第三話「王子様が来ない(代わりに来たのは)」 前編
一
ヴァレンティア王国。
大陸の西方に位置する小国ながら、その富は周辺の大国をも凌ぐと言われている。国土の地下には金鉱と銀鉱が眠り、山岳地帯からは大陸随一の宝石が産出される。王宮の床は翡翠で敷き詰められ、柱には瑪瑙が嵌め込まれ、天井には金箔が幾重にも重ねられている。
その王宮の一室——第二王子フィリップの私室は、しかし、宝石の輝きとは無縁の空間だった。
絵の具の匂いが充満していた。
床には使い古された筆が散乱し、パレットには幾十もの色が混ざり合い、イーゼルの周囲には描きかけのカンヴァスが何枚も立てかけられている。窓から差し込む午後の光が、空気中に漂う絵の具の微粒子をきらきらと照らしていた。
フィリップは、イーゼルの前に座っていた。
白いシャツの袖をまくり上げ、金髪は無造作に額にかかり、右頬には青い絵の具が一筋ついている。普段の軽薄な笑みは消え、碧い瞳は、カンヴァスの一点だけを見つめていた。
筆が動く。
細い線が、カンヴァスの上に引かれる。
頬の輪郭。顎の線。唇の曲線。
一筆ごとに、そこに「彼女」が現れてくる。
金色の髪。青い瞳。月明かりの下で微笑む、あの顔。
フィリップには、類稀なる記憶力があった。
一度見たものは忘れない。風景も、人の顔も、色彩も、光の角度も——すべてが、写真のように脳裏に焼き付く。それは天賦の才であり、同時に、時として呪いでもあった。忘れたいものも、忘れられないからだ。
だが、今回ばかりは——忘れたくなかった。
忘れようと思っても、忘れられなかった。
あの夜。舞踏会。金色のドレスの女。
一曲踊っただけだ。バルコニーで少し話しただけだ。名前すら知らない。
それなのに——。
筆が止まった。
カンヴァスの上に、彼女がいた。
金色のドレスを纏い、シャンデリアの光を浴びて微笑む、あの美姫。背景には舞踏会場の煌めきが描かれ、足元にはガラスの靴が虹色の光を放っている。
完璧だった。
記憶の中の彼女を、一分の狂いもなく再現していた。
「……ふぅ」
フィリップは、長い息を吐いた。
筆を置き、椅子の背にもたれかかる。天井を見上げる。翡翠の天井が、午後の光を受けて淡い緑色に輝いている。
「参ったな」
呟いた。
フィリップ・ド・ヴァレンティア。二十一歳。第二王子。王位継承権は兄に次いで第二位。政治にはさほど興味がなく、芸術と社交を愛する、自他ともに認める「チャラい王子」。
女性に不自由したことはない。ヴァレンティアの富と、自身の容姿と、生まれ持った話術があれば、大抵の女性は振り向いてくれた。
だが——あの女性は、違った。
金銀財宝の話をしても、目が輝かなかった。宝石を見せると言っても、社交辞令以上の反応はなかった。
代わりに、彼女の目が輝いたのは——アレクシスの話をした時だった。
「あの堅物のアレクシスが、たった一人の女性のために舞踏会を開くなんて」と言った時、彼女の青い瞳に、一瞬、切ないほどの光が宿った。
あの光は、フィリップに向けられたものではなかった。
わかっている。
わかっているのに——。
「……描かずにはいられないんだよなぁ」
フィリップは、苦笑した。
あの夜から、何枚描いただろう。十枚。二十枚。数えるのをやめた。描いても描いても、記憶の中の彼女に追いつけない気がして、また筆を取る。その繰り返しだった。
だが、今日の一枚は——違った。
これは、ただの習作ではない。
フィリップは立ち上がり、部屋の隅に置かれた呼び鈴を鳴らした。
しばらくして、扉が開いた。
「お呼びでしょうか、殿下」
入ってきたのは、痩せぎすの中年の男だった。指先にインクの染みがあり、エプロンには銅の粉が付着している。宮廷付きの版画師、マルティンだ。
「マルティン。仕事を頼みたい」
「何なりと」
フィリップは、イーゼルの上のカンヴァスを示した。
マルティンの目が、わずかに見開かれた。版画師として数十年のキャリアを持つ男が、思わず息を呑むほどの——美しい絵だった。
「この絵を、銅板に起こしてほしい」
「……銅板に、ですか」
「ああ。できるだけ精密に。特に顔の造作は、一本の線も違えないように。——そこから刷り出した版画を、百枚用意してくれ」
「百枚……」
マルティンは、フィリップの意図を察したようだった。
「この方を、お探しになるのですね」
「ご名答」
フィリップは、にやりと笑った。
普段の軽薄な笑みが戻っている。だが、その碧い瞳の奥には——マルティンがこれまで見たことのない、静かな炎が燃えていた。
「アレクシスはガラスの靴で探すらしい。靴に足が合う娘を、一人ずつ試していくんだと。——律儀だね、あの人は。でも、効率が悪い」
フィリップは、カンヴァスの中の彼女を見つめた。
「俺には、靴はない。でも——この顔がある。この記憶がある。俺の目と、俺の手が覚えている」
版画師に向き直る。
「百枚の似顔絵を、家臣たちに配る。ヴァレンティアの情報網は大陸一だ。商人も、旅人も、吟遊詩人も——この国を通る者はすべて、俺たちの目になる。靴を一人ずつ試すより、顔で探す方が早い」
マルティンは、深く頷いた。
「承知いたしました。三日で仕上げます」
「頼む」
版画師が去った後、フィリップは再びカンヴァスの前に立った。
描かれた彼女が、微笑んでいる。
「……待っててよ、お嬢さん。靴がなくたって、見つけてみせるから」
軽い口調で——しかし、その声には、確かな決意が込められていた。
二
ガルディア王国。
大陸の北東に位置する軍事国家。険しい山脈と深い森に囲まれた国土は、天然の要塞そのものだった。国民は質実剛健を旨とし、王族もまた例外ではない。ガルディアの王子は、生まれた時から剣を握ると言われている。
第一王子レオンハルトは、まさにその体現だった。
夜明け前から剣を振り、朝食の後は馬術の訓練、午後は兵法の研究、夕方には再び剣を振る。それが、レオンハルトの日常だった。二十三年間、一日たりとも欠かしたことはない。
——はずだった。
「……殿下?」
訓練場の隅で、側近のヴォルフが怪訝そうな声を上げた。
レオンハルトは、訓練用の木剣を手にしたまま、中庭の噴水をぼんやりと眺めていた。
水面に映る空。秋の高い空。
あの夜の、月明かりを思い出す。
バルコニーで踊った。不器用なリードを、彼女は笑わなかった。「とてもお上手ですよ」と言ってくれた。社交辞令だとわかっていても——嬉しかった。
「殿下。……殿下?」
「……ん。何だ」
「訓練の時間ですが」
「ああ……そうだな」
木剣を構える。だが、いつもの鋭さがない。素振りの軌道がわずかにぶれる。踏み込みが浅い。
ヴォルフは、信じられないものを見る目で主人を見つめていた。
レオンハルト殿下の剣がぶれている。
生まれてこの方、暇さえあれば武器を振るっていた、あの鉄の王子の剣が。
「……殿下。失礼ながら、お加減でも悪いのですか」
「加減は悪くない」
「では、何か気がかりなことでも」
「…………」
レオンハルトは、木剣を下ろした。
しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……ヴォルフ。人が、誰かのことを考えて、他のことが手につかなくなるのは——何という」
ヴォルフは、目を瞬かせた。
「……それは、恋、と申します。殿下」
「……そうか」
レオンハルトは、噴水の水面を見つめた。
「恋、か」
二十三年間、武芸にばかり邁進してきた。剣と、槍と、馬と、兵法。それが世界のすべてだった。女性に興味がなかったわけではないが、近づいてくる令嬢たちは皆、王子の地位か、ガルディアの軍事力に惹かれているだけだった。レオンハルト自身を見ている者は、一人もいなかった。
だが——あの女性は、違った。
彼女がレオンハルトに惹かれていたとは思わない。むしろ、彼女の心はアレクシスに向いていたのだろう。それはわかっている。
それでも——彼女の瞳の奥に、レオンハルトは何かを見た。
言い知れぬ深み。
多くを経験し、多くを耐え、それでもなお折れずに立っている者だけが持つ、静かな強さ。
あの瞳は、戦場で幾度も死線をくぐり抜けた老兵の目に似ていた。
美しい少女の顔に、老兵の目。
その矛盾が、レオンハルトの心を捉えて離さなかった。
彼女は、何と戦ってきたのだろう。何に耐えてきたのだろう。あの細い肩で、何を背負ってきたのだろう。
知りたかった。
もう一度会って、話がしたかった。
だが——手がかりがない。
ガラスの靴は、アレクシスに渡してしまった。名前も知らない。素性も知らない。
ただ一つ、レオンハルトの手には——あの靴の感触が残っていた。
階段で拾い上げた時の、小さなガラスの靴。掌にすっぽりと収まるほどの、華奢な靴。その大きさ、その重さ、その温もりを、武人の手は正確に記憶していた。
だが、靴の感触だけでは、人は探せない。
「……ヴォルフ」
「はい」
「あの夜——舞踏会で、彼女が乗っていた馬車について、何かわかったか」
「はい。アレクシス殿下の城の衛兵からの情報によりますと、金色のカボチャの形をした馬車だったそうです。どの国の紋章も記されておらず、御者や従者の身元も不明と」
「カボチャの馬車……」
レオンハルトは、眉をひそめた。
カボチャの馬車。紋章なし。身元不明の御者。
普通に考えれば、ありえない。どの国の貴族でもない人間が、あれほどの馬車を仕立てられるはずがない。
——いや。
一つだけ、心当たりがあった。
レオンハルトの脳裏に、遠い記憶が蘇った。
幼い頃の記憶だ。まだ剣を握り始めたばかりの、七つか八つの頃。
ガルディア王国の宮廷に、一人の老人がいた。
白い髭を長く伸ばし、紫色のローブを纏い、先の曲がった杖を手にした——大魔導士。
名を、メルヴィンといった。
ガルディア王国が誇る、大陸最高の魔導士。その魔力は凄まじく、嵐を呼び、大地を割り、城壁を一撃で崩すことができたと言われている。
だが、メルヴィンは——ある日、突然、王国を去った。
「わしの魔法は、人を殺すためのものではない」
そう言い残して。
ガルディアは軍事国家だ。大魔導士の力を、当然、軍事に利用しようとした。メルヴィンはそれを拒んだ。王の説得も、大臣たちの懐柔も、すべて退けて——姿を消した。
以来、十五年以上、行方知れず。
だが、レオンハルトは覚えている。
メルヴィンが王宮を去る前日の夜、幼いレオンハルトは、中庭で不思議な光景を目にした。
老人が、庭の隅に転がっていたカボチャに杖を向けた。光が弾け——カボチャが、金色の馬車に変わった。
「おお……!」
幼いレオンハルトが目を丸くすると、老人は振り返って、にっこりと笑った。
「ふぉっふぉっふぉ。坊や、驚いたかね? これはの、わしの十八番じゃ」
馬車はすぐに元のカボチャに戻されたが——あの光景は、レオンハルトの記憶に深く刻まれていた。
カボチャを馬車に変える魔法。
そんなことができるのは、あの大魔導士しかいない。
「……メルヴィン」
レオンハルトは、低く呟いた。
「あの方が、彼女に力を貸しているのか……」
だとすれば——メルヴィンを見つければ、彼女にたどり着けるかもしれない。
「ヴォルフ」
「はい」
「人を出してくれ。メルヴィン大魔導士の行方を追う。極秘裏に」
「……メルヴィン殿を、ですか。しかし、十五年以上も行方知れずの方を……」
「わかっている。容易ではないだろう。だが——手がかりは、ある」
カボチャの馬車。
あの魔法を使える者は、大陸広しといえども、メルヴィン一人だ。
「……承知いたしました」
ヴォルフは頭を下げた。そして、少しだけ——本当に少しだけ、口元を緩めた。
暇さえあれば武器を振るっていた、あの無骨な主人が。
恋する少女のように黄昏れている。
仕えて十年、初めて見る光景だった。
三
レオンハルトが黄昏れている——。
その情報は、ガルディア王国の宮廷に、瞬く間に広まった。
「第一王子殿下が、舞踏会で出会った女性に恋をしたらしい」
「あの鉄の王子が? 信じられない」
「訓練にも身が入らないそうだ」
「相手は、アレクシス王子の舞踏会に現れた、正体不明の美女だとか」
宮廷の廊下で、貴族たちがひそひそと囁き合う。
その囁きは、やがて——ある男の耳にも届いた。
ガルディア王国宰相、グスタフ・フォン・ドラッヘン。
五十代半ば。禿げ上がった頭に、鷲のような鋭い目。痩せぎすの体躯を黒い衣装で包み、常に計算高い笑みを浮かべている男だった。
グスタフは、執務室の椅子に深く腰掛け、報告を聞いていた。
「……ほう。殿下が、恋を」
「はい、宰相閣下。舞踏会以来、訓練にも身が入らず、側近のヴォルフに『恋とは何か』と尋ねたとか」
報告者——情報官の言葉に、グスタフは薄い唇の端を持ち上げた。
「あの殿下が、のう……」
グスタフにとって、レオンハルトは扱いにくい主人だった。
武芸一辺倒で、政治に興味がない。大臣たちの進言にも耳を貸さず、「国は剣で守る」の一点張り。清廉潔白で、賄賂も受け取らず、利権にも無関心。
つまり——操りにくい。
だが、恋をしている男は、別だ。
恋は、人を弱くする。判断を鈍らせる。冷静さを奪う。
そして——利用できる。
「……情報官。その美女は、アレクシス王子の国にいるのだな?」
「はい。アレクシス殿下が、ガラスの靴を手がかりに国中を捜索しているとのことです」
「ガラスの靴、か」
グスタフは、指先で机を叩いた。こつ、こつ、こつ。規則的なリズム。思考のリズム。
「……エステリア王国との通商条約の件、どうなっている」
「難航しております。アレクシス殿下は、我が国の要求する関税の引き下げを拒否しています。特に、国境付近の鉱山資源に関する条項については、一切の譲歩がありません」
「そうだろうな。あの鉱山には、鉄と銅が豊富に眠っている。ガルディアの軍備にとって、喉から手が出るほど欲しい資源だ」
グスタフは、壁に掛けられた大陸の地図を見つめた。
エステリア王国と、ガルディア王国の国境線。その付近に、問題の鉱山がある。現在はエステリア王国の領土内だが、歴史的にはガルディアの領有権を主張する余地もある——少なくとも、グスタフはそう考えていた。
「通商条約で手に入らないなら——別の方法を考えねばならんな」
「別の方法、とは……」
「力ずくだ」
グスタフの目が、鷲のように鋭く光った。
「殿下は、あの美女に恋をしている。そして、あの美女はエステリア王国にいる。アレクシスもまた、あの美女に恋をしている。——つまり、殿下とアレクシスは、恋敵だ」
情報官は、息を呑んだ。
「まさか……殿下をそそのかして、エステリア王国に……」
「そそのかす、とは人聞きの悪い。私はただ、殿下のお心に寄り添うだけだ」
グスタフは、薄い笑みを浮かべた。
「殿下が恋する女性が、他国の王子に奪われようとしている。それを黙って見ていろとは言えまい。ガルディアの王子たるもの、欲しいものは力で勝ち取る——それが、この国の流儀ではないか」
「しかし、戦争となれば……」
「戦争とは言わん。武力による示威行動だ。国境付近に兵を展開し、圧力をかける。アレクシスが折れれば、鉱山の利権と、ついでにあの美女の身柄も手に入る。折れなければ——その時は、その時だ」
グスタフの指が、地図の上の国境線をなぞった。
「殿下の恋心を、国益に変える。それが宰相の仕事だ」
情報官は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
だが、何も言えなかった。
グスタフ宰相の権力は、ガルディア王国において、王に次ぐものだった。逆らえば——消される。
「……承知いたしました」
「うむ。——まずは、殿下に会おう。恋に悩む若者に、助言をしてやらねばな」
グスタフは立ち上がった。
黒い衣装の裾が、床の上を蛇のように這った。




