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第四話「大魔導士と先遣隊」 前編

階段を駆け上がった麗良は、二階の廊下を走り、アナスタシアの部屋の扉を叩いた。


「お姉様! お姉様、一緒にきてください!」


「……うるさいわね、何よ。まだ眠いのに」


扉が開き、寝乱れた赤毛のアナスタシアが、不機嫌そうに顔を出した。隣の部屋からは、ドリゼラも眠そうな目をこすりながら出てくる。


「何事よ、シンデレラ。昼寝の邪魔をするなんて、いい度胸ね」


「それどころじゃないんです! 北の方から、兵隊が来るかもしれないって——」


「兵隊?」


アナスタシアが、眉をひそめた。


「何を言っているの。頭でも打ったの?」


「違います! 下に、魔法使いの方がいらしていて、ガルディアの国境の方から不穏な気配が——」


「魔法使い?」


ドリゼラが、冷たい目で麗良を見た。


「シンデレラ、あなた、変な人を家に上げたの?」


「上げてません! 玄関の外にいらっしゃるんです! とにかく、来てください!」


麗良の必死さが伝わったのか、あるいは単に騒ぎが気になったのか、義姉たちは渋々ながら階段を降りてきた。


玄関の外では、メルヴィンが杖に寄りかかって待っていた。


アナスタシアとドリゼラが、老人を上から下まで眺める。


白い長い髭。紫色のローブ——だが、よく見ると裾はほつれ、あちこちに繕いの跡がある。杖は年季が入って黒ずみ、靴は泥だらけ。隠居生活が長いのだろう、身なりは決して立派とは言えなかった。


「大魔導士様……?」


アナスタシアが、疑わしそうに目を細めた。


「でも格好がその、ちょっと薄汚いというか……本物なの?」


「失礼な小娘じゃな。これでも身だしなみには気を遣っておる方じゃぞ」


「怪しいわね」


ドリゼラが、腕を組んで言い切った。


「シンデレラ、あなた、こんな怪しいお爺さんの言うことを真に受けたの? 兵隊が来るですって? 馬鹿馬鹿しい。ここは国境から離れた田舎よ。戦争なんて——」


「離れてはおらんよ」


メルヴィンが、静かに遮った。


「この屋敷から国境まで、馬で半日もかからん。兵が本気で進軍すれば、一日で到達する距離じゃ」


「……」


ドリゼラの顔に、わずかな不安が過ぎった。だが、すぐに虚勢を張る。


「だとしても、兵が来るなんて証拠がないじゃない。あなたが本物の大魔導士だという証拠も」


「証拠か。ふむ——」


メルヴィンが何か言いかけた、その時だった。


地面が、かすかに震えた。


蹄の音だ。


複数の馬が、こちらに向かって駆けてくる音。


全員が、北東の方角——国境の方を見た。


街道の向こうから、土煙が上がっていた。


やがて、その土煙の中から——騎馬の一団が姿を現した。


六騎。


黒い鎧。黒い軍馬。腰には実戦用の長剣。盾には、見慣れない紋章——交差する二本の剣と、その上に鎮座する鷲。


ガルディア王国の紋章だった。


「……間に合わなんだか」


メルヴィンが、低く呟いた。その声には、苦い悔恨が滲んでいた。


六騎の騎兵が、屋敷の前で馬を止めた。


先頭の男が、兜の面頬を上げた。四十がらみの、顎髭を蓄えた厳つい顔。目つきは鋭く、全身から叩き上げの軍人特有の威圧感が漂っている。兵士長だろう。


「ここはエステリア王国領内だな。国境の調査のため、立ち入らせてもらう」


兵士長の声は、形式的には丁寧だったが、有無を言わせぬ響きがあった。「調査」と言っているが、完全武装の騎兵六騎が他国の領内に入り込んでいる時点で、それは調査ではなく侵犯だ。


アナスタシアとドリゼラが、麗良の背後に隠れた。


さっきまで「怪しい」「馬鹿馬鹿しい」と言っていた二人が、完全武装の兵士を前にして、がたがたと震えている。


(……証拠、出ましたね、お姉様)


と、心の中で突っ込む余裕は、麗良にもなかった。


麗良自身も、膝が笑っていた。


これは童話ではない。本物の兵士だ。本物の剣だ。本物の殺気だ。


兵士長の視線が、屋敷の前に立つ面々を舐めるように這った。


若い娘が三人。そして——。


兵士長の目が、メルヴィンの上で止まった。


一瞬の沈黙。


兵士長の表情が、変わった。


「お前は……」


驚愕。そして、認識。


「大魔導士メルヴィン……!」


その名を口にした瞬間、他の五人の兵士たちにも緊張が走った。馬上で姿勢を正し、剣の柄に手をかける者もいる。


「祖国を裏切り、行方をくらまし……まさかこんな場所で会おうとは」


兵士長は、驚きを押し殺すように、低く笑った。


「燈台下暗し、と言ったところか。国境のすぐ向こうに隠れておったとはな」


「裏切ったつもりはないがの。勝手に出て行っただけじゃ」


メルヴィンは、飄々と答えた。だが、杖を握る手には、かすかに力が入っている。


「ちょうどいい。レオンハルト王子が話を聞きたいと仰せだ。来てもらおう」


「話、のう」


メルヴィンの目が、細くなった。


老人の脳裏に、十五年前の記憶が蘇る。ガルディア王国の宮廷。大臣たちの顔。「お前の魔法を、軍事に使え」と迫る声。


あの時と、同じだ。


「ふん。どうせ此度の侵攻に体よく利用するつもりじゃろうが——断る」


きっぱりと、言い切った。


「わしの魔法は、戦の道具ではない。十五年前にそう言って出て行ったはずじゃ。今さら何を話すことがある」


兵士長の顔が、険しくなった。


「大魔導士殿。我々は王子の命を受けて動いている。拒否は——」


「拒否じゃ。何度でも言うぞ。断る」


「……ならば」


兵士長の目から、交渉の色が消えた。


代わりに浮かんだのは、軍人の冷徹さだった。


「強引にでも、連れて帰らせてもらう」


兵士長が右手を上げた。


五人の兵士が、一斉に馬から降りた。剣を抜く。盾を構える。


訓練された動きだった。無駄がない。六人が瞬時にメルヴィンを半円状に囲む陣形を取る。


アナスタシアが、小さな悲鳴を上げた。ドリゼラは声も出ず、顔面蒼白で立ち尽くしている。


麗良も、足が竦んでいた。


本物の剣。本物の殺意。


社畜時代のパワハラとは、次元が違う。


「お嬢さん方」


メルヴィンが、振り返らずに言った。


「下がっておれ。巻き添えをくうぞ」


「はっ、はい……!」


麗良は、義姉たちの手を引いて、屋敷の壁際まで後退した。アナスタシアの手は氷のように冷たく、ドリゼラは麗良の腕にしがみついて離れない。


(お姉様たち、普段の威勢はどこに行ったんですか……)


だが、責める気にはなれなかった。麗良だって、震えているのだ。


メルヴィンは、六人の兵士に囲まれて、静かに立っていた。


杖を右手に。左手は、ローブの中に。


「やめておけ」


老人の声は、穏やかだった。だが、その穏やかさの底に、途方もない重みがあった。


「その程度の装備と人数で、この大魔導士に敵うと思うか。命を粗末にするでない」


兵士たちの間に、一瞬の動揺が走った。


大魔導士メルヴィン。その名は、ガルディア王国の兵士なら誰でも知っている。かつて王国最強と謳われた魔導士。嵐を呼び、大地を割り、城壁を一撃で崩したという伝説の男。


だが——。


「大魔導士とはいえ、相手は老人だ!」


兵士長が、声を張り上げた。動揺を振り払うように。


「十五年のブランクがある! 全盛期の力が残っているはずがない! ——囲んで制圧しろ!」


号令と同時に、六人が動いた。


前方から三人。左右から一人ずつ。背後に一人。


完璧な包囲陣形。逃げ場はない。


——はずだった。


メルヴィンが、杖を天に掲げた。


「うおおおおおおっ……!」


咆哮。


老人のものとは思えない、腹の底から絞り出すような、力強い叫び。


その瞬間——大気が、震えた。


文字通り、空気が振動した。屋敷の窓ガラスがびりびりと鳴り、地面の小石が跳ね、木々の葉が一斉にざわめいた。


メルヴィンの全身から、目に見える「何か」が立ち上った。


青白い光。オーラ、としか形容できないもの。それは老人の身体を包み、渦を巻き、天に向かって柱のように伸びていった。


風が生まれた。メルヴィンを中心に、渦巻く風が。


兵士たちの足が、止まった。


本能が、警告していた。これ以上近づけば、死ぬ、と。


麗良は、屋敷の壁に背中を押し付けながら、その光景を見ていた。


目が、見開かれていた。


(……何、これ)


凄まじい魔力が、老人の周囲から噴き上がっている。空気が歪んでいる。光が渦を巻いている。


これは——童話ではない。


麗良は昔、兄の部屋にあった少年漫画を読んだことがある。戦闘力がインフレしていく、あの有名な漫画を。


(……これじゃ、ドラゴンボールだ)


場違いな感想が、脳裏を過ぎった。


「舐めてもらっては困る……」


メルヴィンの声が、風の中から響いた。


青白いオーラを纏った老人は、もはや隠居暮らしの薄汚れた魔法使いではなかった。そこに立っているのは——かつてガルディア王国最強と謳われた、大魔導士そのものだった。


「ガルディア王国随一と言われたこの魔力……年月を重ねようとも、いささかも衰えておらぬぞ!」


杖の先端が、蒼い光を放った。


メルヴィンが、詠唱を始めた。


「蒼穹を巡る風の眷属たちよ……」


低く、重く、しかし澄んだ声。言葉の一つ一つが、空気中の魔力と共鳴し、風を呼ぶ。


「その囁きを今、刃と変え……」


風が、唸りを上げた。メルヴィンの周囲で渦巻いていた風が、意志を持ったかのように形を変えていく。


「我が敵を討ち払え……!」


兵士たちの顔に、恐怖が浮かんだ。


だが——ガルディアの兵は、退かなかった。


武勇の国。剣の国。恐怖に屈することを、最も恥とする国。


「か、かかれ!」


兵士長の号令。


声は震えていた。だが、それでも——号令を出した。


六人の兵士が、一斉にメルヴィンに襲いかかった。


剣を振りかぶり、盾を構え、鎧の重量を乗せた突進。


その瞬間——。


「風よ、集え——!」


メルヴィンが、杖を振り下ろした。


旋風空圧撃ウィンド・プレッシャー!」


局所的に——メルヴィンを中心とした半径十歩ほどの範囲に——凄まじい暴風が発生した。


それは風というよりも、壁だった。


空気の壁。圧縮された大気が、爆発的に膨張し、全方位に向かって叩きつけられる。


兵士たちの身体が、木の葉のように吹き飛んだ。


百キロを超える鎧ごと、宙に舞い上がる。二メートル、三メートル——いや、それ以上。人間の身体が、空中で回転し、放物線を描いて——地面に叩きつけられた。


どすん。どすん。どすん。


鈍い音が、六回。


土煙が舞い上がった。


静寂が、戻った。


風が凪いだ。青白いオーラが消えた。


メルヴィンは、杖を地面に突いて、静かに立っていた。


地面には、六人の兵士が倒れていた。


鎧が凹み、盾が吹き飛び、剣が手から離れて散乱している。だが——致命傷を負った者はいなかった。うめき声が聞こえる。手足が動いている。生きている。


「……ぐ、ぅ……」


「う……あ……」


兵士たちが、苦痛に顔を歪めながら、地面の上でもがいていた。


兵士長だけが——かろうじて、立ち上がった。


片膝をつき、剣を杖代わりにして、ぎりぎりと身体を持ち上げる。兜は吹き飛び、顔には擦り傷。だが、その目には——まだ、闘志が残っていた。


メルヴィンが、静かに言った。


「風の魔法を選んだのは、無益な殺生はしたくないからじゃ」


兵士長が、顔を上げた。


「わかるな? わしが火を選んでおれば、お主らは今頃、炭になっておる。雷を選んでおれば、灰も残らん。風で吹き飛ばす程度で済ませたのは——お主らを殺したくなかったからじゃ」


兵士長の顔が、屈辱に歪んだ。


だが、反論できなかった。


事実だからだ。


大魔導士メルヴィンが本気で殺しにかかれば、六人の兵士など、一瞬で消し飛ぶ。それを、わざわざ殺傷力の低い風の魔法で、しかも吹き飛ばすだけに留めた。


手加減された。


それが、兵士長には——何よりも堪えた。


「わかったら、早く退けい!」


メルヴィンが、一喝した。


「武勇の誉れ高きガルディア王国の兵を名乗るのならば、勇敢と無謀の違いくらい学ばんか! 六人で大魔導士に挑むなど、勇敢ではない、ただの無謀じゃ! そんなことも教わらなんだか! わしがおった頃の兵士教練では、戦局を読み、適切に行動せよと、まず最初に叩き込まれたものじゃがな!」


ガルディア王国OBとしてのお説教が、始まってしまった。


「大体、他国の領内に武装して踏み込んでおいて『調査』とは何じゃ! 調査なら文官を送れ! 完全武装の騎兵を送る時点で、それは調査ではなく威嚇じゃ! 外交の基本もなっておらん! 宰相は何をしておるのじゃ!」


兵士長は、歯を食いしばっていた。


反論したい。言い返したい。だが——目の前の老人は、かつてガルディア王国最強と謳われた大魔導士だ。しかも、その力が衰えていないことは、今、身をもって証明された。


「……全員、撤退」


兵士長は、絞り出すような声で命じた。


「しかし、隊長——」


「撤退だ! これ以上の交戦は無意味だ。……本隊に報告する。大魔導士メルヴィンの所在を確認した、と」


倒れた兵士たちが、互いに肩を貸し合いながら、よろよろと立ち上がる。馬に這い上がる者、馬を引いて歩く者。


兵士長は、最後にメルヴィンを振り返った。


「……大魔導士殿。次は、この程度の人数では参りませんぞ」


「来るなら来い。何人来ようと同じじゃ」


メルヴィンは、杖を地面に突いたまま、微動だにしなかった。


兵士たちが、北東の方角へ——国境の向こうへ、去っていく。


土煙が、ゆっくりと晴れていった。

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