第31話 資料だけなら正しい
俺は現在、図書館の資料室にいる。
借りていた資料の返却と、昨日の会議で出たダンジョン賃貸計画の第一歩であるトイレ計画に必要な知識を得るためだ。
ダンジョンの草原に「トイレ予定地」などという看板が生えてしまった以上、こちらも現実から目をそらすわけにはいかない。
というわけで、住宅設備、災害時トイレ、仮設トイレ、浄化槽、衛生管理、感染症対策、臭気対策などの資料を探しに来ている。
現在、コアちゃんは児童書コーナーで勉強中である。
今回は「ことわざえほん」「人体のしくみ」「どうぶつのくらし」あたりを読ませている。
余計な知識を得て、また変な発想をしないか少し不安ではあるが、暦が時折様子を見てくれるようなので、おそらく、きっと、大丈夫。
……大丈夫だよな?
そんな暦は、俺の資料探しも手伝ってくれている。
図書館の妖精といっても差し支えない彼女のサポートは、非常に助かる。
どこに何があるか、この図書館のことなら、あのやる気のなさそうな司書より詳しい可能性が高い。
いや、利用者に負けるなよ司書。
とはいえ、前回の俺がここで迷子になっていたことを考えると、暦がいなければ今回も資料室の棚を前にして途方に暮れていただろう。
実際、専門外の資料棚というものは、文字が読めるだけで内容が理解できるほど甘くない。
そして鐘々は今朝、「ちょっと稼いでくる」とだけ告げて、どこかに消えた。
まだ完全回復はしていないと思う。
だが、本人に金を稼ぐやる気――いや、欲望が目に見えて戻ってきているのは、よいことではある。
なので、あえて止めないでおいた。
本人も言っていた。
「今日は欲望を削る稼ぎ方じゃなくて、頭を使う稼ぎ方をしてくるから大丈夫」
……不安だ。
金銭欲の魔神が「頭を使う」と言ったとき、それは本当に頭だけで済むのだろうか。
まあ、鐘々も一度倒れた身だ。
さすがに同じ失敗をすぐ繰り返すことはないだろう。
ないよな?
ないと信じたい。
俺はひとまず鐘々のことを脳内の保留箱に押し込み、目の前の資料に向き直った。
さて。そんなわけで、トイレの資料を開いてみた感想だが――何も分からない。
いやいや、文字は読める。
文字は読めるよ?
だが、頭に入ってこない。
浄化槽の構造、好気性微生物、嫌気性処理、沈殿槽、消毒槽、排水基準、点検義務、清掃頻度、臭気対策、仮設トイレの設置基準。
……うん、文字列としては理解できる。
だが、それぞれの言葉が俺の脳内で手を取り合い、最終的に「トイレって大変なんだな」という一文に圧縮されてしまう。
すごい。
説明まで読んでも、「へぇ、そうなんだ」で情報が完結してしまう。
これはあれだ。前提になる知識が、まったく足りていない。
小学生の社会科見学のほうが、まだ知識を得るにはましな気がする。
俺は隣にいる暦に助けを求めた。
「浅葱さん、これ分かる?」
「えっと……」
暦は資料を覗き込み、数秒でページ全体に目を通した。
そして、少し申し訳なさそうに言う。
「私、暗記はできるのですが……内容の理解ができているとは思わないでくださいね?」
とてつもなく不安になるお言葉をいただいた。
そう。暦は見たものを、かなり正確に頭の中へ残すことができる。
だが、それは理解とは違う。
つまるところ、理解力については、資料を見ているこの俺と大きく変わらないのだ。
それはそうだ。
大学の持ち込み許可の試験でも、誰もが満点を取れたわけではない。
手元に教科書があっても、資料を理解する能力がなければ、その仕組みを扱うことはできない。
暦が完璧に資料を覚えたとしても、その資料をもとに安全な設備を設計できるとは限らない。
俺がそれを見ながら欲望で作ったとしても、見た目だけは正しい危険物ができる可能性がある。
想像してみてほしい。出来上がった綺麗な水洗トイレ。だが、用を足してレバーを捻った次の瞬間、逆流して……怖っ。
「……できることがひとつ増えると、できないことが何倍にもなって徒党を組んで襲ってくるな」
思わず呟いた。
時間さえかければなんとかなると思っていた。
暦が資料を覚え、コアちゃんが形にし、俺の欲望で実体を作れば、いけるのではないかと思っていた。
だが、現実はそう甘くない。
資料を読み構造を理解する。
出来上がったものの安全性を判断する。
もし故障した時の対応を考える。
ダンジョンに業者を呼ぶわけにもいかないので点検もできなければならない。
そして、もし行政と関わった際には行政に説明できる形にする。
――やることが多すぎる。
これは本格的に詰んだか?
俺は開いた資料を前に、しばらく無言になった。
ちょっとこれは本格的にまずい。
脳細胞が悲鳴を上げている。
少し休憩がてら、理解できそうな資料を手に取ることにした。
『異形者居住適合判定基準』
資料には、そう書かれていた。
表紙には、綺麗な言葉が並べ立てられている。
『異形の方にも、安心できる住まいを』
『家主にも、近隣にも、本人にも安全な居住環境を』
『差別ではなく、適正な配慮を』
役所で見たポスターを思い出した。
ああ、あそこが作っている資料か……。
「言葉だけなら立派なんだよな」
実際のところ、役に立っているとは思えない。
少なくとも、異形側には。
中をぱらぱらとめくる。
そこには、異形によって変化する五感や能力、体格、人だった頃との違いについて細かく記されていた。
想像していたよりも、正しい異形の問題がそこには記されていた。
そう。異形になった者は、人間の枠を外れる。
鐘々のような異形なら、まだ通常の住宅でも暮らしやすい部類なのかもしれない。
だが、単眼になったことで視覚に変化が発生したであろう暦。
体躯が大きくなるオーガやトロールのような異形。
翼や尻尾などが生えた異形。
皮膚や鱗が通常の湿度に耐えられない異形。
そういった者たちが、人だった頃の感覚で生活すれば、間違いなくトラブルを起こす。
いや、本人がトラブルを起こすというより、住宅の側が本人に対応できない。
そう言ったほうが近いのかもしれない。
つまり、ここに書いてあることは正しい。
そして、彼らの生活を社会で保証するには、圧倒的に金が足りていない。
考えてみてほしい。
目が見えない人。
歩けない人。
音が聞こえない人。
そういった人へのバリアフリーが、今の社会で完全だろうか。
――否である。
役場時代に見た資料では、異形化する者は千人に一人程度の割合と言われていた。
思っているよりも少ないように見える。
だが、少ないからこそ厄介なのだ。
異形は全員が同じ規格ではない。
エルフ化した者。
オーガ化した者。
単眼種になった者。
鱗が生えた者。
翼が生えた者。
――それぞれ必要な配慮が違う。
千人に一人のための設備を作るだけでも大変なのに、その千人に一人の中でさらに必要なものが細かく分かれていく。
そんなもの、普通の大家が対応できるわけがない。
自治体だって予算が足りない。
結果として、「安全に住める場所を探すための基準」が、「住めない理由を並べるための基準」になっている。
役所での異形たちの相談風景を思い出した。
大柄な異形が、この体では入れる部屋がないと言っていたこと。
耳のよい異形が、共同住宅では暮らせないと言われていたこと。
そして暦は――単眼種であることで、資料すら借りるのを怖がっていた。
暦に聞けば、もっと色々と自身に降りかかった不幸を教えてくれるかもしれない。
だが、そこを根掘り葉掘り聞くのは気が引ける。
俺は最後に、資料の奥付を見た。
異形居住安全審査協会 北関東支部
居住適合判定課 主任審査員
白根律花
「白根律花……ね」
というか、監修をひとりにやらせているあたり、この団体も業務がブラックな気がする。
少しだけ親近感が湧いた。
「その資料、書いてあること自体は間違いではないんですよね……」
暦がぽつりと言った。
「異形になってない側のための資料って感じだけどな」
俺は資料を閉じて、少し考える。
トイレだけでも厄介なのに、どこまでも厄介事が増えていく。
だが、この資料――使える。
「この協会の、住めないという理由を並べた基準。これは使える」
「使える、ですか?」
「ああ。住めない理由は、逆に考えれば、そこを解決すれば住めるってことだ」
協会は、異形が普通の住宅に住めない理由を並べている。
だがそれは、裏を返せば、普通の住宅が異形に対応できない理由の一覧でもある。
床が弱いなら、強くする。
音が問題なら、防音する。
湿度が問題なら、調整する。
視線が問題なら、見られずに暮らせる導線を作る。
そうすれば、その理由で住居を追われる者を受け入れる受け皿になる。
賃貸で大変なのは、建物を建てるときだけではない。
建てた建物に、誰も入居しないときだ。
だが、この協会の「住めない理由」を逆に使えば、確実に需要が生まれる。
そう。
これは、ダンジョン賃貸の設計書になる。
「とりあえず、あとでコアちゃんの中でこれのコピーを生成させてもらおう」
「勝手に複製していいのでしょうか……?」
「研究用だ。研究用」
「駄目な人の言い訳みたいです」
「否定はしない」
俺は資料をもう一度開き、必要そうなページに目を走らせた。
トイレの資料よりは、まだ読める。
分かりやすいからではない。
これはたぶん、俺が知っている問題だからだ。
役場で見た。
窓口で聞いた。
そして今、目の前にいる暦がその問題の当事者だ。
資料の文字が、ただの知識ではなく、現実に繋がっている。
だから、読める。
腹は立つ。
だが、読める。
◇
白い机。
整えられた資料。
北関東支部、居住適合判定課。
きっちり切り揃えた黒のショートボブの女性が、眼鏡をくいと上げ、画面に表示された資料を見つめていた。
民間管理迷宮の申請書。
ダンジョンに人を住まわせる。
これは、まったく前例がないわけではない。
調査拠点。
研究施設。
探索者用の一時宿泊区画。
深層作業員の待機所。
そういった用途で、ダンジョン内部に人が滞在する事例はいくつか存在している。
だが、民間管理迷宮。
個人所有地に発生した小規模迷宮。
申請者は、元公務員。
それも、ダンジョン発生不動産を扱っていた部署の元職員。
そして、図書館の貸出履歴には住宅設備、仮設トイレ、浄化槽、異形者居住適合判定基準。
怪しさが爆発していた。
女性は、画面に表示された申請者名を見つめる。
網代駆。
「……民間管理迷宮で、何をするつもりですか?」
女性は呟いた。
眼鏡の奥の表情は、白い画面の光に隠れて見えなかった。




