【17】先生は二刀流、最強祖母はお百度参り。〜それってただの草野球ですよね?〜
そして菱田先生は、速水先生から聞いてしまったのだ。
警視庁SPには草野球チームが存在し、ゴールデンウィークに財務省の草野球チームと、本当に試合があることを。
菱田先生はまたも、驚きを通り越し、脱力していた。
そして――
(財務省の人たち……。
ああいう官僚の人も草野球するんだ……)
と、ぼんやり考えていたが――
「前々から、誘われてはいたんです!」
始まった。
速水先生のマシンガントークが、菱田先生の考えを一瞬で吹き飛ばす。
「助っ人頼むって!
でも、SPは分かってないんですよね!
我々教師がどんなに忙しいか!
だから、逆に!
逆にね! 無視していたんです!
僕は、無視なんてしたくないですよ?
でも教師の忙しさを分からないSPを無視しても、それは正しいですよね!?」
止まらない。
菱田先生の顔が、今度は理解不能でクシャッとなる。
(速水先生……!
SPだって忙しいですよ!!
何なら、俺たちより命がけでは!?
よく知らないけど、訓練とかもあるのでは!?
正しいか正しくないかより――
国語教師なのに、『逆に』の連発で無視を正当化しないで下さいよ!!)
すると、速水先生が、突然静かになった。
菱田先生の心臓がドンと鳴る。
――恐怖で。
「でも……菱田先生のお陰で気づいたんです……」
(何に!?)
「ゴールデンウィークには、生徒は学校に来ない」
(はい)
「ならば――」
(ならば?)
「草野球をやるべきだと……!」
(なんで!?)
「菱田先生、本当にありがとうございます」
そうして、菱田先生に深々と頭を下げる速水先生。
菱田先生は内心、完全にパニックを起こしていた。
(俺のお陰……!?
俺が何か言いましたか!?
あー……生徒たちのバードウォッチングで速水先生が感動し過ぎて、俺が自分の心と肩を守ろうとした時……!?
ポロッと言っちゃった、あれ!?
というかね! 速水先生!
ゴールデンウィークに生徒は学校に来ない!
それは常識!!
去年まで、理解していましたよね!?
なぜ、今年になって、また理解を深めたんですか……!?
しかも、「ならば、草野球をやるべき」とは!?
生徒が学校に来ない。
イコール。
草野球。
その間に何があったんですか!?
飛躍した部分を説明して下さい……!!
あーーー!!
帰りたい!!
でも、帰れない……!
こんなに頭を下げて感謝してる同僚を放り出せない……!
隣の席だし……!!)
菱田先生はウーロン茶を一口飲んだ。
コホンと咳払いをする。
(大丈夫。落ち着け。
一つずつ整理すればいい。
相手は同僚だ。
国語教師だ。
話せば分かる)
菱田先生は、何とか自分を立て直すと言った。
「成る程!
じゃあ、話を纏めますね!
速水先生はゴールデンウィークに、SPの草野球チームに二刀流で出場したい!」
「はい!」
「でも、森谷先生にそれを言ったら、怒られた!」
「はい!」
「僕は森谷先生のお言葉にも一理あると思います!」
「はい!」
「普通の人は、ピッチャーと四番打者をやりたいなんて言わないので!」
「はい!」
(返事だけは素直だな!!)
そう思いつつ、菱田先生は続ける。
「特に森谷先生は体育教師なので、そういうところ、敏感に反応しますよね!
でも、速水先生の情熱は分かりました。
僕からも、森谷先生に頼んでみます!」
その瞬間――
速水先生がガバッと顔を上げた。
そして、菱田先生の手を両手でガッシリ掴む。
「ありがとうございます!!」
(痛い痛い痛い!!)
心の中で悲鳴を上げる菱田先生。
しかし全く気づかない速水先生は言った。
「菱田先生と森谷先生がいてくれたら、僕も頑張れます!」
あまりにも爽やかな笑顔で。
そして――
菱田先生はまたも、自分に特大ブーメランを放ってしまった。
しかも今回は、放った瞬間に戻ってきた。
その頃、綾小路家でも――
ゴールデンウィークの草野球に向けて、静かに、しかし確実に準備が進んでいた。
莉緒はいつも通り学校生活を送り、その裏で菊乃は、近所にある1000年以上の歴史ある縁の神社から、お百度参りの許可を頂いていた。
そして、まだ空も薄暗い、朝4時。
菊乃は動きやすい服装に身を包み、静まり返った神社の境内に立っていた。
直哉の草野球チームの必勝祈願である。
まず本殿に向かって深く一礼。
それから百度石の前に立ち、本殿へ向かう。
本殿の前で手を合わせて祈り、再び百度石まで戻る。
そして、また本殿へ向かう。
それを百回繰り返す。
菊乃は背筋をピンと伸ばし、歩き始めた。
一度目。百度石から本殿へ向かい、手を合わせる。
(直哉さんが、どうか怪我なく活躍出来ますように)
祈り終えると、百度石へ戻る。
そして、また本殿へ。二度目。
(直哉さんのチームが、必ず勝ちますように)
再び、百度石へ。三度目。
(出来れば大差で)
百度石へ戻る。四度目。
(いえ。油断はいけません。まずは一点ずつ確実に)
また、百度石へ。五度目。
(直哉さんが打席に立った際には、何卒よい球を)
そして、百度石へ。六度目。
(いえ、よい球では相手投手に失礼ですわね。どのような球でも直哉さんが打てますように)
早くも祈願の内容が具体的になってきた。
それでも、菊乃の足取りは乱れない。
百度石から本殿へ。
手を合わせて祈り、百度石へ戻る。
そして、また本殿へ。
ひたすら、それを繰り返す。
二十度。
三十度。
四十度――
空が少しずつ白み始める。
(守備の皆様も、どうかエラーをなさいませんように)
五十度。
(打線も繋がりますように)
六十度。
(出来ましたら、初回に先制を)
七十度。
(追加点も早めにお願い致します)
八十度。
(出来れば最終回まで、こちらが安心して観戦出来る点差で)
もはや必勝祈願というより、試合展開への細かな要望になっていた。
だが、菊乃は真剣だった。
全国大会ではない。
甲子園でもない。
財務省と警視庁SPの草野球。
しかも、ゴールデンウィークの一試合。
だが、菊乃には関係ない。
直哉が出場する。
ならば――
勝って欲しい。
出来れば怪我なく。
出来れば大差で。
出来れば直哉も活躍して。
出来れば最後まで一度も危なげなく。
そして、出来れば莉緒が安心して観戦出来る試合展開で。
願いは、どんどん増えていた。
九十八度。百度石へ戻る。
九十九度。また戻る。
百度。
本殿の前で手を合わせた菊乃は、長い祈りを終えると、静かに目を開けた。
これで百回。
お百度参りは終わりである。
菊乃は本殿に向かって深く頭を下げ、百度石へ戻った。
そして――
もう一度、本殿へ向かって歩き出した。
百一度目。
(最後にもう一度だけ――直哉さんのチームが必ず勝ちますように!)
祈りを終える。
菊乃が目を開ける。
そして――
(……もう一度くらい)
足が百度石へ向かいかける。
だが、途中でピタリと止まった。
「……いけませんわ」
危うく百二度参りになるところだった。
菊乃は静かに踵を返し、本殿に向かって深々と頭を下げた。
(あとは当日ですわね)
最強祖母は、まだやる気だ。
そうして、ようやく神社を後にする。
鳥居をくぐる頃には、薄暗かった空もすっかり明るくなっていた。
朝の住宅街を歩き、綾小路家へ戻る。
玄関を静かに開けると、まだ家の中に人の動く気配はない。
菊乃はそのまま浴室へ向かい、汗を流した。
浴室を出る頃には、二階から微かな物音が聞こえ始める。
莉緒が起きる時間が近い。
菊乃は鏡の前に座り、手早く髪を整える。
いつもの着物に袖を通し、帯を締める。
最後に鏡の中の自分を確認した、その時――
二階から莉緒が降りてくる足音がした。
菊乃の表情が、瞬時に柔らかくなる。
そして、莉緒が姿を見せると――
「莉緒ちゃん、おはよう❤️」
いつもと変わらない、優雅な笑顔。
そこには、つい先ほどまで神社で百一度も必勝祈願をし、危うく百二度目に突入しかけていた人物の面影など、一切なかった。
莉緒は、朝4時から祖母が父親の草野球のためにそこまでしていることなど、知る由もない。
そして、志穂はもちろん働いているので、お百度参りまでは到底出来ない。
だが、菊乃から「あなたも妻として、直哉さんの必勝祈願をなさい!」と厳命され、一日に一度、将門塚にお参りをしていた。
しかし、志穂も嫌々やっているわけではない。
こちらも本気だ。
(直哉さんのチームが勝てるように、お力をお貸しくださいませ!)
直哉の癒しの笑顔を悲しみにしたくない!
その一心で。
こうして――
菊乃は毎朝、お百度参りプラス一回。
志穂は毎日、将門塚へお参り。
さらに応援グッズも着々と増えていく。
ただの草野球のはずなのに、綾小路家だけは、もはや決勝戦を迎えるような勢いで準備が進んでいた。
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