#0-1:愚者国
(いい天気だなあ……)
空に向かって、大きく伸びをした。
眩しいくらいの青空だった。
白い雲がゆっくり流れて、通りの向こうでは、朝から誰かが笛を吹いている。
その音を聞きながら歩き出そうとした瞬間、何かが腹にぶつかった。
「きゃははははっ……あっ!」
「いって! ……おい、気を付けろよ。危ないだろ!」
見下ろすと、子どもが尻餅をついていた。
けれど泣くどころか、満面の笑みで俺を見上げてくる。
「あははっ。ジル、ごめん! 今日はどこで唄うの?」
まったく、反省している顔じゃない。
「いつもの酒場だな。観光客が来てるらしいぜ」
「そっか! 今日も楽しい唄、聞かせてあげてね!」
子どもはそう言うなり、ぱっと立ち上がって、また通りを駆けていった。
「またぶつかるぞ! あんまり走るなよ!」
俺の声など聞こえているのかいないのか、子どもは笑いながら人混みの中へ消えていく。
俺はその背中を見送ってから、酒場へ向かって歩き出した。
俺の名は、ジル。
詩人だ。
年齢は、多分十九くらい。
正確なところは分からない。
親に捨てられ、気づいたときには、この国に流れ着いていたからだ。
小さい頃は、行き着く先々の大人が、面倒を見てくれていた。
けれど大きくなるにつれ、ただ飯にありつくことは難しくなった。
だから仕方なく、拾ったリュートを抱え、詩人の真似事を始めた。
幸い、才能はそこそこあったらしい。
それ以来、俺は唄を唄い、その日その日の飯代を稼いでいる。
ここは、愚者国。
自由を愛し、人々は皆、どこか呑気だ。
詩人、絵描き、旅芸人。
夢を見る者、明日を考えない者、どこかの国から流れ着いた者。
そんな奴らがたくさんいて、開放感に溢れたこの国を目がけて、今日も人が訪れる。
だから街は、いつも活気がある。
俺はこの国が好きだった。
明日のことなんて、誰も考えていない。
それでも生きていける。
それが、愚者国だった。
いつもの酒場の扉を開ける。
昼間だというのに、すでに酔っ払いが多い。
それもまた、いつもの光景だ。
馴染みのマスターに声を掛ける。
「よっ。今日はどんな感じ?」
マスターは杯を拭きながら、俺を見た。
「よお、ジル。観光客や商人が来ててな。そこそこだな」
そう言うと、葡萄酒の入った杯を目の前に置いてくれた。
唄う前に、喉を潤すためだ。
ゆっくりと葡萄酒を飲んでいると、ふと、隣の席から話し声が耳に届いた。
「……あの国は、先行きが怪しいな」
「ああ。この間、俺も行ったが、物が全然売れなかったぜ」
俺は話し声の方へ、首を向ける。
身なりからして、商人のようだった。
大陸のどこかで、戦争の火種が燻っているらしい。
俺も先日、別の商人から聞いたばかりだった。
葡萄酒を口に含みながら、マスターに尋ねる。
「……なあ。戦争ってさ、大ごとになるのかな」
マスターは俺に目もくれず、「さあなあ」と言った。
俺は、構わず続ける。
「この国も、危なくなったりするのかな」
そこでようやく、マスターは杯を拭く手を止めた。
けれどその顔は、いつもと変わらず呑気だった。
「この国は大丈夫だろう。戦争の心配はないさ」
その口ぶりに少し安心しながらも、胸の奥には、数日前から小さな違和感が燻っていた。
商人達は、しきりと戦争の話をする。
けれどこの国の人々は、誰もその話をしない。
(……本当に、大丈夫なのかな)
そう思っていると、マスターが呆れたように言った。
「余計なこと考えてないで、さっさと飲んで稼いでくれ。お前のツケだって溜まってるんだからな」
痛いところを突かれ、俺は苦笑いした。
「分かってるって」
残っていた葡萄酒を一気に煽り、席を立つ。
店の中央にある小さなステージへ向かうと、酔っ払い達がこちらを見た。
観光客らしい者もいれば、旅装の商人もいる。
皆、明るいものを待っている顔だった。
戦争の話なんて、誰も聞きたくない。
少なくとも、この国では。
何を唄うかは、もう考えなくても分かっていた。
明るくて、調子がよくて、酒が進む唄。
この国の客は、そういうものを喜ぶ。
俺も、それでいいと思っていた。
けれど最近、唄い終わったあとに銅貨を拾い集めていると、胸の奥が少しだけ空っぽになることがあった。
客は笑っている。
俺も笑っている。
なのに、何かが足りない気がする。
そんなことを考えるのは、きっと腹が減っているせいだ。
俺はそう決めつけて、リュートを構えた。
(……さあ、景気のいいやつをやるか)
俺はリュートを構え、弦を鳴らした。
そして、いつものように唄い始めた。
――
明日の雨など 風まかせ
道を外れりゃ 歌えばいいさ
青い星まで 杯掲げ
転んだ先にも 夢はある
荷物は軽く 心も軽く
行き先なんて 空に聞け
――
唄い終える頃には、酔っ払い達が手を叩き、杯を鳴らしていた。
その明るい音は、遠くで燻る戦火をかき消しているだけだとも知らずに。
お読み頂き、心から感謝しています。
仕事をしながら、創作活動に日々励んでおります。
↓にございます、リアクションボタンや、★でのご評価を頂けますと、今後の活動の励みになります。
是非、ご協力のほど、宜しくお願い致します。




