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第二話「ガラスの靴は落としたけれど」 後編

二度目の舞踏会は、前回を遥かに凌ぐ華やかさだった。


会場は同じ王城の大広間だが、装飾が一新されていた。天井から下がるシャンデリアの数は倍に増え、壁面には周辺国の紋章を織り込んだタペストリーが掛けられ、楽団の規模も大きくなっている。


そして、人の数。


前回は国内の貴族だけだったが、今回は周辺国の王侯貴族も招かれている。見慣れない異国の衣装を纏った紳士淑女が、あちこちで談笑している。言語も、文化も、多様だ。


その中に——麗良は、足を踏み入れた。


金色のドレスが、シャンデリアの光を受けて燃えるように輝く。


前回と同じ——いや、前回以上のざわめきが、会場に広がった。


「あの方は……!」

「前回の舞踏会の……!」

「銀のドレスの方だわ……! 今度は金色……!」

「なんて美しい……まるで太陽の女神のよう……」


視線が集まる。だが、麗良の目は、一点だけを探していた。


いた。


会場の奥、前回と同じ一段高い場所に——アレクシス王子が立っていた。


白い軍服に、今回は深い青のマントを羽織っている。栗色の髪。碧い瞳。凛とした立ち姿。


その瞳が、会場の入り口に立つ金色のドレスの女を捉えた瞬間——。


王子の表情が、変わった。


驚きと、喜びと、安堵が、一瞬のうちに碧い瞳を駆け抜けた。


まるで、長い冬の終わりに春の陽射しを見つけた人のような——そんな顔だった。


王子が、一段高い場所から降りてきた。前回と同じように。人々が道を開ける。前回と同じように。まっすぐに、迷いなく、シンデレラのもとへ。


だが、前回と違ったのは——その足取りの速さだった。


王族の威厳を保ちながらも、明らかに急いでいる。一歩一歩が大きく、マントが翻る。


「——来てくれたのですね」


王子の声は、かすかに震えていた。


「もう一度会えるとは思っていなかった。いや——会えると信じて、この舞踏会を開いたのですが」


「……え?」


麗良は、目を瞬かせた。


「この舞踏会を……開いた?」


「ええ。あなたにもう一度会うために。名目は秋の祝賀と親善交流ですが——本当の理由は、あなたです」


(……この舞踏会、王子様が私に会うために開いたの?)


麗良の心臓が、大きく跳ねた。


都合よく舞踏会が開かれたのではなかった。王子が、シンデレラに会うために、わざわざ舞踏会を企画したのだ。


手がかりが何もない中で、それでも可能性に賭けて。


「……っ」


目頭が、熱くなった。


泣くな。ここで泣いたら台無しだ。せっかくの金色のドレスが台無しだ。


「……私も、もう一度お会いしたかったです。王子様」


精一杯の笑顔で、そう言った。


王子が、花のように微笑んだ。


「——踊っていただけますか?」


「喜んで」


差し出された手を取る。


前回と同じ。でも、前回よりもずっと——温かく感じた。


ワルツが始まった。


王子の手が腰に添えられ、もう片方の手がシンデレラの手を包む。


前回よりも、距離が近い気がした。王子の体温が、ドレス越しに伝わってくる。


「あれから、ずっとあなたのことを考えていました」


王子が、低い声で囁いた。


「名前も知らない。どこにいるかもわからない。それなのに、一日たりとも、あなたのことを忘れられなかった」


「……王子様」


「あの夜、あなたが走り去った後——階段に何か落ちていないか、探しました」


麗良の心臓が、ぎくりと跳ねた。


「靴の一つでも落としてくれていたら、手がかりになったのに——何もなかった」


(ごめんなさい王子様。靴、両方持って帰っちゃいました)


「だから、こうして舞踏会を開くしかなかった。……少し、強引だったかもしれませんね」


「いいえ」


麗良は、首を横に振った。


「嬉しいです。とても……とても、嬉しいです」


本心だった。


誰かが自分のために、これほどのことをしてくれたのは、人生で初めてだった。前世でも、今世でも。


くるり、と回される。金色のスカートが花のように広がる。ガラスの靴が、大理石の床の上で澄んだ音を立てる。


会場中の視線が、再び二人に注がれている。


だが、麗良の意識は王子だけに向いていた。


碧い瞳。柔らかな栗色の髪。優しい微笑み。


(好き)


もう、認めるしかなかった。


(この人のことが、好きだ)


物語の流れとか、ハッピーエンドの確定とか、そういう打算を超えて——純粋に、一人の人間として、この人に惹かれている。


ワルツが終わった。


だが、王子は手を離さなかった。


「今度こそ——名前を教えていただけませんか」


碧い瞳が、真剣にシンデレラを見つめる。


麗良は、唇を開きかけた。


今度こそ、何か答えなければ。名前は言えなくても、せめて——。


「失礼」


横から、声がかかった。


麗良と王子が同時に振り返る。


そこに立っていたのは——。


金髪碧眼の、若い男だった。


背は王子と同じくらい高く、体格はやや細身。だが、その立ち姿には生まれながらの自信が漲っている。白い歯を見せて笑う顔は、文句なしのイケメンだが——どこか軽い。チャラい、と言ってもいい。


豪華な衣装には、見慣れない紋章が刺繍されている。この国の貴族ではない。


「隣国ヴァレンティア王国の第二王子、フィリップと申します」


流暢な、しかしわずかに訛りのある言葉で、男は名乗った。そして、シンデレラに向かって、芝居がかった仕草で一礼する。


「美しいお嬢さん。一曲、お手合わせ願えませんか?」


(……え?)


麗良は、目を瞬かせた。


隣国の王子が、ダンスに誘っている。自分を。


アレクシス王子の顔を見る。碧い瞳に、かすかな——ほんのかすかな、不快の色が過ぎった。


だが、それは一瞬だった。


王子は、すぐに穏やかな表情を取り戻した。


「……フィリップ殿。ようこそ、我が国の舞踏会へ」


「ありがとう、アレクシス殿。素晴らしい舞踏会だ。特に——こんな美しい花が咲いているとは、聞いていなかったよ」


フィリップ王子の視線が、シンデレラの全身を舐めるように這う。不躾ではないが、明らかに品定めをしている目だ。


アレクシス王子の表情は変わらない。だが、シンデレラの手を握る力が、ほんのわずかに強くなった気がした。


(……王子様?)


麗良は、アレクシスの顔を見上げた。


王子は、静かに——しかし確実に、葛藤していた。


シンデレラと話をしたかった。名前を聞きたかった。もっと一緒にいたかった。


だが——フィリップは、隣国の王子だ。ゲストだ。この舞踏会は親善交流の名目で開かれている。ゲストの申し出を無碍に断れば、外交問題になりかねない。


王族としての矜持と、一人の男としての感情が、せめぎ合っている。


そして——矜持が、勝った。


「……どうぞ」


アレクシスは、静かにシンデレラの手を離した。


「フィリップ殿は、ダンスの名手と聞いています。きっと楽しんでいただけるでしょう」


その声は穏やかだったが、麗良には——離された手の指先が、名残惜しそうに震えていたのが、見えた。


「ありがとう、アレクシス殿。では——お嬢さん、参りましょうか」


フィリップ王子が、にっこりと手を差し出す。


麗良は、一瞬だけアレクシスを振り返った。


碧い瞳が、静かにシンデレラを見ていた。「行っておいで」と言うように。でも、その奥に——寂しさが、滲んでいた。


(……王子様)


断りたかった。


でも、麗良にも——この場の空気を読む力はあった。社畜時代に培った、場の力学を瞬時に把握する能力。ここでフィリップ王子の申し出を断れば、アレクシス王子の立場が悪くなる。ゲストに恥をかかせたことになる。


「……喜んで、フィリップ殿下」


麗良は、フィリップの手を取った。


その瞬間——会場の隅で、アナスタシアの目が光った。


「……チャンスだわ」


義姉は、金色のドレスの女が別の男と踊り始めたのを見て、すかさずアレクシス王子のもとへ歩み寄った。


「王子様! お一人でいらっしゃるなんて、もったいないですわ。私と一曲、踊っていただけません?」


図々しい。


だが、アナスタシアの図々しさは、ある意味で天性のものだった。空気を読まない、というよりも、空気を読んだ上で無視する才能。


アレクシスは——上の空だった。


視線は、フィリップとシンデレラの方を追っている。


だが、さすがは王子。少なくとも表面上は、それを悟らせなかった。


「……ええ、喜んで」


穏やかに微笑み、アナスタシアの手を取る。


完璧な社交辞令。完璧な王族の振る舞い。


だが、その碧い瞳だけは——金色のドレスの残像を、追い続けていた。


フィリップ王子のダンスは、確かに上手かった。


リードは的確で、ステップは軽やかで、回転のタイミングも完璧。だが——アレクシスとは、何かが違った。


アレクシスのリードには、相手を包み込むような優しさがあった。フィリップのリードには、相手を魅せようとする華やかさがある。どちらが上とか下とかではなく、質が違う。


「お嬢さん、ダンスがお上手ですね。どこで習われたのですか?」


「……少し、昔に」


「ミステリアスだなぁ。名前も教えてくれないし」


フィリップは、困ったように——しかし楽しそうに笑った。


「前回の舞踏会でも、アレクシスを虜にしたそうじゃないですか。噂は隣国まで届いていますよ。『正体不明の美姫がアレクシス王子を骨抜きにした』って」


「骨抜きだなんて、そんな……」


「いやいや、事実でしょう。あの堅物のアレクシスが、たった一人の女性のために舞踏会を開くなんて、前代未聞ですよ」


(……やっぱり、王子様が私のために開いてくれたんだ)


胸が、きゅっと締まった。


ワルツが終わった。フィリップは、シンデレラの手を離さずに、バルコニーの方へ誘った。


「少し、涼みませんか?」


断る理由もなく、麗良はバルコニーに出た。夜風が心地よい。金色のドレスの裾が、風に揺れる。


フィリップは手すりに寄りかかり、月を見上げた。


「いい夜だ。——ねえ、お嬢さん。ヴァレンティアという国をご存知ですか?」


「……名前だけは」


「小さな国ですが、豊かな国ですよ。金鉱と銀鉱に恵まれていてね。宝石の産出量は大陸一。王宮の床は大理石ではなく、翡翠で敷き詰められている」


フィリップの碧い目が、きらりと光った。


「美しい女性には、美しい宝石が似合う。もしよければ、いつかヴァレンティアにいらっしゃいませんか? あなたに似合う宝石を、いくらでもお見せしますよ」


(……これ、口説かれてる?)


麗良の社畜センサーが反応した。


口説かれている。間違いなく口説かれている。金銀財宝をちらつかせて、シンデレラの気を引こうとしている。


悪い人ではなさそうだ。チャラいが、根は悪くない——たぶん。だが、麗良の心は、もう決まっていた。


「お気持ちは嬉しいのですが……」


「おっと、振られちゃいますか? まだ何も言ってないのに」


フィリップは、おどけたように肩をすくめた。


「まあ、いいでしょう。今夜はまだ長い。——おや」


フィリップの視線が、麗良の背後に向いた。


振り返ると、そこに——もう一人の男が立っていた。


長身。広い肩幅。鍛え上げられた体躯。


黒い髪を短く刈り込み、浅黒い肌に鋭い黒い瞳。軍服のような衣装を纏い、腰には儀礼用の剣を佩いている。王子というよりも——武人。そう形容するのがふさわしい男だった。


だが、顔立ちは整っている。精悍で、野性的で、アレクシスやフィリップとはまったく異なるタイプの——イケメンだった。


「……失礼。お楽しみのところを邪魔するつもりはない」


低く、硬い声。


「ガルディア王国第一王子、レオンハルトと申す。——そちらの御婦人に、一曲所望したい」


フィリップが、面白そうに口笛を吹いた。


「おやおや、レオンハルト殿まで。お嬢さん、モテモテですね」


「……フィリップ殿。茶化すな」


「はいはい。——では、お嬢さん。また後で」


フィリップはウインクを一つ残して、会場の中に戻っていった。


残されたのは、麗良と、武人の王子——レオンハルト。


「……踊っていただけるか」


不器用な誘い方だった。アレクシスの優雅さもなく、フィリップの軽やかさもない。ただ、まっすぐに、愚直に。


「……はい」


麗良は、その手を取った。


レオンハルトのダンスは——意外にも、丁寧だった。


武骨な見た目に反して、ステップは正確で、リードは力強いが乱暴ではない。ただ、明らかに慣れていない。時折、ステップのタイミングがわずかにずれる。


「……すまない。ダンスは得意ではないのだ」


「いいえ。とてもお上手ですよ」


「世辞はいい。——だが、あなたと踊れて光栄だ」


黒い瞳が、まっすぐにシンデレラを見つめる。


嘘のない目だった。駆け引きも、計算もない。ただ、思ったことをそのまま口にする——そういう男の目だった。


ワルツが終わった。


レオンハルトは、シンデレラの手を離し、一歩下がって、軍人式の敬礼をした。


「……名を、聞いてもよいか」


「申し訳ありません。名前は……」


「……そうか」


レオンハルトは、短く頷いた。追及しなかった。


「では、せめて——」


その時だった。


ゴーン……。


鐘の音が、夜空に響いた。


一つ。


「……!」


麗良の全身に、電流が走った。


(時間——!)


二つ。三つ。


今度は忘れない。今度こそ、忘れない。


「す、すみません! 私、もう行かなくては——!」


「待て。まだ話が——」


四つ。五つ。


麗良はレオンハルトの手を振りほどき、走り出した。


バルコニーから会場へ。会場を突っ切り、大階段へ。


六つ。七つ。


走りながら、麗良の頭の中では、社畜時代に培った「タスク管理能力」がフル回転していた。


(階段を降りる。途中で、右足のガラスの靴を脱ぐ。階段の中ほどに置く。いや、「落とす」んだ。自然に。走っている途中で脱げた、という体で——)


八つ。九つ。


大階段に差し掛かった。


金色のドレスの裾を持ち上げ、階段を駆け下りる。


(今だ——!)


右足に意識を集中する。ガラスの靴の踵を、わずかに浮かせる。


次の一歩を踏み出した瞬間——するり、と、ガラスの靴が足から離れた。


かつん。


透明な靴が、大理石の階段の上に、月光を受けて輝きながら——残された。


(落とした——! 落とせた——!)


十。十一。


麗良は振り返らなかった。片足裸足のまま、残りの階段を駆け下り、馬車に飛び乗った。


「出して!」


馬車が走り出す。


十二——。


最後の鐘が鳴り終わる。


光が弾けた。馬車がカボチャに。馬がネズミに。金色のドレスが消え、ぼろぼろのワンピースに戻る。


麗良は、月明かりの道の上に放り出された。


だが、今回は——笑っていた。


「やった……! やったよ……!」


片足にはガラスの靴。もう片足は裸足。


左右非対称の足元を見下ろしながら、麗良は月に向かって拳を突き上げた。


「ガラスの靴、落とせた——! 今度こそ、物語通り——!」


これで、王子がガラスの靴を拾う。「この靴の持ち主を探せ」と命じる。国中の娘に靴を試させ、やがてシンデレラにたどり着く。


ハッピーエンド。


約束されたハッピーエンド。


「……王子様。私、今度は間違えませんでしたよ。ガラスの靴を片方、きちんと落としました。すぐに——すぐに、迎えに来てくれますよね」


麗良は、残った片方のガラスの靴を胸に抱いて、幸せそうに目を閉じた。


夜風が、金色の髪を優しく撫でた。


だが——。


麗良の知らないところで、物語は、予想外の方向に動き始めていた。


舞踏会場、大階段。


シンデレラが走り去った直後。


三つの影が、ほぼ同時に階段に駆けつけた。


最初にガラスの靴に手を伸ばしたのは——レオンハルトだった。


バルコニーで一緒にいたのだ。シンデレラが走り出した瞬間、すぐに追いかけた。武人の脚力は、他の二人を凌駕していた。


大きな手が、小さなガラスの靴を拾い上げる。


月光を受けて、透明な靴が虹色に輝いた。


「この、小さなガラスの靴は……」


レオンハルトは、靴を光にかざした。精巧な造り。この世のものとは思えない透明度。そして——かすかに残る、温もり。


彼女の足が、ついさっきまで、ここに収まっていた。


「……側近」


「はっ」


影のように控えていた男が、一歩前に出た。


「この靴の持ち主を探してほしい。この靴に足が合う娘を、一人残らず——」


「おっと」


軽い声が、レオンハルトの言葉を遮った。


フィリップだった。


金髪を夜風になびかせ、にやにやと笑いながら、階段の手すりに寄りかかっている。


「レオンハルト殿、気が早いね。——俺も気になるんだよね、あの子」


「……フィリップ殿」


「だってさ、あんな美人、見たことないでしょ? 名前も素性もわからないミステリアスな美女。しかもダンスが上手くて、話していて楽しくて——こんな女性、放っておけるわけがない」


フィリップの碧い目が、レオンハルトの手の中のガラスの靴を見つめた。


「その靴、俺にも探させてくれないかな。ヴァレンティアの情報網を使えば、すぐに見つかると思うんだけど」


「断る」


レオンハルトは、即答した。


「この靴は私が拾った。私が探す」


「えー、独り占め? ケチだなぁ」


「ケチではない。道理だ」


二人の間に、火花が散った。


その時——。


「そのガラスの靴は、我が国の舞踏会会場で落とされたものだ」


静かな、しかし有無を言わせない声が、階段の上から降ってきた。


アレクシスだった。


白い軍服に青いマント。月明かりの中、その姿は彫像のように美しく——そして、その碧い瞳は、かつてないほど鋭かった。


階段を、一段一段、ゆっくりと降りてくる。


「我が国の法に従い取り扱う。いかに隣国の王子と言えども、持ち去るのはご遠慮願いたい」


その声には、普段の穏やかさはなかった。


王族としての——いや、一人の男としての、譲れない意志が込められていた。


レオンハルトの黒い瞳が、アレクシスの碧い瞳と交差した。


武人と王子。


二つの視線が、夜の空気を切り裂くように、ぶつかり合った。


「……アレクシス殿」


レオンハルトが、低い声で言った。


「この靴を拾ったのは、私だ」


「拾った場所は、我が国の城内だ。拾得物は、その国の法に従って処理される。これは国際慣例でもある」


「……」


レオンハルトの顎が、わずかに引き締まった。


反論の余地がないわけではない。だが——ここは他国の舞踏会場だ。他国の王子の領分で、力ずくで押し通すわけにはいかない。武人であっても、外交の機微は心得ている。


「……わかった」


レオンハルトは、ゆっくりとガラスの靴をアレクシスに差し出した。


「だが、覚えておけ、アレクシス殿。——私は、あの方を諦めたわけではない」


「俺もね」


フィリップが、軽い口調で——しかし、目だけは笑わずに、言い添えた。


アレクシスは、ガラスの靴を受け取った。


小さな、透明な靴。月光を受けて、掌の中で虹色に輝いている。


「……この靴の持ち主は、私が見つける」


静かに、しかし確固たる声で、アレクシスは宣言した。


三人の王子が、月明かりの階段に立っていた。


一人は、ガラスの靴を胸に抱いて。


一人は、腕を組んで不敵に笑って。


一人は、拳を握り締めて。


三つの視線が、シンデレラが走り去った夜の闇を——見つめていた。


その頃、麗良は——。


何も知らなかった。


月明かりの田舎道を、片足裸足でとぼとぼと歩きながら、幸せの余韻に浸っていた。


「王子様、かっこよかったなぁ……。『あなたにもう一度会うために、この舞踏会を開いた』って……。あんなこと言われたの、生まれて初めてだよ……」


にへら、と笑う。


灰だらけの顔で、ぼろぼろのワンピースで、片足裸足で——それでも、その笑顔は、舞踏会のどの令嬢よりも幸せそうだった。


「ガラスの靴も、ちゃんと落とせたし。これで王子様が靴を拾って、国中を探してくれて……あとは待ってるだけ。完璧。今度こそ完璧」


残った片方のガラスの靴を、大事そうに抱える。


「……ふふ。王子様が来たら、この靴を出して、『もう片方は、ここにあります』って——きゃー、ロマンチック!」


一人で盛り上がっている。


ネズミが一匹、心配そうにシンデレラの足元をちょろちょろしていた。


「大丈夫だよ。今度こそ、大丈夫。物語通りに進むから」


麗良は、自信満々に頷いた。


——三人の王子が、自分を巡って火花を散らしていることなど、露ほども知らずに。


屋敷に戻り、床下にガラスの靴を隠し、藁のベッドに潜り込む。


継母たちが帰ってくる足音が聞こえた。


「今夜も、あの女が来ていたわ! 今度は金色のドレスで!」

「王子様とまた踊っていたし! しかも隣国の王子様たちとも踊っていたのよ! 信じられない!」

「あの女、一体何者なのかしら……」


義姉たちの怒りの声が、屋敷中に響く。


麗良は、毛布の中で、くすくすと笑った。


(ごめんね、お姉様たち。あの女、あなたたちの灰かぶりなんですよ)


そして、目を閉じた。


明日からは、王子が靴の持ち主を探しに来るのを待つだけだ。


物語は、ハッピーエンドに向かって——。


「……ん?」


ふと、麗良の脳裏に、違和感が過ぎった。


義姉たちの言葉が、引っかかる。


『隣国の王子様たちとも踊っていたのよ!』


……そういえば。


フィリップ王子。レオンハルト王子。


二人とも、明らかにシンデレラに好意を持っていた。フィリップは金銀財宝で気を引こうとしていたし、レオンハルトは不器用ながらも名前を聞こうとしていた。


「……まあ、でも、ガラスの靴を拾うのはアレクシス王子様だし。物語の主人公は、最初からいた王子様だし。隣国の王子様たちは、モブ……だよね?」


麗良は、自分に言い聞かせるように呟いた。


「……だよね?」


返事はなかった。


ネズミが一匹、枕元で丸くなって寝息を立てているだけだった。


麗良は、少しだけ不安になりながら——それでも、疲労には勝てず、深い眠りに落ちていった。


第二話「ガラスの靴は落としたけれど」——了


第三話「王子様が来ない(代わりに来たのは)」に続く

夜が明ける。


新しい朝が来る。


物語は——麗良の知らないところで、「シンデレラ」の枠を、静かに、確実に、逸脱し始めていた。


三人の王子の想いを乗せて。


一つのガラスの靴を巡って。

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