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第三話「王子様が来ない(代わりに来たのは)」 後編

その頃——アレクシスのいる、エステリア王国では。


「次の家だ」


セバスチャンの指示で、馬車が止まった。


アレクシス王子自ら、ガラスの靴を携えて、国中を巡っていた。


本来なら家臣に任せてもいい仕事だ。だが、アレクシスは自分の目で確かめたかった。彼女を見つけた時、最初に会うのは自分でありたかった。


「この家には、年頃の娘が二人いるそうです」


「わかった」


小さな村の、小さな家。扉を叩くと、恰幅のいい女性が出てきた。王子の姿を見て、目を丸くする。


「お、王子様……!? うちに何の御用で……」


「失礼。この靴に足が合う方を探しています。お宅に年頃のお嬢さんがいらっしゃると聞きました」


ガラスの靴を差し出す。透明な靴が、秋の陽光を受けて輝く。


娘たちが呼ばれ、靴を試す。


一人目——入らない。足が大きすぎる。


二人目——入らない。足の形が合わない。


「……申し訳ありません。お手数をおかけしました」


アレクシスは丁寧に頭を下げ、馬車に戻った。


これで、何軒目だろう。


数えるのをやめたのは、三日前だ。


国中の年頃の娘に、片っ端からガラスの靴を試させている。だが、誰一人として、靴に足が合う者はいなかった。


当然だ。


あのガラスの靴は、彼女のためだけに作られた、世界に一つだけの靴。他の誰の足にも合うはずがない。


だが、アレクシスにはこれしか手がかりがなかった。


名前も知らない。住所も知らない。顔は覚えているが、平民として過ごしているとしたら、普段の姿は異なるかもしれない。


靴だけが、唯一の——確実な手がかりだった。


「殿下」


セバスチャンが、馬車の中で地図を広げた。


「次は、この街道沿いの集落です。その先に、いくつかの屋敷が点在しています」


「……あと、どのくらい残っている」


「国内の年頃の娘をすべて回るとなると……まだ、三分の二ほど残っております」


「……そうか」


アレクシスは、膝の上のガラスの靴を見つめた。


小さな靴。透明で、虹色に輝く靴。


「……必ず、見つける」


静かに、しかし確固たる声で呟いた。


馬車が、再び走り出した。


そして——シンデレラこと麗良は。


そわそわしていた。


「シンデレラ! 床の拭き方が雑よ! やり直し!」


「は、はい、お姉様!」


ドリゼラに怒鳴られながら、雑巾を絞り直す。だが、心ここにあらず。手は動いているが、意識は完全に別のところにある。


噂は、屋敷にも届いていた。


「王子様が、ガラスの靴を持って国中を回っているらしい」

「舞踏会で踊った女性を探しているんですって」

「靴に足が合う娘が、王子様のお妃になるとか」


村の市場で買い物をした時に聞いた。洗濯物を干している時に、隣家の女中から聞いた。水汲みに行った井戸端で、村の娘たちが興奮気味に話しているのを聞いた。


王子様が、ガラスの靴を手がかりに、シンデレラを探している。


物語通りだ。


完璧に、物語通りだ。


(もうすぐ……もうすぐ、王子様が私を迎えに来てくれる……!)


麗良の心臓は、朝からずっと早鐘を打っていた。


床を拭きながら、にやにやが止まらない。


「ちょっと、シンデレラ。何をにやにやしているの。気持ち悪いわ」


アナスタシアが、不審そうな目で見てくる。


「い、いえ、何でもありません、お姉様」


慌てて表情を引き締める。だが、口角が勝手に上がってしまう。


だって、もうすぐなのだ。


もうすぐ、王子様がこの屋敷の扉を叩く。ガラスの靴を差し出す。継母と義姉たちが試すが、当然、合わない。そして、「他に娘はいないか」と聞かれ、灰だらけのシンデレラが呼ばれ——靴がぴったりと合う。


その瞬間、すべてが変わる。


灰かぶりの召使いが、王子の花嫁になる。


「……ふふ」


床下に隠してある、もう片方のガラスの靴。あれを取り出して、「もう片方は、ここにあります」と差し出す。王子の碧い瞳が驚きに見開かれ、そして——喜びに輝く。


完璧なシナリオだ。


(早く来て、王子様……!)


麗良は、一日に何度も窓の外を覗いた。


馬車の音がしないか。蹄の音がしないか。


朝が過ぎ、昼が来て、午後になり——。


そして、ある日の昼下がり。


屋敷の扉が、叩かれた。


こんこん、こん。


麗良の心臓が、跳ね上がった。


(来た——!)


継母は外出中。義姉たちは二階で昼寝をしている。


扉を開けるのは、シンデレラの役目だ。


麗良は、雑巾を放り出し、エプロンで手を拭きながら、玄関に走った。


灰だらけの顔。ぼさぼさの金髪。ぼろぼろのワンピース。


こんな姿で王子様に会うのは恥ずかしいが、それでいい。灰かぶりの姿から、ガラスの靴がぴったり合う——そのギャップこそが、物語のクライマックスなのだから。


深呼吸。


扉を、開けた。


「王子さ——」


言葉が、途中で止まった。


扉の向こうに立っていたのは、王子様では——なかった。


白い髭。紫色のローブ。先の曲がった杖。


魔法使いの老人——メルヴィンが、そこにいた。


「……あ、あれ? 魔法使い様……?」


麗良は、目を瞬かせた。


嬉しい。魔法使いの老人には、二度も助けてもらった恩がある。だが——今、期待していたのは、この人ではなかった。


「あの、今日はどうされたんですか? 舞踏会は……もうないですよね?」


冗談めかして言ったが、老人は笑わなかった。


その表情は、険しかった。


魔法でドレスやカボチャの馬車を出してくれた時の、穏やかな笑顔はどこにもない。星のように輝いていた目は、今は鋭く、警戒の色を帯びている。


「……魔法使い様?」


麗良の笑顔が、ゆっくりと消えた。


老人の纏う空気が、明らかに違う。


「お嬢さん」


老人の声は、低く、硬かった。


「早いところ、ここから逃げた方がいい」


「……え?」


「北東の方角——ガルディアの国境の向こうから、殺気と魔力が近づいてきておる。兵の気配じゃ。数はまだ少ないが、先遣隊じゃろう。本隊が後に続く可能性がある」


麗良の思考が、一瞬、停止した。


殺気。魔力。兵。先遣隊。


「……は?」


「この屋敷は、ガルディアとの国境からそう遠くない。兵が国境を越えてくれば、この辺りの村や屋敷は真っ先に巻き込まれる」


「ちょ、ちょっと待ってください」


麗良は、両手を上げて老人の言葉を遮った。


「殺気って何ですか。兵って何ですか。国境紛争って何ですか。ここ、シンデレラの……いえ、その、平和な童話の世界じゃないんですか? ガラスの靴と、カボチャの馬車と、舞踏会の世界じゃ……」


言いながら、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。


老人は、片眉を上げた。


「……お嬢さん。お主、不思議な娘じゃな」


「え?」


「初めて会った時から思っておったが——お主には、この世界の人間とは違う気配がある。まるで、どこか遠い別の場所から来たような……」


麗良の心臓が、ぎくりと跳ねた。


老人の目が、深く、静かに、麗良を見つめていた。すべてを見通すような——しかし、無理に暴こうとはしない、穏やかな眼差し。


「……まあ、お主の事情を詮索するつもりはない。ただ、一つだけ言えることがある」


老人は、杖で北東の空を指した。


「この世界は、お主が思っているほど優しくはない。国と国の間には因縁があり、王と王の間には駆け引きがある。舞踏会の夜がどれほど美しくとも——その裏では、常に剣が研がれておるのじゃ」


麗良は、唇を噛んだ。


老人の言葉が、重く、胸に沈んでいく。


「……魔法使い様は、なぜ、それをご存知なんですか。国境の向こうの兵の動きなんて……」


「わしは長いこと、この国境付近で隠居しておるのでな」


老人は、少しだけ目を伏せた。


「気まぐれに人助けをしながら、静かに暮らしておった。お主を助けたのも、その気まぐれの一つじゃ。——だが、古巣の国から不穏な気配が流れてくるのは、嫌でも感じ取れる」


「古巣……? 魔法使い様は、ガルディアの……」


「昔の話じゃ」


老人は、それ以上は語らなかった。


だが、その一言で——麗良は理解した。


この老人は、ただの魔法使いではない。ガルディア王国に縁のある、相当な力を持った人物だ。その人が「逃げろ」と言っている。


事態は、深刻なのだ。


「……でも、なぜガルディアが兵を動かすんですか? この国と戦争でもするんですか?」


「さてな。国境付近の資源を巡る争いか、通商条約の決裂か——理由はいくらでもつけられる。だが、きな臭いのは確かじゃ。示威行動で済めばよいが、エスカレートすれば、この辺りは戦場になりかねん」


戦場。


その言葉が、麗良の脳裏に、冷水のように染み渡った。


(……シンデレラの物語に、戦争なんて出てこない)


出てこないはずだ。


継母にいじめられて、魔法使いに助けてもらって、舞踏会で王子様と踊って、ガラスの靴を落として、王子様に見つけてもらって、ハッピーエンド。それがシンデレラだ。


でも——。


(魔法使いが老婦人じゃなくて老人だった時点で、気づくべきだったのかもしれない)


この世界は、シンデレラの物語に似ているだけの、別の世界なのかもしれない。


あるいは——最初にガラスの靴を落とし損ねたせいで、物語が歪んでしまったのかもしれない。二度目の舞踏会が開かれ、隣国の王子たちと踊り、三人の王子が恋敵になり——その波紋が、国家間の緊張にまで発展してしまった。


どちらが正しいのかは、わからない。


だが、一つだけ確かなことがある。


(ここから先は——私の知っている物語じゃない)


童話の頁は、もう閉じられている。


ここから先は、結末を知っている者の余裕も、物語通りに進む安心感も、何もない。


未知の世界だ。


「……お嬢さん?」


老人の声で、麗良は我に返った。


「とにかく、今はここを離れるんじゃ。わしが安全な場所まで——」


その時だった。


屋敷の二階から、甲高い声が降ってきた。


「シンデレラァ! 何を玄関でぐずぐずしているの! 誰が来たの!?」


アナスタシアの声だ。昼寝から起きたらしい。


麗良は、はっと我に返った。


継母と義姉たち。この屋敷の人々。


自分が逃げたら、この人たちはどうなる。


兵が国境を越えてくるなら、この屋敷も巻き込まれるのではないか。


「……魔法使い様。この屋敷の人たちは——」


「お主が心配することではない。あの者たちは、お主を虐げてきた者たちじゃろう」


「それは、そうですけど……」


麗良は、唇を噛んだ。


確かに、継母と義姉たちには、ひどい扱いを受けてきた。恨んでいないと言えば嘘になる。


だが——。


(でも、死んでほしいわけじゃない)


社畜時代の課長だって、パワハラ上司だって、死んでほしいとまでは思わなかった。辞めたいとは思ったけど。異動してほしいとは思ったけど。


「……逃げます。でも、その前に——お姉様たちに、ここが危ないことだけ伝えさせてください」


老人は、少し驚いたように目を瞬かせた。


そして——ふっ、と笑った。


「……お主は、お人好しじゃな。やはり不思議な娘じゃ」


「……性分なんです」


麗良は、階段を駆け上がった。


第三話「王子様が来ない(代わりに来たのは)」——了


第四話「大魔導士と先遣隊」に続く

物語の歯車が、音を立てて回り始めていた。


三つの国の、三人の王子。


一つのガラスの靴。


そして——結末を知らない、一人のシンデレラ。


童話の頁は、とうに閉じられている。


ここから先は、誰も読んだことのない物語だ。

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