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第二話「ガラスの靴は落としたけれど」 前編

朝が来た。


鶏の鳴き声で目が覚める。窓の外はまだ薄暗い。藁のベッドの中で、麗良は天井の染みを数えながら、昨夜の出来事を反芻していた。


王子の手の温もり。碧い瞳。月明かりの下の微笑み。


そして——両足揃ったガラスの靴。


「……はぁ」


ため息が、白い息になって消えた。冬の朝は冷える。暖炉の火はとうに消えている。


床下の板を一枚持ち上げて、古い布に包んだガラスの靴を確認する。月光を失っても、ガラスの靴はほのかに虹色の光を帯びていた。美しい。美しいが、今の麗良にとっては、これは「やらかした証拠品」でしかない。


「本当なら、今頃……」


本当なら、今頃、王子様が城の大階段に残された片方のガラスの靴を手に取り、「この靴の持ち主を探し出せ!」と家臣たちに命じている頃なのだ。家臣たちが国中を駆け回り、すべての年頃の娘にガラスの靴を試させ、やがてこの屋敷にもたどり着き——。


「……なのに」


ガラスの靴は、揃ってここにある。


王子様の手元には、何の手がかりもない。


名前も知らない。住所も知らない。顔は覚えているだろうが、魔法が解けた今のシンデレラは灰まみれの召使いだ。舞踏会の銀のドレスの美姫と、この薄汚れた少女が同一人物だとは、誰も——王子様でさえ——思うまい。


「王子様……」


切ない。


あの温かい手に、もう一度触れたい。あの碧い瞳に、もう一度見つめられたい。


だが、手段がない。


こちらから城に押しかけるわけにもいかない。灰だらけの召使いが「私が舞踏会で踊った相手です」と名乗り出たところで、門前払いがオチだ。


「……詰んでる。やっぱり詰んでる」


ガラスの靴を布に包み直し、床下に戻す。


そして、いつもの朝が始まった。


「シンデレラ! 朝食はまだなの!?」


継母の声が、屋敷の二階から降ってくる。いつもより、声に棘がある。


「は、はい! ただいま!」


麗良は台所に駆け込み、パンを切り、スープを温め、果物を盛り付けた。手際は社畜時代に鍛えられたマルチタスク能力のおかげで、転生初日よりも格段に上がっている。


だが、今日は——何をやっても、怒られた。


「このスープ、ぬるいわ。作り直しなさい」


作り直した。


「今度は熱すぎるわ。私の舌を火傷させる気?」


「……申し訳ありません」


「まったく、本当に使えない子ね」


継母の機嫌が悪い理由は、明白だった。


昨夜の舞踏会だ。


継母は、娘たちのどちらかが王子に見初められることを期待していた。それなのに、王子はどこの馬の骨とも知れない銀のドレスの女にかかりきりで、アナスタシアにもドリゼラにも一瞥もくれなかった。


その苛立ちが、シンデレラに向かっている。


八つ当たりだ。完全なる八つ当たりだ。


「シンデレラ! 私の部屋の絨毯に染みがあるの! 今すぐ落としなさい!」


アナスタシアも、いつにも増して攻撃的だった。赤毛を振り乱し、頬を紅潮させて怒鳴る。


「あの女! あの銀のドレスの女! 王子様を独り占めして! 一体何様のつもりなのかしら!」


(私様です)


とは言えない。


「本当に腹が立つわ。ねえシンデレラ、あなたも見たでしょう? ……ああ、そうだったわ、あなたは舞踏会に行けなかったんだものね。おほほほ」


「……ええ、お姉様。残念ながら」


「ふん。行ったところで、あなたなんか誰にも相手にされないでしょうけど」


(あなたが相手にされなかった王子様に、私は一晩中手を握られてましたけどね)


心の中の毒舌は、社畜時代よりもキレが増している気がする。


「シンデレラ。庭の雑草を全部抜きなさい。今日中に」


ドリゼラは、もっと陰湿だった。黒髪の下の暗い目が、じっとりとシンデレラを見つめる。


「それから、屋根裏の荷物の整理。地下室の掃除。馬小屋の藁の入れ替え。洗濯物は三回分溜まっているから、全部やること。ああ、それから——」


「……はい、お姉様」


仕事量が、明らかに増えている。


いつもの一・五倍——いや、二倍近い。


舞踏会で正体不明の美女に王子を奪われた鬱憤が、そのままシンデレラへの労働量に変換されている。理不尽の極みだが、虐げる側にとって、手近な弱者に当たり散らすのは古今東西変わらない人間の業なのだろう。


(……前の会社の課長も、部長に怒られた日は私への仕事の振り方がえげつなかったもんなぁ)


既視感のある構図に、麗良は苦笑した。


だが、耐えた。


耐えられた。


なぜなら——。


(王子様に、また会いたい)


その一念が、すべてを支えていた。


社畜時代、麗良を支えていたのは「生活のため」という消極的な理由だけだった。だから心が擦り切れた。だから倒れた。


でも今は違う。


会いたい人がいる。


届けたい想いがある。


それだけで、人はこんなにも強くなれるのだと、麗良は初めて知った。


その頃——王城では。


アレクシス王子は、執務室の窓から、ぼんやりと空を眺めていた。


書類の山が机の上に積まれている。隣国との通商条約の草案。領内の治水工事の予算書。軍備の報告書。どれも重要な案件ばかりだが、今日の王子の目には、文字が滑って頭に入ってこなかった。


「……殿下」


側近のセバスチャンが、控えめに声をかけた。白髪交じりの壮年の男で、王子が幼い頃から仕えている忠臣だ。


「通商条約の件、隣国の使節が回答を待っておりますが……」


「……ああ、すまない。少し待ってくれ」


王子は書類に目を落としたが、三行読んだところで、また視線が宙を彷徨った。


銀のドレス。金色の髪。青い瞳に宿る、不思議な光。


あの夜、バルコニーで並んで月を見た。彼女の横顔は、月光よりも美しかった。


「あなたの瞳には、他の誰にもない光がある」——自分はそう言った。お世辞ではなかった。彼女の目には、この国の令嬢たちの誰にもない、深い深い何かがあった。多くを経験し、多くを耐え、それでもなお前を向こうとする者だけが持つ、静かな強さ。


名前を聞いた。教えてもらえなかった。


また会えるかと聞いた。答えをもらう前に、鐘が鳴った。


彼女は走り去った。振り返りもせずに。


残されたのは、大理石の階段に響くガラスの靴の音の残響と——何もない。


文字通り、何も残っていなかった。


靴の一つでも落としてくれれば、手がかりになったのに。


「……殿下?」


「……セバスチャン」


「はい」


「あの夜の——舞踏会の、銀のドレスの女性について、何かわかったか」


セバスチャンは、わずかに眉を下げた。


「申し訳ございません。城門の衛兵に確認いたしましたが、金色のカボチャの馬車で来場し、同じ馬車で去ったということ以外、何も。馬車の紋章もなく、従者に聞き取りをする間もなく走り去ったと」


「……そうか」


王子は、静かに目を閉じた。


金色のカボチャの馬車。それ自体が謎だ。この国の貴族で、そのような馬車を持つ家はない。隣国の王族や貴族の馬車とも一致しない。


まるで、夢の中から現れて、夢の中に消えていったかのようだ。


だが、夢ではなかった。


あの手の温もりは、本物だった。


あの声は、あの笑顔は、あの瞳は——本物だった。


「……セバスチャン」


「はい、殿下」


「近いうちに、もう一度、舞踏会を開催できないだろうか」


セバスチャンが、わずかに目を見開いた。


「舞踏会を……もう一度、ですか」


「ああ。名目は何でもいい。隣国の王族たちとの親善交流会でも、秋の収穫祭の祝賀でも、何でも構わない。規模は前回より大きくていい。いや——大きくしてほしい。周辺の王侯貴族にも広く招待状を出してくれ」


「……殿下、それは、あの方にもう一度会うため、ということでしょうか」


王子は、セバスチャンの目をまっすぐに見た。


「……ああ」


隠すつもりはなかった。


「会えないかもしれない。彼女がもう一度来てくれる保証はない。だが——可能性があるなら、何もしないでいることはできない」


セバスチャンは、しばらく王子の顔を見つめていた。


幼い頃から見てきた。聡明で、冷静で、責任感が強く、感情を表に出すことの少ない王子。その王子が、こんなにも真剣な目をしている。こんなにも、切実な声で語っている。


「……承知いたしました」


老臣は、深く頭を下げた。


「最善の名目を考え、最短の日程で準備いたします」


「頼む」


王子は、再び窓の外に目を向けた。


秋の空は高く、澄んでいた。


あの夜の月は、もう沈んでいる。だが、王子の胸の中では、まだ——銀色の光が、消えずに灯っていた。


それから、半月ほどが過ぎた。


麗良の日常は、相変わらずだった。朝から晩まで働き詰め。継母と義姉たちの機嫌は、舞踏会の夜以来、一向に回復しない。むしろ日を追うごとに悪化している気さえする。


「シンデレラ、この銀食器、曇っているわ。全部磨き直しなさい」

「シンデレラ、庭の薔薇に虫がついているの。一匹残らず取りなさい」

「シンデレラ、私の靴が汚れたわ。舐めるように磨きなさい」


(「舐めるように」って比喩だよね? 比喩だと信じたい)


麗良は黙々と働いた。


だが、心の中では、常に考えていた。


王子に会う方法を。


自分から城に行く? 無理だ。灰だらけの召使いが城門で「王子様に会わせてください」と言ったところで、追い返されるのが関の山。下手をすれば不審者として捕まる。


手紙を書く? 識字率の低いこの時代、召使いが字を書けること自体が不自然だ。しかも、届ける手段がない。


ガラスの靴を持って行く? それは最終手段だが、どうやって城まで行くのか、どうやって王子に直接渡すのか、という問題が残る。


「……うーん」


暖炉の灰を掃きながら、麗良は唸った。


社畜時代なら、こういう「詰んだ」状況でも、なんとか突破口を見つけてきた。クライアントが無理な納期を言ってきたら、工程を分解して、並列処理できる部分を洗い出して、外注できるところは外注して——。


だが、今回ばかりは、分解しようにも要素が少なすぎる。


「王子に会う」というゴールに対して、使えるリソースが「ガラスの靴二足」と「社畜根性」しかない。


「……もう一回、舞踏会があれば」


ぽつりと呟いた。


もう一回、舞踏会があれば。もう一度、魔法使いが来てくれれば。今度こそ、ちゃんとガラスの靴を落として——。


そんな都合のいい話が——。


「お母様! お城からまた招待状が届きましたわ!」


——あった。


アナスタシアの甲高い声が、屋敷中に響き渡った。


麗良は、暖炉の前で固まった。箒を握る手が、かすかに震えた。


「まあ、本当?」


継母が、冷たい目を細めて招待状を受け取る。


「……ほう。今度は周辺国の王侯貴族も招いた、大規模な親善舞踏会ですって。王家主催の秋の祝賀を兼ねているそうよ」


「素敵! 前回よりも華やかになるのね!」


ドリゼラが目を輝かせる。


「今度こそ、王子様と踊るわ! あの銀のドレスの女なんかに負けないんだから!」


アナスタシアが拳を握る。


麗良は、台所の入り口から、その様子をそっと覗いていた。


(……舞踏会が、もう一度ある)


心臓が、早鐘のように打っていた。


なぜだ。なぜ、もう一度舞踏会が開かれるのだ。原作のシンデレラでは、舞踏会は基本的に一度きり——いや、ペロー版では一度だが、グリム版では三夜連続だったはず。この世界のルールがどちらに準拠しているのかはわからない。


だが、理由はどうでもいい。


チャンスだ。


二度目のチャンスが、向こうからやってきた。


(今度こそ——今度こそ、絶対に、ガラスの靴を落とす)


麗良は、胸の中で固く誓った。


舞踏会の日が来た。


前回と同じ光景が繰り返される。


「シンデレラ! コルセットをもっときつく!」

「シンデレラ! 髪飾りが曲がっているわ!」

「シンデレラ! この香水、違うのを持ってきなさい!」


麗良は黙々と義姉たちの支度を手伝った。今回は、ささやかな復讐すらしなかった。コルセットは適切な強さで締め、髪飾りは完璧な角度で留め、香水は最も華やかなものを選んだ。


余裕があったのだ。


今夜、自分はもう一度、あの銀のドレスを纏う。もう一度、王子と踊る。そして今度こそ——ガラスの靴を、階段に落とす。


物語を、正しいレールに戻す。


継母と義姉たちが馬車で出かけていくのを見送り、屋敷に静寂が降りた。


麗良は、玄関の前に立った。


前回は、泣く演技がうまくいかなかった。棒読みの「しくしく」では、魔法使いを呼び出すには心もとない。


だが、今回は——。


「……王子様に、会いたい」


呟いた瞬間、胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。


あの夜の記憶。温かい手。優しい声。月明かりの下の横顔。「あなたの瞳には、他の誰にもない光がある」と言ってくれた、あの言葉。


二十七年間、誰にもそんなことを言われたことがなかった。


社畜時代、麗良は透明だった。「優秀だから」と便利に使われるだけの、取り替え可能な歯車。名前ではなく「新出さん」と呼ばれ、人格ではなく「処理能力」で評価される存在。


でも、あの夜——王子は、麗良を見てくれた。


シンデレラの美しい外見ではなく、その奥にある「何か」を。


「……会いたいよ」


涙が、頬を伝った。


今度は、演技ではなかった。


王子の微笑みを思い浮かべたら、本当に切なくなって、胸が締め付けられて、涙が止まらなくなった。


「会いたい……もう一度、あの人に……」


さめざめと泣いた。声を殺して、肩を震わせて。


月明かりの中、灰だらけの少女が、玄関の前でひとり泣いている。


その姿は——。


「おやおや。また泣いておるのかね、お嬢さん」


——見られていた。


麗良は、涙で滲んだ視界の中で、その姿を認めた。


紫色のローブ。白い長い髭。先の曲がった杖。星のように輝く目。


魔法使いの老人が、庭の木の下に立っていた。


「ま、魔法使い様……!」


「ふぉっふぉっふぉ。前回は空涙じゃったが、今回は本物の涙じゃな」


「えっ——バレてたんですか」


「当たり前じゃ。わしを誰だと思っておる」


老人は、にやりと笑った。すべてを見通しているかのような、深い深い目で。


「舞踏会に行きたいのじゃろう? あの王子に、会いたいのじゃろう?」


「……はい」


麗良は、涙を拭いて、まっすぐに老人を見た。


「お願いします。もう一度——もう一度だけ、魔法をかけてください」


老人は、しばらく麗良の顔を見つめていた。


そして、杖を振った。


光が、夜の庭を包んだ。


カボチャが馬車に。ネズミが馬に。トカゲが御者に。犬が従者に。


そして——麗良の身体を、再び光が包む。


ぼろぼろのワンピースが消え、代わりに現れたのは——。


今度は、金色のドレスだった。


前回の銀とは異なる、太陽のような金色。胸元には繊細な刺繍が施され、スカートには無数の小さな宝石が縫い込まれ、動くたびにきらきらと光を散らす。背中は大胆に開き、肩から流れるレースのケープが、翼のように揺れていた。


「……わぁ」


鏡を見る余裕はなかったが、自分の身体を見下ろすだけで、その美しさは十分にわかった。


「前回とは違うドレスにしてみたぞ。同じものでは芸がないからの」


「ありがとうございます……!」


「約束は前回と同じじゃ。午前零時で魔法は解ける。忘れるでないぞ」


「はい! 今度は絶対に忘れません!」


麗良は力強く頷いた。


そして、床下からガラスの靴を取り出した。


ガラスの靴は魔法で生み出されたものではない。魔法が解けても消えない、本物の品だ。だから、前回持ち帰ってきたものが、そのまま使える。


透明なガラスの靴を、両足に履く。


完璧だ。


金色のドレスに、ガラスの靴。


今度こそ——今度こそ、失敗しない。


麗良は魔法使いの老人に深々と頭を下げた。額が地面につくほどの、深い深い礼だった。


「本当に、ありがとうございます。このご恩は、一生忘れません」


「ふぉっふぉっふぉ。礼はいらんよ。——行っておいで、お嬢さん」


老人の目が、優しく細められた。


麗良は馬車に乗り込んだ。


白い馬たちが嘶き、金色のカボチャの馬車が走り出す。


月明かりの道を、城に向かって。


(このチャンス、絶対に無駄にしない)


麗良は、胸の中で誓った。


(今度こそ——ガラスの靴を、落とす。物語を、ハッピーエンドに導く)


拳を握る。


社畜魂が、再び燃えていた。

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