第3話 法で勝てなくても、今夜の玄関は壊せる
「網代さーん。出ないなら玄関、開けちゃいますよ~」
扉の向こうから、相変わらず間延びした声が響く。
「また壊してほしくないなら、出てきてくださいね~」
おいおいおいおいおいおいおい!
ふざけるなよ!?
なんで引っ越し初日から、玄関を壊すとかぬかす輩がやってくるんだよ!
しかも、今の言い方は何だ。
また壊してほしくないなら?
つまりこの玄関、一度壊されているのか? 俺の知らないところで? 祖父が住んでいた頃に?
「警察呼ぶぞ……警察……」
反射的に呟いて、すぐに自分で嫌になる。
この街の警察かぁ……。
もちろん、治安を守るためにまともに働いている警察官だっているだろう。たぶん。いてくれ。でなければこの町はもうおしまいである。
だが、役場に勤めていた頃に見聞きした面倒案件の数々を思い出すと、素直に助けてくれると信じきるには、俺の心は荒みすぎていた。
不透明な貸し借り。異形者が絡んだ生活トラブル。片方に金と顔の広さがあって、もう片方に相談する気力も証拠もない揉め事。
警察に相談しても、まずは民事だの、契約書を確認しろだの、被害が出てからだのと言われて、目の前の面倒が一発で消えるとは限らない。
そもそも、今日一日を居留守で乗り切ったところで、明日の朝に玄関前で待ち伏せされでもしたらもっと厄介だ。
こっちは、ようやく手に入れた住居で、ようやく家賃から逃れられると思ったばかりなのである。
出勤前に借金取りとエンカウントする生活なんて、家賃を払っていた頃より悪化しているではないか。
「……厄介ごとは、早めに片付けるか」
俺は、手の中の写真を缶へ戻した。
そもそも、借金だの支払いだの言っているが、そんなものを相続した覚えはない。
相続関係の書類は確認した。不動産の権利関係も、最低限ながら目を通した。少なくとも、俺が「はい分かりました」と支払わなければならないような債務が明記されていた記憶はない。
というか、今の今まで初耳だ。
もちろん、書類に出ていないから存在しないとは限らない。相続を知ったときに浮かれて、何か見落とした可能性だってゼロではない。
だとしても、夜八時に玄関を破壊すると脅して回収へ来るような金が、まともな債権である確率は相当に低いだろう。
「借金取りを名乗る闇バイト強盗とかじゃないだろうな……」
最近は、相手が騙されている被害者だろうが何だろうが、押し入った後に考えればいいみたいな犯罪もある。
念のため、俺は右手を軽く握った。
呼吸に合わせて、体内の魔力を指先へ巡らせる。
掌の中で、空気が微かに揺らいだ。
意識を集中し、掌の周囲の空気を発火寸前まで励起させる。小さな熱が、握った拳の内側をじり、と温めた。
「……使えなくはない、か」
学生の頃なら、もう少しまともな火力を出せた気もする。
社会人になってからというもの、使った魔法といえば、仕事帰りに濡れた靴下を乾かす程度だ。魔力操作の腕が鈍るのも当然である。
それでも、素手よりはマシだ。
……と思ったが、冷静に考えれば、相手だって魔法くらい使えるだろう。
今どき、こっちが掌で火花を起こしました、驚いて逃げていきました、などという都合のいい展開は期待できない。むしろ魔力を見せたことで、「抵抗する気がありますね?」と判断され、余計な暴力の口実を与える可能性だってある。
「肉体強化だけ、先にかけておくか……?」
魔力を筋肉と神経の動作補助へ回せば、最悪の場合、逃げるなり押し返すなりできる確率は少し上がる。
けれど、身体強化は外から見ても分かりやすい。踏み込みや姿勢に不自然さが出る。相手がその手の荒事に慣れているなら、俺が抵抗を想定していることを一発で見抜くかもしれない。
「……やめとくか。こっちから喧嘩を売る必要はない」
俺は掌に集めた熱を散らした。
ただし、魔力の巡りまでは止めない。身体の内側をゆっくり循環させたまま、必要になれば即座に現象を起こせるところまで整えておく。
何もなければ、それでいい。
話を聞いて、意味の分からない要求なら断り、必要なら改めて警察なり法律相談なりへ持っていく。
相手が本当に押し入ってくるつもりなら――そのときは、こっちだって黙って殴られるつもりはない。
ドン、ドン、ドン。
「網代さーん。聞こえてますよね~? こっちも暇じゃないんで、早くしてくださーい」
「……人の新居で、随分と勝手なこと言いやがる」
俺は立ち上がった。
手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。
怖くないわけではない。むしろ普通に怖い。相手が何人いるのかも分からないし、本当に借金取りなのかも分からない。玄関を開けた瞬間に殴られたら、俺の短い一国一城ライフは初日で終了である。
それでも、このまま座り込んでいて事態が好転することはない。
俺はスマホをポケットに入れ、いつでも緊急通報できるよう画面だけ起動した。
そして、身体の内側に魔力を巡らせたまま、玄関へと向かった。
「はいはい、今出ますよ……っと」
玄関の引き戸へ手をかける。
できることなら、開けた先にいるのがセールスマンであってほしかった。
回線業者でも、新聞勧誘でも、壺を売る宗教団体でもいい。そいつらなら断れば済む。最悪、玄関先で十五分くらい粘られるだけだ。
だが、扉を開けた先に立っていたのは、俺のそんな慎ましい願いを笑い飛ばすような連中だった。
「……うわぁ」
思わず、素の声が出た。
そこにいたのは、いつの時代だよと言いたくなるほどテンプレートな、ヤのつく自由業の方々であった。
先頭に立っているのは、角刈りに色付き眼鏡、襟元の開いた派手なシャツに安そうで高そうな金色のネックレスを合わせた中年男。その後ろには、黒いスーツを着ているくせに就職活動中には絶対に見えない男が二人。
たぶん図鑑に載せるなら、分類名は《暴力団系・債権回収型》。危険度は中型ダンジョンの魔物より高く、遭遇した場合は目を合わせずに行政窓口へ――と言いたいところだが、行政窓口にいた側の俺からすれば、対応するだけでHPを削られる最悪のモンスターである。
二十世紀の終わりには、法規制と社会の締め付けで、いずれ消えていくとも言われたらしい。
だが、世は二十二世紀。ダンジョン事変以降、魔石の横流し、未登録素材の売買、違法攻略の仲介、異形化した生活困窮者への金貸しという新しいシノギを得て、彼らは今日もしぶとく生き残っている。
日本社会に古来より生息する、実に厄介な現代モンスターだった。
まあ、俺も仕事柄、こういう連中を見るのは初めてではない。
ダンジョン入口が発生した物件の権利関係、近隣トラブル、占拠、無許可の素材搬出。役所の担当者をやっていれば、嫌でも顔を合わせる機会はある。
だから、問題はない。
問題は――
「お。網代の兄ちゃんじゃねえか。久しぶりだなぁ」
「…………」
――あったわ。
顔見知りだわ。
最悪だ。
よりにもよって、先頭の角刈りは、俺が役場で何度か対応したことのある男だった。書類を出さずに倉庫型ダンジョンを資材置場として使っているだの、異形の住民を住まわせている家の大家へ圧をかけただの、話すたびに胃の奥が重くなるタイプの案件で会った記憶がある。
向こうも俺を覚えていたらしい。にやにやと、懐かしい知人にでも出会ったような顔をしている。
「いやぁ、まさか網代の爺さんと血縁だったとはねぇ。世間は狭いなぁ」
「網代って苗字自体、この町じゃそこまで珍しくないだろ。小学校の頃、学年に一人はいたわ」
俺は扉の縁を握ったまま、できるだけ声を平らに保つ。
「で、何の用だ。こっちは今日引っ越してきたばかりなんだけど」
「分かってる、分かってる。だから挨拶に来たんだよ。これからのお付き合いもあるからさぁ」
「生憎、引っ越し祝いに威圧感はいらないんだが」
「相変わらず口が回るねぇ。役所の兄ちゃんは」
角刈りは楽しそうに笑い、それから、まるで世間話の続きを話すような口調で言った。
「実はね。おじいさんが、うちにたいそうな借金をしていてねぇ」
「……は?」
「それを、君に代わりに払ってもらいたいんだよねぇ」
笑っている。
俺の知らないところで、俺の生活が終わりかねない話をしているのに、こいつは本当に楽しそうに笑っている。
はい、クソ。
「祖父本人への債権が有効なら、相続債務になる可能性はある」
俺は感情を押し殺し、できるだけ事務的に返した。
「だが、相続手続で確認した資料に、あんたらへの債務はなかった。この場で金を払えと言うなら、まず原本と取引履歴を出せ。夜に三人で来て、玄関を壊すと脅すのは法的手続じゃない。ただの犯罪だ」
「おお、怖い怖い。役所辞めてもないのに、もう市民側の顔しちゃって」
「今この場では市民以外の何者でもねえよ」
「まあ、法的にはそうかもしれないけどねぇ」
角刈りはまったく堪えた様子もなく、懐から折り畳まれた紙を取り出した。
「うちには、ちゃんと契約書が残ってるんだよねぇ」
差し出されたのは、契約書――のコピーだった。
原本を持ち歩く気はないということか。あるいは原本なんて実在しないのか。どちらにせよ、ろくでもないことに変わりはない。
「ほら。お兄ちゃん、こういうの読むの得意でしょ。前も役所でうちの書類、ずいぶん細かく見てくれたもんなぁ」
「嬉しくねえ記憶力だな……」
受け取らないという選択肢もあった。
だが、何を根拠に請求してきているのか分からないまま追い返す方が危険だ。俺は警戒を解かないまま、紙を受け取った。
玄関灯の下で、文字を追う。
貸付契約書。
債務者の欄には、俺と同じ苗字があった。
網代――名前は、祖父のものだろう。
貸付額。
返済条件。
遅延損害金。
いくつかの追加手数料。
見れば見るほど頭痛がしてくる数字が並び、その下に、問題の文言があった。
『債務者が死亡、行方不明、支払不能その他これに準ずる状態となった場合、同居者、親族、相続人その他債務者の生活基盤を承継した者は、残債務の履行について誠実に協力するものとする』
「…………」
俺は無言で二度読みした。
そして三度目を読む前に、顔を上げた。
「この条項は無理筋だろ」
「おや。読めた?」
「『親族その他』まで勝手に支払い候補へ入れてる。祖父への債権が有効かどうかと、この条項で俺に払わせられるかは別だ。こんなコピー一枚で認められるか」
「でも、爺さんはそれで借りたんだよ?」
「だから、原本と取引履歴を出せと言ってる」
「だからぁ、さっきから言ってるじゃない。法的には、そうかもしれないって」
角刈りが口元を歪めた。
「俺たちは別に、裁判所から来たわけじゃないんだよ。おじいさんが借りた金を、おじいさんの家を貰って住んでる身内に、返してほしいってお願いに来ただけでさぁ」
「玄関壊すって言った奴が、お願いの定義を語るな」
「壊したくはないよ? お互い面倒だし。ちゃんと話ができるなら、それに越したことはない」
背後の男たちが、黙ったまま笑った。
掌に汗が滲む。
魔力はまだ巡らせている。今なら、手のひらで小規模な発火現象くらいは起こせる。けれど、目の前の男たちからすれば、それは反撃というより口実だろう。
こいつらは、法で勝ちに来ていない。
法的に無理筋な契約でも、相手の日常へ入り込み、住居を脅し、職場へ姿を見せ、払った方がマシだと思わせれば勝ちなのだ。
俺は、それを仕事で知っていた。
住民から相談を受け、何度も「証拠を残してください」「危害を加えられたら警察へ」「法テラスへ相談を」なんて言葉を返してきた。
今なら分かる。
当事者からすれば、それは何一つ今夜の玄関を守ってはくれない。
「……祖父は、亡くなった」
「知ってるよ。だから君のところに来たんじゃない」
即答だった。
少しくらい、死者に対して間を置くものだと思っていた。
こいつらには、それすらない。
「俺は今日、この家へ入ったばかりだ。借金のことなんて知らなかった」
「うんうん。不運だったねぇ」
「だったら――」
「でもさ」
角刈りは、俺の言葉を遮った。
「家は貰う。爺さんの残したもんは使う。でも、爺さんが借りて生き延びた金の話だけは知りません、ってのも……人としてどうなのかねぇ?」
「……っ」
理屈になっていない。
法的な支払義務の話を、人情と罪悪感へすり替えているだけだ。
そんなことは分かっている。
だが、さっき見たばかりの写真が脳裏に残っていた。
若い父と母。
腕の中の俺を抱いて笑っていた、初めて顔を知った祖父。
あの男がどういう人生を送り、どうしてこんな連中から金を借り、何を失ってこの空っぽの家に辿り着いたのか、俺はまだ何も知らない。
「とりあえず、今日すぐ払えとは言わないよ」
角刈りは、俺の沈黙を了承と受け取ったのか、上機嫌に言った。
「お兄ちゃんも引っ越してきたばかりだしね。まずは三日。三日待ってあげる。その間に、払う意思くらいは見せてほしいなぁ」
「意思を見せろって、金額は」
「契約書に書いてあるでしょ?」
俺は、もう一度コピーへ視線を落とした。
貸付残高、遅延金、管理手数料、訪問費、その他諸費用。
数字を合算しようとして、途中でやめた。
今の俺の口座残高を何十回積み上げれば届くのか、よく分からない額になっていた。
「……払えるわけないだろ」
「だったら、払える方法を一緒に考えようや」
角刈りの目が、俺の後ろ――家の中へ向いた。
「若いんだから、色々あるだろ? 仕事もしてる。家もある。身体も健康そうだしなぁ」
最後の一言で、背中が冷えた。
俺は反射的に引き戸を少し閉め、男の視線を遮った。
「帰れ」
「怖いねぇ。まあ、今日は挨拶だから帰るよ」
角刈りは肩をすくめた。
帰り際、思い出したようにこちらを振り返る。
「ああ、そうそう。居留守はやめた方がいいよ。おじいさんはそれで、玄関を一回駄目にしちゃったからさ」
冗談めかして笑う。
「次は、お兄ちゃんが直す側なんだから。大事に使いたいだろ? 相続した家」
男たちは笑いながら、庭の雑草を踏み倒して去っていった。
その足音が聞こえなくなってからも、俺はしばらく玄関に立ち尽くしていた。
手の中には、薄っぺらい契約書のコピー。
背後のこたつ机には、開いたままのお菓子缶と、祖父が赤ん坊の俺を抱いている写真。
さっきまで、この家は俺にとって家賃を浮かせるための幸運な資産だった。
だが今は、祖父が最後まで手放せなかった何かと、最後まで逃げられなかった何かが、まとめて俺の手元へ転がり込んできたように見えた。
「……ふざけんなよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
借金を隠して死んだ祖父か。
死人の債務を孫へ押しつける男たちか。
何も知らずに、家賃が浮くと喜んで相続した自分か。
「俺は……知らねえぞ。こんなの……」
返事はない。
ただ、電気の点いた空っぽの家の玄関に、俺一人の声が残った。




