第4話 公務員を辞めて、祖父の倉庫へ向かった
それからの日々は、端的に言って最悪だった。
いや、初日の夜に玄関を壊すぞと脅されている時点で、後日いきなり善良な債権回収会社へ変身するわけがないことくらい、分かってはいた。
分かってはいたが、現実は想像以上に遠慮がなかった。
「網代くーん。お客さん来てるよ」
職場の窓口裏で、先輩が引き攣った顔をして俺を呼びに来たのは、その翌々日のことだった。
嫌な予感しかしなかった。
というか、予感という言葉を使う必要すらない。俺の人生で、役場の窓口に来て嬉しい客など一人もいない。特に今は。
案の定、来客スペースにいたのは、例の角刈りだった。
「おお、網代の兄ちゃん。お仕事中に悪いねぇ」
「……何しに来た」
「そりゃあ、返事を聞きに来たんだよ。連絡くれないからさぁ」
「三日って言っただろ。まだ経ってない」
「そうだっけ? まあ、早めに相談する分にはいいじゃない。お兄ちゃん、役所勤めなんだから、こういう手続き詳しいだろ?」
声が大きい。
明らかに、周囲へ聞かせるつもりで話している。
「おじいさんの借金、どうやって返すのかさぁ」
周囲の空気が固まった。
窓口へ来ていた住民がちらりとこちらを見た。隣の係の職員が聞こえないふりをしながら、確実に耳を立てている。奥の席では、上司がこちらへ近づくべきか、関わらないふりをするべきか、実に役所らしく迷っていた。
「外で話せ」
「え? なんで? お勤め先なんだから、給与の相談とかできるでしょ。毎月いくら返せるのか、上司さんにも確認してもらった方が早いんじゃない?」
「帰れ」
「怖いねぇ。借金は怖くないのに?」
「俺の借金じゃねえって言ってんだろ!」
我慢できずに声を荒げた瞬間、角刈りは満足そうに笑った。
最初から、それが狙いだったのだ。
職場で騒ぎを起こさせる。周囲に事情を聞かせる。俺がここで働き続ける限り、いつでも邪魔をしに来られると理解させる。
職員として相談者へ助言する立場だった俺が、今度は窓口の前で、相談案件そのものとして晒されている。
笑えない。
いや、笑うしかないほど出来すぎている。
「……網代くん」
結局、近寄ってきた上司が、俺へ向かって小声で言った。
「個人的な事情を、職場に持ち込まれると困るんだよ」
「俺が持ち込んだように見えるなら、眼科行ってください」
「言い方を考えなさい。住民も見てるんだぞ」
「あれ住民扱いなんですか? 役場すげえな。反社の職場乗り込みまで市民対応の範疇なんだ」
「網代くん!」
この瞬間、何かが綺麗に切れた。
俺が一年間、睡眠時間を削って働いてきた場所。
家主の怒鳴り声を受け、ダンジョン事故の書類を整理し、異形住民の相談を「前例なし」の一言で棚上げする上司の代わりに頭を下げてきた場所。
いざ俺の生活に同じ問題が降りかかったら、守るどころか、職場に面倒を持ち込むなときた。
「……分かりました」
「分かってくれればいい。今日は早退して、きちんと話を――」
「辞めます」
「は?」
「この仕事、辞めます。退職届、今日中に出します」
上司が口を開けたまま固まった。
角刈りでさえ、一瞬だけ意外そうな顔をした。
だが、俺はもう止まらなかった。
「正直、ずっと辞めたかったんですよ。毎日終電間際まで残業して、朝は普通に出勤して、住民には怒鳴られて、上司は責任を投げて、副業もできない薄給で、何かあったときには『個人的な事情を持ち込むな』? すごいな。ここにいる理由が一つも残ってない」
「感情的になるな、網代くん。君の将来のためにも――」
「俺の将来を睡眠時間二時間で消費してきた部署が何言ってんですか」
書類の束を机に置いた。
いつもなら、今日中に処理しないと明日の自分が死ぬと思って抱えていた仕事だった。
だが、不思議なものだ。
辞めると決めた瞬間、他人の仕事にしか見えなくなった。
「引き継ぎ資料は共有フォルダにあります。読める奴がいるなら読んでください。いないなら、今後こそちゃんと人を育てればいいんじゃないですか」
「網代くん、待ちなさい!」
「待ちません。お疲れ様でした」
こうして俺は、その日のうちに退職願を出し、残っていた有給もまとめて申請した。
正式な退職日がいつになろうと、あの席へ戻るつもりはなかった。
いや、これはいい。
むしろいい。
もともと辞めたかった職場だ。平均睡眠時間は二時間から六時間くらいまで増えるだろう。健康寿命という観点で見れば、むしろ大幅な黒字である。
問題は、そこではない。
「……俺、じきに金を稼ぐ手段がなくなるんだけど」
家へ帰り、布団のないこたつ机に額をぶつけながら、ようやく冷静に現実を認識した。
口座残高は少ない。
借金取りは来る。
再就職活動をするにも、明日から金が増えるわけではない。
しかも、あの連中は俺の職場にまで押しかけ、俺が収入を得ていた場所を実質的に潰したのである。
「あいつら……金を回収する気、あるのか???」
借金取りのくせに、債務者候補の収入源を断ってどうする。
いや、違う。
たぶん、これは効率よく返済させるための行動ではない。
俺を追い詰めるための行動だ。
まともな仕事も、まともな生活も、まともな相談先も失わせて、こいつらの提示する方法以外では生きられないと思わせるための。
その結論へ辿り着いた瞬間、胃の底が冷たくなった。
そして同時に、腹の奥から、どうしようもない苛立ちが湧いてきた。
「……舐めやがって」
この家を売るか?
いや、売ってどうする。こんな古家、借金を整理できるほどの値がつくとは思えない。そもそも土地の扱いだって面倒だ。ここは確か、市街化調整区域に引っかかる上に、書類上の地目が一部畑のまま残っていたはずで――
「なんで人が住んでる土地の地目が畑なんだよ! 宅地にしておけよ! どうなってんだよ法律は!」
叫んでから、天井を仰いだ。
「行政働けよ!」
一拍置いて、俺は乾いた笑いを漏らした。
「……働いてねえな! 俺、知ってる!!」
頼るべき場所が頼りにならないことを、俺自身が一番よく知っている。
さて。
どうする。
このままだと、内臓を売るか、マグロ漁船行きか、あるいはダンジョン素材の違法採掘にでも放り込まれるか。
どれも御免である。
「バイトや適当な仕事じゃ駄目だ……。あの額を返すには、普通に働いたって間に合わない」
それでも、生活費だけは何とかしなければならない。
今日食べるもの。明日食べるもの。再就職するにしても、逃げるにしても、金がなければ何も始まらない。
俺は机に突っ伏したまま、ふと、窓の外へ視線を向けた。
雑草の生い茂った庭。
その奥に、夕方見かけた古い倉庫――いや、蔵のような建物が、夜の闇の中に沈んでいる。
「……あそこ、まだ見てなかったな」
母屋は空っぽだった。
けれど、倉庫まで空だと決まったわけではない。
都合よく売れる工具や、古い道具や、骨董品の一つでも残っていれば、当面の食費くらいにはなるかもしれない。
「この期に及んで埋蔵金探しかよ……」
自分で言って、笑う。
だが、笑って済ませられるほど余裕はない。
俺は机から顔を上げ、スマホのライトを起動した。
「……見るだけだ。何もなければ、今日こそ本当に詰みってことで」
そう呟きながら、俺は縁側の戸を開けた。
夜風が、草の匂いを運んでくる。
その向こうで、祖父の残した古い倉庫の扉が、俺を待っていた。




