第1話 家を相続したら闇金もついてきた
あれはそう、俺が、祖父の家を相続した日のことだ。
いや、正確に言うならば、相続した家へ初めて足を踏み入れた日のことだ。
その家の存在を知ったのは、さらに一ヶ月ほど前。場所は、できれば人生の記憶から消去したい、俺の職場である町役場だった。
「網代くん。ちょっといい?」
昼休憩に入る直前、直属の上司に呼び止められた。
ちょうどそのときの俺は、昨日の残業で処理しきれなかった申請書類との格闘中だった。上司の邪魔が入ったため、今日の残業で処理しきれないことが確定した。
窓口からは怒鳴り声。内線からは催促。共有フォルダには誰も触りたがらない案件が増殖中。給湯室の自販機で買った缶コーヒーは、一口も飲まないまま常温になっていた。
もう限界だった。
安定した公務員生活?
笑わせる。安定しているのは、毎日定時で帰れないことと、責任だけが末端の机に落ちてくることだけだ。
「……なんですか、クレームですか?現地確認ですか?それともまた『とりあえず網代くんのところで持ってて』案件ですか?」
「いや、仕事じゃない。君宛てに連絡が来ていてね」
「俺宛て?」
「警察から」
その一言で、何かやらかしただろうか、と本気で考えた。
いや、していない。少なくとも警察にお世話になるようなことはしていない。役場の公用パソコンで退職代行のサイトを見たことはあるが、犯罪ではないはずだ。
上司は、気まずそうに一通の封筒を差し出した。
「君のお祖父さんが亡くなったそうだ。身寄りが確認できず、調査した結果、君に行き着いたらしい。住所が確認できなかったとかで、警察から役場に問い合わせがあって……まあ、君が在籍していたから、そのままこちらで預かった」
「…………」
俺は封筒を受け取りながら、しばらく黙った。
祖父。
俺には、祖父がいたらしい。
いや、生物学的に考えれば両親にそれぞれ父親がいて、そのうちの誰かが祖父になるのは当たり前だ。だが、俺の記憶の中に「祖父」という人間はいなかった。
会った記憶もない。声も知らない。写真を見せてもらったことすらない。
それが、亡くなった。
そして、なぜかその知らせが、職場で手渡された。
「……いや、待ってください」
「ん?」
「普通、こういう話は俺の自宅へ連絡するものじゃないんですか?」
「だから、住所が確認できなかったとか、緊急性がどうとか――」
「緊急性があったら、職場で親族の死亡通知と相続関係の書類を手渡していいんですか?」
「まあ、役場だし。個人情報の照会も――」
「腐ってるな、この町役場」
思わず声に出ていた。
「網代くん?」
「いや、マジでイカれてるのかと思いまして。警察も警察なら、それを受け取って本人の勤務机まで運んでくる総務も総務ですよ。守秘義務とか個人情報とか、俺ら普段住民に偉そうに説明してる立場ですよね?」
「……君、疲れてるんじゃないか?」
「疲れさせてる側が言います?」
上司は咳払いをした。
「ともかく、確認だけしておいてくれ。相続が発生するなら手続も必要だろう」
「その手続を昼休み前に職場で知ることになるとは思いませんでしたよ」
封筒は、異様に軽かった。
人が一人死んだ知らせというのは、もっと重いものだと思っていた。けれど、手の中にあるのは安い茶封筒一つ。中に入っていたのは、死亡の連絡と、相続人として確認された旨の案内、それから祖父が所有していた不動産の簡単な資料だった。
住所は、この町の外れ。
木造平屋建ての家屋と、付属する土地。
建物は古い。土地の評価も高くはない。駅から近いわけでもなければ、商業地でもない。書類を見る限り、資産家の遺産というほどのものではなかった。
だが、俺は思った。
――家、もらえるのか?
それは、当時の俺にとって、人生を立て直すための救命具に見えた。
給料は安い。残業代は、つくときとつかないときがある。副業は原則禁止。家に帰るのは寝るためだけなのに、毎月の家賃だけは容赦なく口座から引き落とされていく。
その固定費が消える。
しかも、祖父が住んでいた古家なら、建物の評価額はとっくに落ちているはずだ。土地も大した立地ではない。固定資産税を払うとしても、今の家賃よりはずっと安いだろう。
少なくとも、同封されていた資料を確認した限りでは、借入や抵当権など、相続した瞬間に俺の首を絞めるような記載は見当たらなかった。
ならば、答えは一つである。
もらっておくべきだ。
祖父の顔も知らない薄情な孫が、死を悼むより先に家賃計算を始めたことについては、まあ、許してほしい。
人間、心が荒むと、身内の死亡通知にさえ家計簿を見出すようになるのだ。
このときの俺には、その古家が、人生を立て直すための救命具に見えていた。
まさか家と一緒に、祖父の借金と、魔物の内臓までついてくるとは知らずに。




