第2話 空っぽの家に、俺の写真だけが残っていた
それから一か月後。
俺、網代駆、二十三歳。
本日より、めでたく一国一城の主である。
「……城、かぁ」
俺は、目の前の家を見上げた。
夕方の空の下に建つその家は、城というより、時代に取り残されてそのまま忘れ去られた民家だった。
瓦屋根の木造平屋。外壁は色褪せ、縁側の下には枯れ葉が吹き溜まっている。庭は雑草が元気いっぱいに伸び放題で、門から玄関までの短い道すら、草に半分飲み込まれていた。
引っ越し業者に運んでもらった最低限の荷物は、玄関前に積まれている。冷蔵庫、小さな机、布団、段ボール数箱。貯金の残量を考えれば、これ以上の贅沢はできなかった。
問題は、家の外見ではない。
「……中、今日初めて見るんだよなぁ」
鍵を握ったまま、俺はしみじみと呟いた。
相続手続と仕事のごたごたと引っ越し準備で、とにかく時間がなかった。家があると分かった時点では「住めれば何でもいい」と思っていたし、写真と書類で確認した限りでは、倒壊寸前というわけでもなかった。
だから、内部の下見を後回しにした。
結果、引っ越し当日になって、俺はようやく住居の扉を開こうとしている。
これは、最悪寄りの最悪なのではないだろうか。
「そういえば、爺さん……どこで死んだんだ?」
鍵穴へ鍵を差し込む直前、嫌な疑問が脳裏に浮かんだ。
家の中か?
一人暮らしで、身寄りがなくて、警察の調査で俺に行き着いたということは――もしかして、発見までかなり時間がかかったのでは?
「いや待て待て待て。清掃、入ってるよな? さすがに入ってるよな? 事故物件情報を相続人に伏せたまま鍵だけ渡すとか、いくらこの町でも……」
言いかけて、俺は口を閉じた。
この町でも。
自分で言っておいて、まったく安心できなかった。
「……まあ、とやかく考えてても仕方ないか」
住めなければ、今夜の寝床がない。あの役場のことだ。どうせ清掃が入ったとかその辺の情報を伝え忘れただけだろう。信じてるぞ。
俺は覚悟を決めて、鍵を回した。
古い金属が擦れる音がして、玄関の引き戸が開く。
まず、匂いを確認した。
鼻に入ってきたのは、湿った畳と、閉め切られていた木造家屋特有の古い空気。多少埃っぽいが、警戒していた種類の臭気はしない。
「……問題なし」
ここで目星で判定してください。
成功。何もありません。
「誰だよ、今の脳内KP。成功報酬が虚無なのやめろ」
自分で自分にツッコミを入れながら、靴を脱いで中へ上がった。
家の造りは、資料にあったとおり木造平屋建ての四DK。和室が四部屋に、ダイニングキッチンが一つ。襖に障子、軋む廊下、薄い緑色の冷蔵庫でも置けば完成しそうな、昭和レトロの見本みたいな一軒家だった。
古いが、致命的に壊れているわけではない。床板が抜けている様子もなければ、天井から雨漏りしている気配もない。水道と電気は手続済みだし、ガスはあとで確認すればいい。
「悪くない……悪くないぞ。少なくとも家賃を払い続けるよりはずっとマシだ」
庭はひどいが、まあ、そこはどうにでもなる。
ホームセンターで除草剤を買って、適当に撒いておけば、そのうち文明の勝利を見せられるだろう。近所から苦情が来る前に処理する必要はあるが、今さら住民から怒鳴られること自体には慣れている。
窓の外へ目を向けると、伸びきった雑草の向こうに、小さな古い建物が見えた。
「倉庫……いや、蔵か?」
母屋と同じく年季は入っているが、思ったよりしっかりした造りに見える。扉も残っているし、屋根も崩れていない。
「あとで見に行くか。爺さんが何かしまってたなら、金目の物の一つくらい――」
そこで、俺は言葉を止めた。
家の中を見回す。
玄関脇の和室。空。
奥の和室。空。
ダイニングキッチン。空。
押し入れを開けても、布団一枚入っていない。食器棚もなければ、鍋もない。テレビも机も箪笥も、生活感という生活感が、根こそぎ剥ぎ取られたように消えている。
「……何も、ないな」
人が死んだ痕跡が残っていなかったことは、ありがたい。
ありがたいのだが、それとは別に、これは異様だった。
祖父は、本当にここで生活していたのだろうか。
長く暮らしていた人間の家なら、捨て忘れた道具の一つや二つ、使い古した食器や、謎の置物や、年代物の健康器具くらい残っていそうなものだ。
だが、この家には何もない。
亡くなった後に片づけられた、というより――亡くなる前から、少しずつ売れるものを手放していったあとのような、空っぽさだった。
「……爺さん。あんた、どうやって暮らしてたんだよ」
知りもしなかった祖父に向けて、初めて問いかける。
もちろん、返事などあるはずもない。
埃の匂いがするだけの空き家で、俺の声はひどく間抜けに響いた。
それから、家の中をもう一周した。
もしかしたら、最初に見落としただけで、押し入れの奥に金目の骨董品が眠っているかもしれない。古い家にはたまに、住んでいた本人すら忘れていたような謎の資産があるものだ。
壺とか。
掛け軸とか。
現金入りの封筒とか。
最悪、未開封の贈答品でもいい。今日の夕飯代が浮く。
「家賃の次は埋蔵金か。我ながら、人生の再建計画が他力本願すぎるな……」
とはいえ、背に腹は代えられない。
押し入れを開け、天袋を覗き、台所の戸棚を順番に確認していく。出てきたのは埃と、使い道の分からない錆びた釘と、いつの時代の物か分からない輪ゴムの残骸くらいだった。
やっぱり、何もない。
諦めかけたところで、最後に確認した奥の和室の押し入れ、その一番奥に、妙に四角い影が見えた。
「……ん?」
手を伸ばして引っ張り出す。
出てきたのは、銀色のお菓子缶だった。
蓋には、色褪せた煎餅屋の名前が印刷されている。開ければ、おせんべいやあられが個包装でぎっしり詰まっていそうな、いかにも年寄りの家から発掘されそうな缶である。
「これは……」
俺は思わず、両手で缶を持ち直した。
押し入れの奥に隠すように置かれていた缶。
古い家。
既に亡くなった、よく知らない祖父。
この流れなら、中に入っているものは決まっているのではないか?
「現金……?」
口に出した途端、自分でも最低だと思った。
だが、現金であってくれ。
遺品に求めるものが人の心ではなく日本銀行券で申し訳ないが、こちらは新生活初日から生活防衛の瀬戸際である。形見の手紙より、十万円の方が今の俺を救ってくれる。
期待を込めて持ち上げてみた。
「……軽っ」
空か?
いや、振ると中で何か薄いものが動く音がした。少なくとも札束ではない。小銭ですらない。
「こりゃ判定するまでもなく、探索判定失敗かな……」
そこで開けてもよかったが、さすがに引っ越し直後の埃まみれの和室で座り込んでまで中身を確認する気にはなれなかった。
俺は缶を荷物のそばへ置き、まずは最低限の生活拠点を整えることにした。
といっても、家具などほとんどない。
大学に入ったときに買った、当時3,980円のこたつ机。季節外れなので布団はなし。引っ越しのたびに買い替える余裕もなく、四年間の食事とレポートと寝落ちを支え続けた相棒である。
それを一部屋の真ん中に置き、布団を隅に広げ、スマホの充電器を確保し、最低限の荷解きを終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「……新居初日のディナーが、コンビニおにぎり二個とカップ味噌汁か」
一国一城の主として、いささか威厳に欠ける。
だが、今までと違って、この床に座っていても家賃は増えない。
そう思うと、百円台のおにぎりが少しだけ高級品に見えてくるから、人間の幸福基準というものは相当いい加減にできている。
俺はこたつ机の前に座り、包装を剥がした鮭おにぎりをひと口で大きくかじった。
「鮭、うまい。家賃がないと、百円台でも味が違うな」
もちろん、返事をしてくれる相手はいない。新居初日の夕食は、想像以上に静かだった。
そのまま、机の隅に置いていた銀色の缶へ手を伸ばす。
「さて。札束じゃないなら、何が入ってるんだか」
蓋の縁に爪をかける。
少しだけ固くなっていた蓋は、力を入れると、ぽん、と軽い音を立てて開いた。
中に入っていたのは、写真だった。
「……写真?」
一枚ではない。十枚にも満たない程度の古い写真が、輪ゴムでまとめるでもなく、缶の底に重なるように入っている。
俺はおにぎりを咀嚼しながら、一番上の写真を指先でつまんだ。
写っていたのは、若い男女と、年配の男。
若い男女については、すぐに分かった。
「親父と……母さんか、これ」
今よりずっと若い。というか、父親の髪が明らかに多い。母親も、俺が知っているより柔らかい顔で笑っている。
そして、二人の隣で、赤子を抱きかかえている男がいる。
黒髪に白いものが混じり始めた程度の、ごく普通の老人だった。穏やかに目を細め、腕の中の赤子を大事そうに抱いている。
その赤子が誰なのかは、考えるまでもない。
「……あー。一応、俺、ここに来たことあったのか」
全然覚えていない。
当たり前だ。
写真の中の俺は、どう見ても生後一ヶ月にも満たなそうな、しわしわで赤いだけの生き物だった。まともに目すら見えていたか怪しい。そんな時期の記憶が鮮明に残っていたら、それはそれでかなり気持ちが悪い。
「これが、爺さん……」
俺は、写真の中の男の顔をまじまじと見た。
初めて見た。
警察からの連絡で存在を知り、書類の上で財産だけを引き継いだ祖父の顔を、俺は今、初めて見ていた。
写真の中では、父も母も笑っている。
祖父も笑っている。
少なくとも、この一枚を見る限りでは、家族関係がこじれていたようには思えない。むしろ、初孫を囲んで記念写真を撮る、ごく普通の、仲のいい家族に見える。
「だったら、なんで……」
俺は、缶の中へ視線を落とした。
入っている写真は少ない。
それも、ほとんどが同じ頃のものだった。赤子の俺を抱いている祖父。父と並んで立つ祖父。母がお茶か何かを持って、画面の端に写り込んでいる写真。
その後の写真は、ない。
俺が幼稚園に入った頃の写真も、小学生の頃の写真も、祖父と一緒のものは一枚もない。
「このときくらいしか、会ってなかったのか……?」
なぜだろう。
俺は祖父の存在すら知らずに育った。
父も母も、祖父の話をした覚えがない。
単に疎遠になっただけなのか。それとも、何か理由があったのか。
知りもしない祖父のために落ち込むほど、俺は情に厚くない。
だが、今日まで空っぽだと思っていた家の中に、自分が抱かれて笑っている時間だけが残されていたことは、思ったよりも胸に引っかかった。
そのときだった。
ドンドン、と。
玄関の扉を叩く音がした。
「……ん?」
俺は写真を手にしたまま、顔を上げた。
誰だ?
今の時刻は、午後八時を少し回ったくらい。近所への挨拶回りは明日にするつもりだったし、引っ越し業者が忘れ物を届けに来るには遅すぎる。
というか、この家に俺が今日から住むことを知っている人間自体、ほとんどいない。
壊れているのか、チャイムは鳴らなかった。代わりに、もう一度、今度はさっきより遠慮のない音で玄関が叩かれる。
ドン、ドン、ドン。
「セールスか……?」
古い家に若い人間が入ったのを見て、新しい住人狙いで営業が来たのだろうか。インターネット回線、新聞、浄水器、宗教。役満だな。どれも今の俺に払う金はない。
「いや、でも早すぎるだろ。俺がここに引っ越したのを知ってるの、あのクソ役場くらいだぞ……」
まさか、情報漏洩。
いや、あの町役場なら、業者へ住民情報を流していても驚かない。
――という冗談を、以前、先輩が『明日を生きるライフハック』として教えてくれたことがある。
役場の内部で働いている人間が、役場への警戒心を植え付けてくるな。
とりあえず、新しい住人を求めてやって来たセールスだと仮定しても、対応するのは少々――いや、かなり面倒だ。
居留守でいいか。
電気はつけっぱなしだが、気にしないことにしよう。都会のアパート暮らしで身につけたスキル、知らない訪問者には出ない。これが一番安全である。
そう判断して、俺が写真へ視線を戻そうとしたときだった。
玄関の向こうから、間延びした男の声が聞こえてきた。
「いるんでしょ~? 網代さーん。電気ついてるもんねー」
身体が固まった。
セールスにしては、随分と馴れ馴れしい。
そして次に続いた言葉は、俺の想像していた最悪を、軽々と踏み越えてきた。
「今日こそ、お金払ってもらいますよ~」
は??????




