法はもう使えない。
正確には、使おうとした時点で、俺自身に強い精神的なブレーキがかかるだろう。
魔法については、改めて学び直したほうがいいかもしれない。
ダンジョン教の存在もある。
これからコアちゃんの中へ住人が増えるなら、荒事が起きたときに対処する手段も、起こる前に防ぐ仕組みも必要になる。
そういえば、暦や鐘々は魔法を使えるのだろうか?
異形は、魔力へ適応した人間だという説がある。
ならば、俺よりうまく魔力を扱える可能性も――。
「あの……そんなに見つめられると、照れます」
「あ、ごめん」
考え事をしているうちに、暦の顔をじっと見てしまっていたらしい。
危ない、危ない。
変な意味に取られるところだった。
暦と一緒に倉を抜け、コアちゃんの中へ入る。
どこまでも続く草原を、寅次郎とコアちゃんが走り回っていた。
いや。
あれは、一緒に遊んでいるのだろうか?
コアちゃんが手を素早く動かすたび、寅次郎が草を蹴って、その指へ飛びかかっている。
どう見ても、寅次郎はコアちゃんの手を獲物だと思っていた。
もはや狩りと呼んでも差し支えないだろう。
「あっ」
寅次郎が飛びかかった。
コアちゃんが捕まった。
うん?
コアちゃんの口元が、もぐもぐと動いている。
……またやってるな?
「さて、何が飛び出すやら」
「魔物がダンジョンの生態系へ影響を与えている、という記述は教授の論文にもありましたけど……こうして欲望を直接取り込んだ記録はありませんでしたよね」
コアちゃんが、あまりにもオンリーワンすぎるからな。
「そうだな。何が起きても――」
そこまで言ったところで、妙な違和感を覚えた。
俺は目を擦り、もう一度、周囲を見回す。
草原だ。
どこまでも同じ草が広がる、いつもの草原。
そのはずなのに、何かが違う。
間違い探しの答えが、視界の端に浮かび上がってきたような――アハ体験とでもいうのだろうか。
「あの……茂みができています」
「茂み?」
暦が指さした先へ目を凝らす。
草原の中に、背の低い木々が生えていた。
一つだけではない。
離れた場所にも、また一つ。
寅次郎が身を隠せそうな茂みが、草原のあちこちへ疎らに生まれている。
「こ、コアちゃん!?」
「ふむ。なかなか面白い味じゃったぞ」
コアちゃんは満足そうに頷いた。
「身を隠せる場所が欲しい。そこから獲物を狙いたい。風を避け、安心して眠りたい。そのような欲じゃな」
茂みの一つへ、寅次郎が勢いよく飛び込んでいく。
尻尾だけを外へ残し、すっかり姿を隠してしまった。
「猫一匹の欲で、こんなに増えたのか……?」
「欲が単純で、形がはっきりしておったからのう。それに、こやつは同じような場所をいくつも欲しがっておる」
人間のように、間取りや設備や見た目まで考えているわけではない。
ただ、隠れられる場所が欲しい。
その一点に迷いがない。
だからこそ、コアちゃんにも形にしやすかったのだろうか。
「それと、新たな願いも聞き届けたぞ」
「新たな願い?」
「妾だけでは叶えられぬ。じゃが、それが主の望みでもあるのなら、応えることはできよう」
コアちゃんが茂みへ向かって手招きする。
「こちらへ戻ってくるがよい」
「な゛ー」
寅次郎は茂みから飛び出すと、何の迷いもなくコアちゃんの足元まで戻ってきた。
今のは、偶然か?
コアちゃんが寅次郎の欲望を理解できることは分かる。
だが、寅次郎のほうも、コアちゃんの言葉を理解しているのか?
コアちゃんは身体を得たことで、生き物の欲望を直接味わえるようになった。
しかし、欲望を聞き取るだけでは、相手へ何かを求めることはできない。
新たな欲望を引き出し、さらに強く育てるためには、意思を返す手段も必要になる。
だから、ダンジョンは魔物の欲を読み取るだけではなく、魔物へ語りかける力まで持っていたのだとしたら。
「嘘だろ……そんなことがあり得るのか?」
魔物がダンジョンの生態系へ影響を与えているのではない。
ダンジョンと魔物が互いに欲望を伝え合い、一つの環境を作っていたのだとしたら――。
ダンジョンって、いったい何なんだ?




