第39話 白根律花の憂鬱
カタカタと、キーボードを叩く音だけが室内に響いていた。
報告書をまとめる。
モニターのブルーライトが、眼鏡のレンズに薄く反射する。
終息迷宮。
非常に珍しい案件だった。
実は、終息迷宮そのものは、昨今ではほとんど見ることができない。
半世紀前までは定期的に見られた現象だったが、いまでは年に数回あるかないか。
そして、終息迷宮の疑いあり、と分類された案件のうち、実際に消失まで追跡確認されたものは半分にも満たない。
消失したのか。
安定したのか。
放棄されたのか。
封鎖されたのか。
記録が途絶えたのか。
そのすべてを、正確に追い切れているわけではない。
だが、過去にそれが原因で亡くなった者がいるのも事実だった。
その事実を無視して、「はい、確認しました。頑張って管理してくださいね」とだけ言って放置するわけにはいかない。
網代駆。
元公務員とのことだったが、随分と若かった。
社会経験すら、まともに積めているか怪しい年齢である。
あの手の若者は、ダンジョンに対して変な希望を持つ者も少なくない。
実際は、ダンジョンが富も名声も生むことなどほとんどない。
たいていは、管理費と責任だけが残る不良債権だというのに。
「白根ちゃん、なにしてんのぉ?」
うざいのがやってきた。
私は、キーボードを叩く手を止めずに答える。
「変な呼び方をしないでください。セクハラですよ、先輩」
「いいじゃん。俺は白根ちゃんと比べて、ちゃぁぁんと実績を取ってるしね。誰も怒らないよ」
実績。
彼が言っているのは、不法に住居を占拠して一般人に迷惑をかけていた異形に対しての処置だったか。
私は、画面から目を離さないまま尋ねる。
「対象者には、ちゃんと代替住居を用意したんですよね?」
「書類見たでしょ? 大丈夫大丈夫」
書類。
確か、浅葱暦だったか。
単眼種の女性。
書類上は、認知症の老人宅に娘と偽って居住していた、という扱いになっていた。
だが、あの案件には、いくつか引っかかる点がある。
処置完了までが、妙に早い。
それに対して、処置後の生活状況確認が薄い。
彼の案件は、いつもそうだった。
結果だけが綺麗に整っている。
書類上は問題がない。
けれど、そこに至るまでの本人意思確認や、移送後の生活実態が妙にぼやけている。
「まだ、一時保護住宅のほうに移ったという報告はありませんけど」
「来たらちゃんと書類は出すから。大丈夫大丈夫」
本当だろうか。
この先輩は、親が議員だか何だか知らないが、普通ではないルートからの就職だと聞いている。
そして、いつも私に対してちょっかいをかけてくる。
距離が近い。
声が馴れ馴れしい。
視線が、仕事相手に向けるものではない。
この男は、こちらの言葉ではなく、反応を舐めるように見ている。
生理的に受け付けない。
気持ちが悪い。
そして何より、人間として信用できない。
「で、いま何の仕事してるの? 手伝おうか?」
「結構です」
勝手に書類を手に取り、読み始める。
日本語が通じないのだろうか。
通じないのだろう。
「終息迷宮ねぇ……これ、別に言わなくてもよかったんじゃない?」
「何かあったとき、こちらの責任問題になりますよ」
「わざわざ報告しなきゃいいでしょ」
「報告しないことが、責任問題になるんです」
「真面目だねぇ。そういうとこ、白根ちゃんって損してるよ」
「変な呼び方をしないでください」
「はいはい、白根主任」
「はいは一回です」
「お母さん?」
「職場です」
「怖い怖い。そういうの、部下に嫌われるよ?」
「部下ではありません。あなたは先輩です」
「じゃあ、先輩にもうちょっと優しくしようよ」
「業務上必要な対応はしています」
「業務上ねぇ。冷たいなぁ」
「私情を挟む場所ではありませんので」
「はいはい。で、この網代ってやつ? 元公務員なんでしょ? 自分でどうにかするんじゃないの?」
「それでもです。命の危険があるんですよ?」
「命の危険ねぇ……こんな実績になりにくい仕事してても、誰も得しないよ? そもそもこれは別の部署の仕事じゃない? こいつ、異形じゃないじゃん」
「だとしてもです。確かに異形ではありませんが、そもそも異形に留まらず、住居に関わりそうな案件は目を通すようにしているので」
「守備範囲広すぎ。便利屋じゃん」
「必要だからです」
「必要ねぇ。そうやって何でも拾ってるから、白根ちゃんはスコア上がらないんだよ」
「スコアのために仕事をしているわけではありません」
「うわ、出た。正論」
「正論ではなく、職務です」
「近隣トラブル解消、危険異形の移送、占拠物件の明け渡し。そういう数字を積めば、評価なんてすぐ上がるのに」
「数字……」
「迷惑をかけてる異形――モンスターを追い払えば、どんどんスコアが貰える仕事なのにさ」
「……モンスター?」
「おおっと、失言失言」
「言うに事欠いて、人をモンスターって……異形だって人間なんですよ!?」
「はいはい、そういうのはいいからさ」
「そういうのって」
「白けるわ~。仕事に感情持ち込むと疲れるよ? 白根ちゃん、そういうところ重いんだよね」
「感情の問題ではありません」
「いやいや、めちゃくちゃ感情的じゃん。いまも怒ってるし」
「怒っています」
「認めるんだ」
「人を人として扱わない発言を聞いて、怒らない理由がありません」
「真面目だねぇ」
「あなたが不真面目なんです」
「でも、実績は俺のほうが上」
「その実績の中身を確認しているところです」
先輩の笑みが、一瞬だけ薄くなった。
けれど、すぐにまた軽薄な笑顔へ戻る。
「怖いなぁ。俺のこと疑ってる?」
「疑われたくないのであれば、処置後の生活状況確認まで、きちんと提出してください」
「はいはい。出しますよ。そのうちね」
「期限内にお願いします」
「白根ちゃんってさぁ、男にもそうやって期限切るタイプ?」
「業務と関係ありません」
「固いなぁ。あ、今度さ、打ち合わせも兼ねて飯でもどう?」
「お断りします」
「即答?」
「はい」
「少しは迷おうよ」
「迷う理由がありません」
「傷つくなぁ」
「では、今後は誘わないでください」
「それはそれで寂しいじゃん」
「私は寂しくありません」
「ほんと可愛げないなぁ」
「業務中です」
「はいはい。じゃあ、頑張って。実績にならない正義の味方ごっこ」
「ごっこではありません」
「そういうところだよ、白根ちゃん」
先輩は、書類を机の上に軽く放った。
紙の角が、わずかに折れる。
私は、その折れた角を見てから、ゆっくりと先輩を見た。
「書類を雑に扱わないでください」
「はいはい。怖い怖い」
先輩は笑いながら、ようやく私の机から離れていった。
人を――人間を、モンスター扱い。
彼だけではない。
おそらく、この協会では、異形を人として扱おうとする私のほうが少数派なのだろう。
分かっている。
分かっているのだけど……。




