#0-2:愚者国
銅貨がいくつかステージに投げ入れられる。
俺は軽く礼をして、それを拾い集めた。
稼ぎとしては、悪くない。
そう思いながらステージを降りたところで、一人の男に声を掛けられた。
「……なあ、あんた」
振り向くと、商人らしい身なりの男が、杯を片手にこちらを見ていた。
「ん? なんだい?」
俺は愛想良く答える。
男は少しだけ目を細めて、言った。
「あんたの唄は、軽いんだな」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……軽い?」
この街では、俺はそこそこ名の知れた唄い手だ。
酒場に来る客達も、俺が唄えば笑い、手を叩き、銅貨を投げてくれる。
その俺の唄を、この男は軽いと言った。
眉間に皺が寄るのが、自分でも分かった。
「……おい、あんた。随分な言い草だな」
男は悪びれもせず、葡萄酒を一口飲んだ。
「悪いとは言ってないさ。耳に残るし、調子もいい。客を楽しませる唄としては上等だ」
「じゃあ、何が言いたいんだよ」
男は杯を置き、俺を見た。
「物語がないんだよ」
「……物語?」
「そうだ。あんたの唄には、まだ何も起きていない」
その言葉に、胸の奥が少しざわついた。
何も起きていない。
そんなはずはない。
今の唄だって、この国の明るさや気楽さを唄ったものだ。
客達は笑っていたし、杯も鳴らしていた。
「聞いてなかったのか? 陽気なこの国を唄っただろ」
「聞いてたさ。陽気だった。楽しかった」
男はそこで、少しだけ笑った。
「でも、それだけだ」
苛立ちが、声に滲んだ。
「それだけじゃ悪いのかよ」
「悪くはない。この国の酒場で聞くなら、それで十分だろうな」
男の言い方は静かだった。
だからこそ、余計に腹が立った。
「けどな、陽気なだけじゃ、人の胸の奥までは届かない」
そう言って、俺を見上げて言った。
「陽気なだけじゃ、人は感動させられないぜ」
俺は言い返そうとして、言葉に詰まった。
胸の奥。
その言い方が、なぜか引っかかった。
確かに、俺は陽気な唄ならいくらでも唄える。
酔っ払いを笑わせることも、観光客を喜ばせることもできる。
けれど、人を黙らせるような唄。
誰かの涙を誘うような唄。
聞いた者が、しばらくその場から動けなくなるような唄。
そういうものは、どうにも思い浮かばなかった。
黙った俺を見て、男は隣の椅子を顎で示した。
「座れよ。少し話そうぜ」
普段なら、こんな嫌味な男の隣になど座らない。
けれど俺は、男の次の言葉を聞きたくなっていた。
仕方なく椅子に腰を下ろすと、男は低い声で続けた。
「俺は商人だ。大陸全土で商売をしてる」
「へぇ。そりゃ、ご苦労なことで」
皮肉を返したつもりだったが、男は気にも留めなかった。
「大陸は今、少しずつおかしくなってる」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「……戦争の話か?」
「ああ。まだ遠くの火事みたいに思ってる奴も多いがな。俺には、そうは見えない」
男は杯の中の葡萄酒を揺らした。
「この火は、いずれ大陸全体に広がるかもしれない」
喉が、自然と鳴った。
大陸全体。
その言葉は、酒場の喧騒の中で、妙にはっきり聞こえた。
「戦争はな、国を変える。人の顔も、声も、笑い方も変えちまう」
男の目は、もう俺ではなく、どこか遠くを見ていた。
「数年前に通った国へ、また商いに行ったんだ。前はよく笑っていた人達が、最近は誰も笑わなくなっていた」
俺は何も言えなかった。
「そういう顔を、見たことがあるか?」
「……ない」
「なら、あんたの唄が軽いのは当然だ」
男は責めるでもなく、ただそう言った。
「見たことのないものは、唄えない。知らない痛みは、物語にならない」
その言葉が、胸に刺さった。
腹が立つのに、言い返せない。
たぶん俺は、同じことをどこかで薄々感じていた。
男は俺を見る。
「詩人なら、見に行ってみたらどうだ」
「……どこへ」
「どこへでもさ。大陸には、二十二も国がある。陽気な国ばかりじゃない。賢い国も、豊かな国も、強い国も、祈る国もある」
そして、男は少しだけ口元を緩めた。
「そこには、あんたの知らない物語がある」
俺は掌を開き、握っていた銅貨を見た。
この国で唄っていれば、今日も明日も飯には困らない。
酔っ払い達は笑い、銅貨を投げてくれる。
それで十分だと思っていた。
少なくとも、さっきまでは。
(……旅、か)
胸の奥で、何かが小さく鳴った気がした。
男は残っていた葡萄酒を飲み干すと、「酔っぱらったな」と笑って席を立った。
それから、思い出したように付け加える。
「星国って国がある。あそこは芸術が盛んな国でな。街も人も、驚くほど美しい」
「見に行くなら、そこもいい」
男はそう言い残して、酒場を出て行った。
俺は、客がまばらになる深夜まで、酒場の隅で考え込んでいた。
物語。
旅。
大陸にある、俺の知らない国々。
今まで、俺の世界はこの国だけだった。
この国で唄い、銅貨をもらい、飯を食う。
酔っ払い達が笑ってくれれば、それでいいと思っていた。
けれど一度気になり始めると、もう駄目だった。
知らない国がある。
知らない人がいる。
知らない物語がある。
そう思うたび、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなった。
* * *
次の日の朝。
俺は、まだ開店前の酒場の扉を開けた。
マスターは、モップで床を水拭きしているところだった。
俺に気づくと、怪訝そうに眉を上げる。
「なんだ、ジル。やけに早いな」
それから、俺の肩にかかった荷物に目を留めた。
「……ん? なんだ、その荷物」
俺は息を吸い、はっきりと言った。
「俺、旅に出ることにした」
マスターは一瞬黙った。
それから、深いため息を吐く。
「……旅って、お前。どこへ行くつもりだよ」
「全部だ。大陸中、全部見てくる」
「全部ってなあ……」
マスターは呆れたように、もう一度ため息を吐いた。
「旅してどうするんだよ」
俺は胸を張った。
「物語だ。物語を探しに行ってくる」
マスターはモップを壁に立てかけ、俺を見る。
「お前なあ。他の国じゃ、戦争が始まるかもしれないんだろ。何もそんな時に行かなくてもいいじゃないか。危ないだろ」
俺は首を振った。
「いいや。今だから行くんだ」
自分で言いながら、それがどれほど無鉄砲な言葉なのか、少しも分かっていなかった。
ただ、胸の奥で鳴ったものを、もう無視できなかった。
「大陸を見なくちゃ、いい唄は唄えない。俺の知らない物語を、ちゃんと見てくる」
マスターはしばらく俺を見ていた。
「止めても無駄だぜ」
そう言った俺に、マスターはまた大きく息を吐いた。
「……止めねえさ。ここは愚者国だ。誰がどこへ行こうが、そいつの勝手だ」
そして、少しだけ笑う。
「ただし、ツケは払ってから行け」
俺はその言葉を聞いた瞬間、颯爽と踵を返した。
「ごめん! 帰ってきたら必ず払う!」
「おい!」
俺は酒場の扉を開け、朝の通りへ飛び出した。
背中に、マスターの怒鳴り声が飛んでくる。
「必ず払えよ! 忘れたら承知しねえからな!」
俺は振り返らず、片手を上げた。
荷物は軽い。
心も軽い。
行き先なんて、空に聞けばいい。
そんな気持ちで、俺は愚者国の道を駆け出した。
* * *
ゆっくりと、三日ほど歩いただろうか。
愚者国の端に近い街道へ差しかかったところで、俺は道沿いに掲げられた旗を見て、思わず足を止めた。
ここは、まだ愚者国のはずだった。
それなのに、風に揺れていたのは、隣国である魔術師国の旗だった。
道は、何も変わっていない。
土埃の匂いも、荷車の車輪が軋む音も、すれ違う旅人達の声も、昨日までと同じようにそこにある。
誰も、気にしていないようだった。
それなのに、道の脇に立つ旗だけが、いつの間にか変わっていた。
国の境目なんてものは、もっとはっきりしていると思っていた。
けれど実際には、旗ひとつで、こんなにも静かに変わってしまうらしい。
胸に、ぞっとするものが走った。
あの穏やかで自由な国は、いつか本当になくなってしまうのだろうか。
俺は来た道を振り返った。
愚者国は、まだそこにある。
そう思いたかった。
俺は、リュートを握りしめた。
明日の雨など 風まかせ。
道を外れりゃ、歌えばいい。
そう小さく口ずさみながら、俺は足を速めた。
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