第四話「大魔導士と先遣隊」 後編
五
「……さすがに、全魔力解放は体にこたえるわい」
兵士たちの姿が完全に見えなくなってから、メルヴィンは——ふぅ、と大きく息をついた。
杖に体重を預け、わずかによろめく。
さっきまでの威厳ある大魔導士の姿は消え、そこにいるのは、疲れた老人だった。
「魔法使い様……! 大丈夫ですか?」
麗良が駆け寄った。
「大丈夫じゃ、大丈夫じゃ。ちと派手にやりすぎたかもしれんがの。年寄りの冷や水というやつじゃ」
「冷や水どころじゃなかったですよ……」
麗良は、まだ心臓がばくばくしていた。
あの暴風。あの魔力。あの咆哮。
目の前で見たものが、まだ信じられない。カボチャを馬車に変える魔法も驚いたが、あれとは次元が違った。
「だ、大魔導士様……!」
背後から、甲高い声がした。
振り返ると、アナスタシアとドリゼラが、おそるおそる壁際から出てきていた。
二人の顔は、さっきまでとは打って変わっていた。
疑いの色は、跡形もなく消えている。代わりにあるのは、畏怖と、敬意と、そして——すがるような必死さだった。
「さきほどはとんだ失礼を……! 薄汚いだなんて、とんでもない、大変ご立派なお姿で……!」
アナスタシアが、深々と頭を下げた。さっき「薄汚い」と言ったのは自分だということを、都合よく忘れたいらしいが、忘れきれていない。
「どうか、安全な場所までご一緒させてくださいませ! お願いいたします!」
ドリゼラも、必死に頭を下げている。
手のひら返しが、あまりにも鮮やかだった。
(……お姉様たち、ブレないなぁ。ある意味すごい)
麗良は、呆れ半分、感心半分で義姉たちを見つめた。
メルヴィンは、二人を見下ろして、ふん、と鼻を鳴らした。
「さっきは『怪しい』だの『薄汚い』だの言うておったくせに、現金な娘たちじゃな」
「も、申し訳ございません……!」
「まあよい。——お嬢さん」
メルヴィンが、麗良に向き直った。
「先遣隊は退けたが、あの兵士長の言う通り、次はもっと大勢で来るじゃろう。この屋敷にいるのは危険じゃ。国境と反対方向の町まで移動した方がいい」
「はい。……お義母様が戻ったら、すぐに出発しましょう」
「継母殿は外出中なのか」
「はい。町に買い物に——」
「ならば、町で合流すればよい。荷物をまとめなさい。最低限のものだけでいい。すぐに出るぞ」
メルヴィンの声には、有無を言わせぬ響きがあった。
麗良は頷き、屋敷の中に駆け込んだ。
着替え。食料。水。そして——床下から、布に包んだガラスの靴を取り出す。
片方だけの、ガラスの靴。
もう片方は、今頃、アレクシス王子の手の中にあるはずだ。
(王子様……)
胸が、きゅっと痛んだ。
王子様がガラスの靴を持って、国中を回ってくれている。もうすぐ、この屋敷にも来てくれるはずだった。
なのに——屋敷を離れなければならない。
王子様が来た時、ここにいなければ、見つけてもらえない。
(でも……今は、逃げるしかない)
ガラスの靴を、しっかりと胸に抱いた。
(王子様。待っていてください。必ず——必ず、また会いに行きますから)
麗良は、荷物を抱えて屋敷を出た。
六
その頃——。
エステリア王国、王都。
アレクシス王子は、ガラスの靴を携えて、郊外の屋敷を回っている最中だった。
今日で三軒目。どの家の娘にも、靴は合わなかった。
「次の村は、街道を東に——」
セバスチャンが地図を広げかけた、その時だった。
蹄の音が、猛烈な勢いで近づいてきた。
街道の向こうから、一騎の馬が全速力で駆けてくる。馬は汗だくで、騎手の顔は土埃にまみれている。
早馬だ。
「殿下! 至急の報告がございます!」
騎手が馬から飛び降り、片膝をついた。息が荒い。相当な距離を、休みなく走ってきたのだろう。
「何事だ」
アレクシスの声が、瞬時に王子のそれに切り替わった。
「ガルディア王国の軍が、国境付近に展開中です。先遣隊と思われる小部隊が、すでに国境を越えて我が国の領内に侵入した形跡があります」
空気が、変わった。
セバスチャンの顔から血の気が引く。護衛の騎士たちが、剣の柄に手をかける。
アレクシスだけが、表情を変えなかった。
いや——変えなかったのではない。変えることを、自分に許さなかったのだ。
「……規模は」
「国境付近に展開している兵力は、現時点で推定三百から五百。ただし、後方に予備兵力が控えている可能性があります」
「三百から五百……」
アレクシスは、馬上で目を閉じた。
思考が、高速で回転する。
ガルディアが兵を動かした理由。いくつかの可能性が、頭の中に浮かぶ。
一つ。国境付近の鉱物資源。鉄と銅の鉱脈は、ガルディアにとって喉から手が出るほど欲しいものだ。通商条約の交渉で、アレクシスはガルディア側の要求を退けた。鉱山の利権を渡すつもりはなかった。それが、武力行使の引き金になった可能性がある。
二つ。通商条約そのものの決裂。関税の引き下げ、通行権の拡大——ガルディアの要求は、エステリアにとって受け入れがたいものばかりだった。交渉が行き詰まれば、ガルディアが実力行使に出ることは、十分にあり得た。
そして——三つ。
アレクシスの脳裏に、舞踏会の夜が過ぎった。
大階段で、ガラスの靴を巡って対峙した三人の王子。レオンハルトの黒い瞳。「私は、あの方を諦めたわけではない」という言葉。
あの正体不明の美姫のことも——きっかけの一つかもしれない。
直接の原因ではないだろう。だが、火種に油を注いだ可能性はある。レオンハルトが彼女に心を奪われていることは、舞踏会の夜に見て取れた。恋に落ちた王子の心を、周囲の者が利用しないはずがない。
(……私のせいか)
舞踏会を開いたのは、自分だ。彼女にもう一度会うために。その舞踏会に隣国の王子たちを招いたのも、自分だ。
結果として、三人の王子が一人の女性を巡って争う構図を作ってしまった。
(いや——今は、そんなことを考えている場合ではない)
アレクシスは、目を開いた。
碧い瞳に、迷いはなかった。
「セバスチャン」
「はい、殿下」
「王都に戻る。軍議を招集してくれ。国境付近の住民の避難も手配しろ。——それから」
アレクシスは、膝の上のガラスの靴に、一瞬だけ目を落とした。
小さな、透明な靴。虹色の光。
彼女の靴。
「……靴の持ち主の捜索は、一時中断だ」
その言葉を口にする時、アレクシスの声は——かすかに、震えた。
だが、それだけだった。
一国の王子たるもの、恋に心を捕らわれているばかりではいられない。国民の安全が、何よりも優先される。それが、王族に生まれた者の責務だ。
「承知いたしました」
セバスチャンが、深く頭を下げた。
老臣の目に、複雑な感情が過ぎった。主人の苦悩が、痛いほどわかったからだ。
アレクシスは、馬の手綱を引いた。
王都の方角へ。
ガラスの靴を、懐に大切にしまいながら。
(……待っていてくれ)
心の中で、名前も知らない彼女に語りかけた。
(必ず——この国を守り抜いて、必ず、お前を見つける)
馬が駆け出した。
秋の風が、栗色の髪を激しく揺らした。
第四話「大魔導士と先遣隊」——了
第五話「すれ違うガラスの靴」に続く
そして——シンデレラこと麗良は。
メルヴィンと義姉たちと共に、国境と反対方向の町へ向かう道を、とぼとぼと歩いていた。
荷物を抱え、片方だけのガラスの靴を胸に抱いて。
王子様が来るのを待っていた屋敷は、もう遠くなっていた。
(王子様……今、どこにいるんだろう)
秋の空は高く、澄んでいた。
同じ空の下で、王子もまた——彼女を想っていることを、麗良はまだ知らない。




