第二話「ガラスの靴は落としたけれど」 後編
六
二度目の舞踏会は、前回を遥かに凌ぐ華やかさだった。
会場は同じ王城の大広間だが、装飾が一新されていた。天井から下がるシャンデリアの数は倍に増え、壁面には周辺国の紋章を織り込んだタペストリーが掛けられ、楽団の規模も大きくなっている。
そして、人の数。
前回は国内の貴族だけだったが、今回は周辺国の王侯貴族も招かれている。見慣れない異国の衣装を纏った紳士淑女が、あちこちで談笑している。言語も、文化も、多様だ。
その中に——麗良は、足を踏み入れた。
金色のドレスが、シャンデリアの光を受けて燃えるように輝く。
前回と同じ——いや、前回以上のざわめきが、会場に広がった。
「あの方は……!」
「前回の舞踏会の……!」
「銀のドレスの方だわ……! 今度は金色……!」
「なんて美しい……まるで太陽の女神のよう……」
視線が集まる。だが、麗良の目は、一点だけを探していた。
いた。
会場の奥、前回と同じ一段高い場所に——アレクシス王子が立っていた。
白い軍服に、今回は深い青のマントを羽織っている。栗色の髪。碧い瞳。凛とした立ち姿。
その瞳が、会場の入り口に立つ金色のドレスの女を捉えた瞬間——。
王子の表情が、変わった。
驚きと、喜びと、安堵が、一瞬のうちに碧い瞳を駆け抜けた。
まるで、長い冬の終わりに春の陽射しを見つけた人のような——そんな顔だった。
王子が、一段高い場所から降りてきた。前回と同じように。人々が道を開ける。前回と同じように。まっすぐに、迷いなく、シンデレラのもとへ。
だが、前回と違ったのは——その足取りの速さだった。
王族の威厳を保ちながらも、明らかに急いでいる。一歩一歩が大きく、マントが翻る。
「——来てくれたのですね」
王子の声は、かすかに震えていた。
「もう一度会えるとは思っていなかった。いや——会えると信じて、この舞踏会を開いたのですが」
「……え?」
麗良は、目を瞬かせた。
「この舞踏会を……開いた?」
「ええ。あなたにもう一度会うために。名目は秋の祝賀と親善交流ですが——本当の理由は、あなたです」
(……この舞踏会、王子様が私に会うために開いたの?)
麗良の心臓が、大きく跳ねた。
都合よく舞踏会が開かれたのではなかった。王子が、シンデレラに会うために、わざわざ舞踏会を企画したのだ。
手がかりが何もない中で、それでも可能性に賭けて。
「……っ」
目頭が、熱くなった。
泣くな。ここで泣いたら台無しだ。せっかくの金色のドレスが台無しだ。
「……私も、もう一度お会いしたかったです。王子様」
精一杯の笑顔で、そう言った。
王子が、花のように微笑んだ。
「——踊っていただけますか?」
「喜んで」
差し出された手を取る。
前回と同じ。でも、前回よりもずっと——温かく感じた。
七
ワルツが始まった。
王子の手が腰に添えられ、もう片方の手がシンデレラの手を包む。
前回よりも、距離が近い気がした。王子の体温が、ドレス越しに伝わってくる。
「あれから、ずっとあなたのことを考えていました」
王子が、低い声で囁いた。
「名前も知らない。どこにいるかもわからない。それなのに、一日たりとも、あなたのことを忘れられなかった」
「……王子様」
「あの夜、あなたが走り去った後——階段に何か落ちていないか、探しました」
麗良の心臓が、ぎくりと跳ねた。
「靴の一つでも落としてくれていたら、手がかりになったのに——何もなかった」
(ごめんなさい王子様。靴、両方持って帰っちゃいました)
「だから、こうして舞踏会を開くしかなかった。……少し、強引だったかもしれませんね」
「いいえ」
麗良は、首を横に振った。
「嬉しいです。とても……とても、嬉しいです」
本心だった。
誰かが自分のために、これほどのことをしてくれたのは、人生で初めてだった。前世でも、今世でも。
くるり、と回される。金色のスカートが花のように広がる。ガラスの靴が、大理石の床の上で澄んだ音を立てる。
会場中の視線が、再び二人に注がれている。
だが、麗良の意識は王子だけに向いていた。
碧い瞳。柔らかな栗色の髪。優しい微笑み。
(好き)
もう、認めるしかなかった。
(この人のことが、好きだ)
物語の流れとか、ハッピーエンドの確定とか、そういう打算を超えて——純粋に、一人の人間として、この人に惹かれている。
ワルツが終わった。
だが、王子は手を離さなかった。
「今度こそ——名前を教えていただけませんか」
碧い瞳が、真剣にシンデレラを見つめる。
麗良は、唇を開きかけた。
今度こそ、何か答えなければ。名前は言えなくても、せめて——。
「失礼」
横から、声がかかった。
麗良と王子が同時に振り返る。
そこに立っていたのは——。
金髪碧眼の、若い男だった。
背は王子と同じくらい高く、体格はやや細身。だが、その立ち姿には生まれながらの自信が漲っている。白い歯を見せて笑う顔は、文句なしのイケメンだが——どこか軽い。チャラい、と言ってもいい。
豪華な衣装には、見慣れない紋章が刺繍されている。この国の貴族ではない。
「隣国ヴァレンティア王国の第二王子、フィリップと申します」
流暢な、しかしわずかに訛りのある言葉で、男は名乗った。そして、シンデレラに向かって、芝居がかった仕草で一礼する。
「美しいお嬢さん。一曲、お手合わせ願えませんか?」
(……え?)
麗良は、目を瞬かせた。
隣国の王子が、ダンスに誘っている。自分を。
アレクシス王子の顔を見る。碧い瞳に、かすかな——ほんのかすかな、不快の色が過ぎった。
だが、それは一瞬だった。
王子は、すぐに穏やかな表情を取り戻した。
「……フィリップ殿。ようこそ、我が国の舞踏会へ」
「ありがとう、アレクシス殿。素晴らしい舞踏会だ。特に——こんな美しい花が咲いているとは、聞いていなかったよ」
フィリップ王子の視線が、シンデレラの全身を舐めるように這う。不躾ではないが、明らかに品定めをしている目だ。
アレクシス王子の表情は変わらない。だが、シンデレラの手を握る力が、ほんのわずかに強くなった気がした。
(……王子様?)
麗良は、アレクシスの顔を見上げた。
王子は、静かに——しかし確実に、葛藤していた。
シンデレラと話をしたかった。名前を聞きたかった。もっと一緒にいたかった。
だが——フィリップは、隣国の王子だ。ゲストだ。この舞踏会は親善交流の名目で開かれている。ゲストの申し出を無碍に断れば、外交問題になりかねない。
王族としての矜持と、一人の男としての感情が、せめぎ合っている。
そして——矜持が、勝った。
「……どうぞ」
アレクシスは、静かにシンデレラの手を離した。
「フィリップ殿は、ダンスの名手と聞いています。きっと楽しんでいただけるでしょう」
その声は穏やかだったが、麗良には——離された手の指先が、名残惜しそうに震えていたのが、見えた。
「ありがとう、アレクシス殿。では——お嬢さん、参りましょうか」
フィリップ王子が、にっこりと手を差し出す。
麗良は、一瞬だけアレクシスを振り返った。
碧い瞳が、静かにシンデレラを見ていた。「行っておいで」と言うように。でも、その奥に——寂しさが、滲んでいた。
(……王子様)
断りたかった。
でも、麗良にも——この場の空気を読む力はあった。社畜時代に培った、場の力学を瞬時に把握する能力。ここでフィリップ王子の申し出を断れば、アレクシス王子の立場が悪くなる。ゲストに恥をかかせたことになる。
「……喜んで、フィリップ殿下」
麗良は、フィリップの手を取った。
その瞬間——会場の隅で、アナスタシアの目が光った。
「……チャンスだわ」
義姉は、金色のドレスの女が別の男と踊り始めたのを見て、すかさずアレクシス王子のもとへ歩み寄った。
「王子様! お一人でいらっしゃるなんて、もったいないですわ。私と一曲、踊っていただけません?」
図々しい。
だが、アナスタシアの図々しさは、ある意味で天性のものだった。空気を読まない、というよりも、空気を読んだ上で無視する才能。
アレクシスは——上の空だった。
視線は、フィリップとシンデレラの方を追っている。
だが、さすがは王子。少なくとも表面上は、それを悟らせなかった。
「……ええ、喜んで」
穏やかに微笑み、アナスタシアの手を取る。
完璧な社交辞令。完璧な王族の振る舞い。
だが、その碧い瞳だけは——金色のドレスの残像を、追い続けていた。
八
フィリップ王子のダンスは、確かに上手かった。
リードは的確で、ステップは軽やかで、回転のタイミングも完璧。だが——アレクシスとは、何かが違った。
アレクシスのリードには、相手を包み込むような優しさがあった。フィリップのリードには、相手を魅せようとする華やかさがある。どちらが上とか下とかではなく、質が違う。
「お嬢さん、ダンスがお上手ですね。どこで習われたのですか?」
「……少し、昔に」
「ミステリアスだなぁ。名前も教えてくれないし」
フィリップは、困ったように——しかし楽しそうに笑った。
「前回の舞踏会でも、アレクシスを虜にしたそうじゃないですか。噂は隣国まで届いていますよ。『正体不明の美姫がアレクシス王子を骨抜きにした』って」
「骨抜きだなんて、そんな……」
「いやいや、事実でしょう。あの堅物のアレクシスが、たった一人の女性のために舞踏会を開くなんて、前代未聞ですよ」
(……やっぱり、王子様が私のために開いてくれたんだ)
胸が、きゅっと締まった。
ワルツが終わった。フィリップは、シンデレラの手を離さずに、バルコニーの方へ誘った。
「少し、涼みませんか?」
断る理由もなく、麗良はバルコニーに出た。夜風が心地よい。金色のドレスの裾が、風に揺れる。
フィリップは手すりに寄りかかり、月を見上げた。
「いい夜だ。——ねえ、お嬢さん。ヴァレンティアという国をご存知ですか?」
「……名前だけは」
「小さな国ですが、豊かな国ですよ。金鉱と銀鉱に恵まれていてね。宝石の産出量は大陸一。王宮の床は大理石ではなく、翡翠で敷き詰められている」
フィリップの碧い目が、きらりと光った。
「美しい女性には、美しい宝石が似合う。もしよければ、いつかヴァレンティアにいらっしゃいませんか? あなたに似合う宝石を、いくらでもお見せしますよ」
(……これ、口説かれてる?)
麗良の社畜センサーが反応した。
口説かれている。間違いなく口説かれている。金銀財宝をちらつかせて、シンデレラの気を引こうとしている。
悪い人ではなさそうだ。チャラいが、根は悪くない——たぶん。だが、麗良の心は、もう決まっていた。
「お気持ちは嬉しいのですが……」
「おっと、振られちゃいますか? まだ何も言ってないのに」
フィリップは、おどけたように肩をすくめた。
「まあ、いいでしょう。今夜はまだ長い。——おや」
フィリップの視線が、麗良の背後に向いた。
振り返ると、そこに——もう一人の男が立っていた。
長身。広い肩幅。鍛え上げられた体躯。
黒い髪を短く刈り込み、浅黒い肌に鋭い黒い瞳。軍服のような衣装を纏い、腰には儀礼用の剣を佩いている。王子というよりも——武人。そう形容するのがふさわしい男だった。
だが、顔立ちは整っている。精悍で、野性的で、アレクシスやフィリップとはまったく異なるタイプの——イケメンだった。
「……失礼。お楽しみのところを邪魔するつもりはない」
低く、硬い声。
「ガルディア王国第一王子、レオンハルトと申す。——そちらの御婦人に、一曲所望したい」
フィリップが、面白そうに口笛を吹いた。
「おやおや、レオンハルト殿まで。お嬢さん、モテモテですね」
「……フィリップ殿。茶化すな」
「はいはい。——では、お嬢さん。また後で」
フィリップはウインクを一つ残して、会場の中に戻っていった。
残されたのは、麗良と、武人の王子——レオンハルト。
「……踊っていただけるか」
不器用な誘い方だった。アレクシスの優雅さもなく、フィリップの軽やかさもない。ただ、まっすぐに、愚直に。
「……はい」
麗良は、その手を取った。
レオンハルトのダンスは——意外にも、丁寧だった。
武骨な見た目に反して、ステップは正確で、リードは力強いが乱暴ではない。ただ、明らかに慣れていない。時折、ステップのタイミングがわずかにずれる。
「……すまない。ダンスは得意ではないのだ」
「いいえ。とてもお上手ですよ」
「世辞はいい。——だが、あなたと踊れて光栄だ」
黒い瞳が、まっすぐにシンデレラを見つめる。
嘘のない目だった。駆け引きも、計算もない。ただ、思ったことをそのまま口にする——そういう男の目だった。
ワルツが終わった。
レオンハルトは、シンデレラの手を離し、一歩下がって、軍人式の敬礼をした。
「……名を、聞いてもよいか」
「申し訳ありません。名前は……」
「……そうか」
レオンハルトは、短く頷いた。追及しなかった。
「では、せめて——」
その時だった。
ゴーン……。
鐘の音が、夜空に響いた。
一つ。
「……!」
麗良の全身に、電流が走った。
(時間——!)
二つ。三つ。
今度は忘れない。今度こそ、忘れない。
「す、すみません! 私、もう行かなくては——!」
「待て。まだ話が——」
四つ。五つ。
麗良はレオンハルトの手を振りほどき、走り出した。
バルコニーから会場へ。会場を突っ切り、大階段へ。
六つ。七つ。
走りながら、麗良の頭の中では、社畜時代に培った「タスク管理能力」がフル回転していた。
(階段を降りる。途中で、右足のガラスの靴を脱ぐ。階段の中ほどに置く。いや、「落とす」んだ。自然に。走っている途中で脱げた、という体で——)
八つ。九つ。
大階段に差し掛かった。
金色のドレスの裾を持ち上げ、階段を駆け下りる。
(今だ——!)
右足に意識を集中する。ガラスの靴の踵を、わずかに浮かせる。
次の一歩を踏み出した瞬間——するり、と、ガラスの靴が足から離れた。
かつん。
透明な靴が、大理石の階段の上に、月光を受けて輝きながら——残された。
(落とした——! 落とせた——!)
十。十一。
麗良は振り返らなかった。片足裸足のまま、残りの階段を駆け下り、馬車に飛び乗った。
「出して!」
馬車が走り出す。
十二——。
最後の鐘が鳴り終わる。
光が弾けた。馬車がカボチャに。馬がネズミに。金色のドレスが消え、ぼろぼろのワンピースに戻る。
麗良は、月明かりの道の上に放り出された。
だが、今回は——笑っていた。
「やった……! やったよ……!」
片足にはガラスの靴。もう片足は裸足。
左右非対称の足元を見下ろしながら、麗良は月に向かって拳を突き上げた。
「ガラスの靴、落とせた——! 今度こそ、物語通り——!」
これで、王子がガラスの靴を拾う。「この靴の持ち主を探せ」と命じる。国中の娘に靴を試させ、やがてシンデレラにたどり着く。
ハッピーエンド。
約束されたハッピーエンド。
「……王子様。私、今度は間違えませんでしたよ。ガラスの靴を片方、きちんと落としました。すぐに——すぐに、迎えに来てくれますよね」
麗良は、残った片方のガラスの靴を胸に抱いて、幸せそうに目を閉じた。
夜風が、金色の髪を優しく撫でた。
九
だが——。
麗良の知らないところで、物語は、予想外の方向に動き始めていた。
舞踏会場、大階段。
シンデレラが走り去った直後。
三つの影が、ほぼ同時に階段に駆けつけた。
最初にガラスの靴に手を伸ばしたのは——レオンハルトだった。
バルコニーで一緒にいたのだ。シンデレラが走り出した瞬間、すぐに追いかけた。武人の脚力は、他の二人を凌駕していた。
大きな手が、小さなガラスの靴を拾い上げる。
月光を受けて、透明な靴が虹色に輝いた。
「この、小さなガラスの靴は……」
レオンハルトは、靴を光にかざした。精巧な造り。この世のものとは思えない透明度。そして——かすかに残る、温もり。
彼女の足が、ついさっきまで、ここに収まっていた。
「……側近」
「はっ」
影のように控えていた男が、一歩前に出た。
「この靴の持ち主を探してほしい。この靴に足が合う娘を、一人残らず——」
「おっと」
軽い声が、レオンハルトの言葉を遮った。
フィリップだった。
金髪を夜風になびかせ、にやにやと笑いながら、階段の手すりに寄りかかっている。
「レオンハルト殿、気が早いね。——俺も気になるんだよね、あの子」
「……フィリップ殿」
「だってさ、あんな美人、見たことないでしょ? 名前も素性もわからないミステリアスな美女。しかもダンスが上手くて、話していて楽しくて——こんな女性、放っておけるわけがない」
フィリップの碧い目が、レオンハルトの手の中のガラスの靴を見つめた。
「その靴、俺にも探させてくれないかな。ヴァレンティアの情報網を使えば、すぐに見つかると思うんだけど」
「断る」
レオンハルトは、即答した。
「この靴は私が拾った。私が探す」
「えー、独り占め? ケチだなぁ」
「ケチではない。道理だ」
二人の間に、火花が散った。
その時——。
「そのガラスの靴は、我が国の舞踏会会場で落とされたものだ」
静かな、しかし有無を言わせない声が、階段の上から降ってきた。
アレクシスだった。
白い軍服に青いマント。月明かりの中、その姿は彫像のように美しく——そして、その碧い瞳は、かつてないほど鋭かった。
階段を、一段一段、ゆっくりと降りてくる。
「我が国の法に従い取り扱う。いかに隣国の王子と言えども、持ち去るのはご遠慮願いたい」
その声には、普段の穏やかさはなかった。
王族としての——いや、一人の男としての、譲れない意志が込められていた。
レオンハルトの黒い瞳が、アレクシスの碧い瞳と交差した。
武人と王子。
二つの視線が、夜の空気を切り裂くように、ぶつかり合った。
「……アレクシス殿」
レオンハルトが、低い声で言った。
「この靴を拾ったのは、私だ」
「拾った場所は、我が国の城内だ。拾得物は、その国の法に従って処理される。これは国際慣例でもある」
「……」
レオンハルトの顎が、わずかに引き締まった。
反論の余地がないわけではない。だが——ここは他国の舞踏会場だ。他国の王子の領分で、力ずくで押し通すわけにはいかない。武人であっても、外交の機微は心得ている。
「……わかった」
レオンハルトは、ゆっくりとガラスの靴をアレクシスに差し出した。
「だが、覚えておけ、アレクシス殿。——私は、あの方を諦めたわけではない」
「俺もね」
フィリップが、軽い口調で——しかし、目だけは笑わずに、言い添えた。
アレクシスは、ガラスの靴を受け取った。
小さな、透明な靴。月光を受けて、掌の中で虹色に輝いている。
「……この靴の持ち主は、私が見つける」
静かに、しかし確固たる声で、アレクシスは宣言した。
三人の王子が、月明かりの階段に立っていた。
一人は、ガラスの靴を胸に抱いて。
一人は、腕を組んで不敵に笑って。
一人は、拳を握り締めて。
三つの視線が、シンデレラが走り去った夜の闇を——見つめていた。
十
その頃、麗良は——。
何も知らなかった。
月明かりの田舎道を、片足裸足でとぼとぼと歩きながら、幸せの余韻に浸っていた。
「王子様、かっこよかったなぁ……。『あなたにもう一度会うために、この舞踏会を開いた』って……。あんなこと言われたの、生まれて初めてだよ……」
にへら、と笑う。
灰だらけの顔で、ぼろぼろのワンピースで、片足裸足で——それでも、その笑顔は、舞踏会のどの令嬢よりも幸せそうだった。
「ガラスの靴も、ちゃんと落とせたし。これで王子様が靴を拾って、国中を探してくれて……あとは待ってるだけ。完璧。今度こそ完璧」
残った片方のガラスの靴を、大事そうに抱える。
「……ふふ。王子様が来たら、この靴を出して、『もう片方は、ここにあります』って——きゃー、ロマンチック!」
一人で盛り上がっている。
ネズミが一匹、心配そうにシンデレラの足元をちょろちょろしていた。
「大丈夫だよ。今度こそ、大丈夫。物語通りに進むから」
麗良は、自信満々に頷いた。
——三人の王子が、自分を巡って火花を散らしていることなど、露ほども知らずに。
屋敷に戻り、床下にガラスの靴を隠し、藁のベッドに潜り込む。
継母たちが帰ってくる足音が聞こえた。
「今夜も、あの女が来ていたわ! 今度は金色のドレスで!」
「王子様とまた踊っていたし! しかも隣国の王子様たちとも踊っていたのよ! 信じられない!」
「あの女、一体何者なのかしら……」
義姉たちの怒りの声が、屋敷中に響く。
麗良は、毛布の中で、くすくすと笑った。
(ごめんね、お姉様たち。あの女、あなたたちの灰かぶりなんですよ)
そして、目を閉じた。
明日からは、王子が靴の持ち主を探しに来るのを待つだけだ。
物語は、ハッピーエンドに向かって——。
「……ん?」
ふと、麗良の脳裏に、違和感が過ぎった。
義姉たちの言葉が、引っかかる。
『隣国の王子様たちとも踊っていたのよ!』
……そういえば。
フィリップ王子。レオンハルト王子。
二人とも、明らかにシンデレラに好意を持っていた。フィリップは金銀財宝で気を引こうとしていたし、レオンハルトは不器用ながらも名前を聞こうとしていた。
「……まあ、でも、ガラスの靴を拾うのはアレクシス王子様だし。物語の主人公は、最初からいた王子様だし。隣国の王子様たちは、モブ……だよね?」
麗良は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「……だよね?」
返事はなかった。
ネズミが一匹、枕元で丸くなって寝息を立てているだけだった。
麗良は、少しだけ不安になりながら——それでも、疲労には勝てず、深い眠りに落ちていった。
第二話「ガラスの靴は落としたけれど」——了
第三話「王子様が来ない(代わりに来たのは)」に続く
夜が明ける。
新しい朝が来る。
物語は——麗良の知らないところで、「シンデレラ」の枠を、静かに、確実に、逸脱し始めていた。
三人の王子の想いを乗せて。
一つのガラスの靴を巡って。




