【9】担任、ついに普通に名前を呼べました。〜物理を使って進化して、歌っ踊って逃げた件〜
翌日、莉緒は元気良く登校した。
菊乃が自家用車で登校したら? と言ってくれたが、桜ノ葉学院は基本的に自家用車での送り迎えは禁止なので断った。
(車で登校なんてしたら、速水先生に心配されちゃう!)
そう心の中で意気込む莉緒に、菊乃がホホホと嬉しそうに笑う。
「莉緒ちゃんが、元気になってくれて本当に良かったわ❤️」
そうして、菊乃は普段通り、莉緒を門の外まで見送った。
教室に入ると、既に登校していた紬に、莉緒が隣の席に座ると、にこりと微笑む。
「紬! 昨日は動画をありがとう!
何回も観ちゃった!」
すると、紬が莉緒の口を手で塞ぎ、小さな声で言った。
「莉緒――
あの動画は誰にも見せちゃ駄目だよ!?
あの動画は二人の秘密だからね……!」
紬は可憐な顔の中にある、クリっとした茶色がかった瞳を鋭くさせて言う。
莉緒がウンウンと頷くと、紬は莉緒の口元から手を離し、ハーッと深いため息を吐いた。
まるで、くたびれた管理職のように。
「……紬……どうしたの?」
莉緒が心配そうに訊いた時――
速水先生が「皆さん、おはようございます!」と颯爽と教室に入って来た。
そして、速水先生が出欠簿に手を掛ける。
莉緒以外のクラスメイトの目は、先生に釘付けだ。
もちろん、紬も。
すると、先生は言った。
「綾小路莉緒さん」
初めて莉緒の名前を普通に呼べた速水先生。
教室に広がるざわめき。
それは、速水先生が莉緒を普通に呼べたからでは無い。
莉緒が「はい」と答え、静かに手を挙げる。
そうして、莉緒が先生を見ると――
速水先生は透明な下敷きを、莉緒が座る方角に立てて持っていた。
速水先生が一旦職員室に戻り、授業の準備をしていると、隣りの菱田先生が言った。
「速水先生、昨日は部活で棒高跳びに熱中されていたとか?
お身体の具合は大丈夫ですか?」
速水先生が爽やかな笑顔で答える。
「全然!
最近、身体が鈍っていたので、良い運動になりました!」
そして、速水先生はすっと菱田先生に近づくと、低い声で言った。
「し・か・も!
僕は最初は無意識だったんですけど……メガホン越しだと、普通に喋られることに気がついて!
これで、完璧です!」
そうして、誇らしげに透明な下敷きを見せる速水先生。
菱田先生は、「そうですか! 良かったですね! お先に!」と言うと、そそくさと職員室を出て行く。
菱田先生は速水先生の説明が謎過ぎて、眉間に皺を寄せながら廊下を歩いていた。
(メガホン越しだと普通に喋られるって何!?
速水先生……今までメガホンなんか無くても、普通に喋っていたじゃないですか……!!
それに、透明な下敷きで、完璧って何!?
意味が全く分からない……!!
国語の先生ですよね……!? 速水先生!!)と。
そうして、昼休み。
紬がお弁当を食べながら、グビッとポットの冷茶を飲む。
莉緒が心配そうに口を開く。
「……紬……朝からなんだか変だけど……。
何かあったの?」
紬がポツリと答える。
「はやみん……昨日、動画を撮った時、もう普通のお猿さんじゃなくて、野生のお猿さんでさあ……。
それに……今朝、莉緒の名前ちゃんと呼べたじゃん?」
莉緒が美しい笑みを浮かべて答える。
「うん!
嬉しかった!」
すると、紬が瞳を見開いて、莉緒を見た。
「でもね……透明な下敷き使って呼んでたんだよ!?
次の鮎川さんには下敷き使って無かった……!!
もう……はやみんが分からん!」
莉緒はうーんと考えると、パッと笑顔になる。
「……もしかして!
速水先生って重度の花粉症なんじゃないかな!?
私の席は窓側だったから、下敷きで風を避けたとか!」
紬が心の中で叫ぶ。
(窓際の生徒は莉緒だけじゃないし!!
窓も開いて無いし!
下敷きを使ったのは莉緒だけなの!)
しかし、黒曜石のような丸く大きな瞳をキラキラ輝かせ、紬の返事を待っている莉緒に――
紬は、昨日からの疲れも相まって脱力し、「……かもね」と答えるのが精一杯だった。
今日は国語の授業は無かった。
そして、速水先生は帰りのホームルームでも、「綾小路莉緒さん」と呼ぶ時に、透明な下敷きを使った。
紬はもう何も言わなかった。
紬は感心してたのだ。
(はやみん……昨日、メガホンで莉緒に話しかけてる時、普通に喋ってた!!
物理越しだと、莉緒と普通に喋れるって気づいたんだ……!!
昨日、野生のお猿さんに戻ったから、一周回って道具を使うことを覚えたのか……。
今日は莉緒を見てもピョンピョン飛んで無いし、はやみん進化してる!!)と。
そして、紬は今日はテニスのレッスンがあったので、ホームルームが終わると直ぐに「莉緒、また明日ね〜!」と笑顔で帰って行った。
莉緒は何となく、帰りがたかった。
速水先生に動画のお礼を言いたいな、と思って。
でも、速水先生は莉緒と挨拶してもピョンピョン飛ばなくなったが、さっと消えてしまう。
(もしかして……先生は、私が紬に先生の写真を欲しいと言ったから、紬に動画にしようと言われて、無理したのかなあ……迷惑だったのかなあ……)
クラスメイトも「ごきげんよう、さようなら」と言って教室を出て行く。
莉緒は一人になると、イヤホンをして先生の動画を見た。
(速水先生……無理させちゃってごめんなさい……)
昨日、あんなに楽しかった動画を見ても、心は晴れない。
それでも繰り返し動画を観ていると――
「あやっ……綾小路さんっ……!! どうかしましたか!?」と頭上から降ってくる声。
莉緒は速水先生だと分かっていたので、俯いたまま、言った。
「先生……昨日の動画、ありがとうございました。
無理させてしまったみたいで、ごめんなさい」
すると、速水先生は静かに答えた。
「無理なんてしてませんよ。
僕の棒高跳びなんかで、あやあやあや綾小路さんが元気になってくれて嬉しいです」
莉緒が顔を上げると、先生はにっこり笑って言った。
「今度は……そうだなあ……ハードルを飛びますか!?」
莉緒もふふっと笑うと訊いた。
「先生は完成した動画を観ましたか?」
すると、速水先生は急にショボンとして答える。
「藤宮さんからのメッセージ……待ってたんですけど、僕には来ませんでした」
「じゃあ、これ」
莉緒が白いイヤホンを一つ、手の平に乗せて先生に向ける。
先生は一瞬ビクッとしたが、「……恐れ入ります……!」と言ってイヤホンを耳に装着した。
莉緒も残りのイヤホンを耳に着けると、速水先生の動画を再生する。
先生は食い入るように動画を観ていた。
そして、「もう一度お願いします!」と言って三回観ると、嬉しそうに笑った。
「良かったです! 僕のフォームは乱れていませんね!
あああ綾小路さんに、ちゃんとした棒高跳びを観て貰えて良かった〜!」
莉緒はクスッと笑うと、動画のBGMの『カッコよくてスマン☆』を口ずさむ。
「カッコよくてスマン☆
魅せちゃってる俺、スマン☆
君の瞳一人占め、スマン☆」
先生も歌い出す。
バク転しながら、一回転しながら、水平に飛びながら――
「ネッ☆素敵過ぎてスマン☆
ネッ☆尊くてスマン☆
ヨッ☆君だけを見てる、僕の視線、熱くてスマン☆」
そして、ビシッと莉緒を指差し決めポーズを取ると……
速水先生は突然、火山のマグマ色の顔色になり――
「さようならーーー!! お気を付けてーーー!!」と叫びながら、教室から出て行った。
莉緒は嬉しかった。
(先生、喜んでた!
迷惑じゃなかったんだ!)
莉緒もスマホを仕舞うと、弾んだ気持ちで教室を出た。
そして、偶然通り掛かった菱田先生は――
速水先生が歌って飛び跳ねているところから見てしまい……
(速水先生のご都合が合えば……今夜、食事でもしながら先生の悩みを聞こう!)
と決意していた。
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