第一話「ガラスの靴、持って帰ってきちゃいました」 後編
六
王城の舞踏会場は、麗良の想像を遥かに超えていた。
巨大なシャンデリアが天井から幾つも下がり、何千本もの蝋燭の光が水晶のプリズムを通して虹色に散乱している。大理石の床は鏡のように磨き上げられ、壁面には金箔の装飾が施された巨大な鏡が並び、会場を無限に広く見せていた。
楽団が奏でる優雅なワルツ。
色とりどりのドレスを纏った令嬢たち。正装の紳士たち。笑い声と、グラスの触れ合う音と、衣擦れの音。
その中に、麗良は——シンデレラは、足を踏み入れた。
瞬間、会場の空気が変わった。
ざわめきが、さざ波のように広がる。
「あの方は……?」
「なんて美しい……」
「どこの国のお姫様かしら……」
「あのドレス、見たことのないデザインだわ……」
視線が集まる。何百という視線が、シンデレラ一人に注がれる。
麗良は、背筋を伸ばした。
(落ち着け、私。ここはプレゼンの場だと思え。クライアントの前でのプレゼンだと思え)
社畜時代の経験が、意外なところで役に立つ。人前に立つことには慣れている。百人規模の会議で資料の不備を指摘されても笑顔で乗り切った女だ。
堂々と、しかし優雅に、会場を歩く。
ガラスの靴が、大理石の床の上で、かつん、かつん、と澄んだ音を立てた。
そして——。
「…………」
会場の奥、一段高くなった場所に、その人はいた。
白い軍服に金のモールを飾った、若い男性。
栗色の髪は柔らかく波打ち、切れ長の碧眼は知性と優しさを湛えている。背は高く、肩幅は広く、しかし線は細く、立ち姿には生まれながらの気品が漂っていた。
王子だ。
この国の王子。
「…………やば」
麗良の口から、思わず現代語が漏れた。
イケメンだった。
とんでもないイケメンだった。
前世で見たどんな俳優よりも、どんなアイドルよりも、どんな二次元キャラクターよりも——いや、比較すること自体が失礼なレベルの、圧倒的な美貌だった。
王子の視線が、会場を見渡す。
そして——シンデレラを、捉えた。
目が合った。
碧い瞳が、わずかに見開かれる。
王子が、一段高い場所から降りてきた。人々が道を開ける。まっすぐに、迷いなく、シンデレラのもとへ。
「——お初にお目にかかります、お嬢さん」
声も、良かった。低く、柔らかく、しかし芯のある声。
「私はこの国の王子、アレクシス。失礼ですが、お名前を伺っても?」
「……シンデ——」
言いかけて、止まった。
「灰かぶり」と名乗るわけにはいかない。かといって、本名を名乗れば正体がばれる。
「……申し訳ありません。名前は、申し上げられないのです」
ミステリアスに微笑んでみせた。社畜時代、取引先の無茶な要求を笑顔ではぐらかす技術は、こういうときに活きる。
王子——アレクシスは、一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから、花が綻ぶように笑った。
「それは残念だ。では、名前の代わりに——一曲、踊っていただけませんか?」
差し出された手。白い手袋に包まれた、大きな手。
麗良の心臓が、どくん、と跳ねた。
(ダンス……! ダンスなんて踊ったことない……! 社畜にダンスの経験があるわけ——)
だが、不思議なことに、身体が勝手に動いた。
シンデレラの身体が、覚えているのだ。幼い頃、実の母に教わったダンスのステップを。
「——喜んで」
麗良は、王子の手を取った。
その手は、温かかった。
七
ワルツが始まった。
王子の手が、シンデレラの腰に添えられる。もう片方の手が、シンデレラの手を包む。
近い。
顔が、近い。
碧い瞳が、至近距離でシンデレラを見つめている。
「あなたは、どこからいらしたのですか?」
「……遠いところから」
嘘ではない。二十一世紀の日本は、確かに遠い。
「遠いところ、か。道理で、この国の誰とも似ていない」
「似ていない、というのは……悪い意味でしょうか?」
「いいえ」
王子が微笑む。
「あなたの瞳には、他の誰にもない光がある。まるで——多くのものを見てきた人の目だ」
(……それは、ブラック企業の地獄を見てきた目です)
とは言えない。
「お上手ですね、王子様」
「お世辞ではありませんよ。——ああ、あなたはダンスもお上手だ」
くるり、と回される。ドレスの裾が花のように広がる。シャンデリアの光がガラスの靴に反射して、足元に小さな虹を散らす。
会場中の視線が、二人に注がれていた。
羨望。嫉妬。驚嘆。
令嬢たちのひそひそ声が聞こえる。
「王子様が自分からダンスに誘うなんて……」
「あの方、一体何者なの……」
「悔しい……あんな美しい人、見たことない……」
その中に、聞き覚えのある声があった。
「ちょっと、あの人誰よ! 王子様は私と踊るはずだったのに!」
「姉さん、落ち着いて。みっともないわよ」
アナスタシアとドリゼラだ。
二人とも、シンデレラだとは気づいていない。当然だ。灰だらけの召使いと、銀のドレスの美姫が同一人物だとは、誰も思わない。
(ふふ……気持ちいい……)
麗良は、生まれて初めて「優越感」というものを味わっていた。
社畜時代には無縁だった感情だ。常に誰かの下で、誰かに使われ、誰かに頭を下げ続けた人生。それが今、この瞬間だけは——この会場で最も注目され、最も羨望され、最も美しい存在になっている。
しかも、隣にいるのは、とんでもないイケメン王子。
「……幸せだなぁ」
思わず、日本語で呟いてしまった。
「ん? 今、何と?」
「いえ、何でもありません」
慌てて笑顔で誤魔化す。
ワルツが終わり、次の曲が始まる。王子は手を離さなかった。
「もう一曲、いいですか?」
「……はい」
二曲目。三曲目。四曲目。
王子は、シンデレラ以外の誰とも踊らなかった。
会場のざわめきは、もはや嵐のようだった。
「あの方は、きっとどこかの国の王女に違いない」
「いや、天使が舞い降りたのだ」
「王子様が、あんなに楽しそうにしているのを初めて見た」
麗良は、夢見心地だった。
王子の手は温かく、リードは完璧で、会話は知的で優しく、笑顔は太陽のようで——。
(やばい。これ、ガチで好きになりそう)
いや、もう好きになっていた。
二十七年間の人生で、恋愛とは無縁だった。好きな人ができたことはあったが、告白する暇も勇気もなく、気づけば相手には彼女ができていた。そんなことの繰り返しだった。
だが、今。
目の前のイケメン王子は、明らかに自分に好意を持っている。物語の流れ的にも、そうなるはずだ。
(このまま物語通りに進めば、この人と結婚できる……!)
麗良の頬が、ドレスの銀色に負けないくらい、輝いていた。
八
時間は、魔法のように過ぎた。
いや、実際に魔法の中にいるのだが。
王子とダンスを踊り、バルコニーで月を眺めながら語り合い、庭園を散歩し——。
「あなたと話していると、不思議な気持ちになる」
バルコニーの手すりに並んで立ちながら、王子が言った。月明かりが、その横顔を青白く照らしている。
「不思議な気持ち?」
「ええ。まるで——ずっと昔から、あなたを知っていたような」
(それは私のセリフです王子様。あなたのこと、絵本で何百回も見ました)
「私も……同じ気持ちです」
嘘ではなかった。
王子が、そっとシンデレラの手を取った。手袋越しでも伝わる温もり。
「名前を、教えてはいただけませんか」
「……ごめんなさい。それだけは」
「では、せめて——また会えますか?」
碧い瞳が、真剣にシンデレラを見つめる。
麗良の心臓が、痛いほど鳴った。
(会える。会えるよ。だって、あなたがガラスの靴を手がかりに私を見つけてくれるんだから——)
その時だった。
ゴーン……。
鐘の音が、夜空に響いた。
一つ。
「……!」
二つ。三つ。
「午前零時……!」
麗良の顔から、血の気が引いた。
四つ。五つ。六つ。
「す、すみません、私、もう行かなくては……!」
「えっ——待ってください!」
七つ。八つ。
麗良は王子の手を振りほどき、走り出した。
バルコニーから会場へ。会場から大階段へ。
九つ。十。
ドレスの裾を持ち上げ、大理石の階段を駆け下りる。ガラスの靴が、かつかつかつと甲高い音を立てる。
「待って! お願いです、待ってください!」
背後から、王子の声が追いかけてくる。
十一。
馬車が見えた。御者が手綱を握っている。
麗良は馬車に飛び乗った。
「出して! 早く!」
馬車が走り出す。
十二——。
最後の鐘が鳴り終わる、その寸前に、馬車は城門を駆け抜けた。
そして——。
光が弾けた。
馬車がカボチャに。馬がネズミに。御者がトカゲに。従者が犬に。
銀のドレスが光の粒子に分解され、元のぼろぼろのワンピースに戻る。
ティアラが消え、髪がほどけ、灰だらけのシンデレラが——月明かりの道の上に、放り出された。
「……っ、たた」
尻餅をついた麗良は、しばらく呆然と座り込んでいた。
夢のような時間だった。
王子の温かい手。優しい声。碧い瞳。月明かりの下の横顔。
「……はぁ」
恋する乙女のため息をついて——。
ふと、足元を見た。
「…………」
裸足だった。
当然だ。魔法が解けたのだから。ガラスの靴も消えて——。
「…………あれ?」
消えていなかった。
足元に、ガラスの靴が——両足分、きちんと揃えて、あった。
「……え?」
麗良は、靴を手に取った。
透明なガラス。月光を受けて虹色に輝く、あの靴。魔法が解けても、これだけは残っている。
「そうだ、ガラスの靴は魔法じゃなくて本物なんだった……」
原作通りだ。ガラスの靴だけは、魔法が解けても消えない。だからこそ、シンデレラが階段で落とした片方の靴が残り、王子がそれを手がかりにシンデレラを探し出す——。
「…………」
麗良の思考が、ぴたりと止まった。
「…………………………」
長い、長い沈黙。
そして。
「——落としてないっ!!!!」
麗良の絶叫が、夜の田舎道に響き渡った。
ネズミたちが驚いて逃げた。トカゲが茂みに隠れた。犬が尻尾を巻いた。カボチャが転がった。
「ガラスの靴を落としてない! 階段で落とすの忘れた!!」
頭を抱える。
そうだ。物語では、シンデレラは慌てて階段を駆け下りる際に、ガラスの靴の片方を落とす。王子がそれを拾い、「この靴に足が合う娘を探せ」と国中を探させ、最終的にシンデレラにたどり着く。
それが、物語の核心。
ガラスの靴がなければ、王子にはシンデレラを探す手がかりがない。
名前も教えていない。どこに住んでいるかも教えていない。顔は覚えているだろうが、魔法が解けた今のシンデレラは灰だらけの召使いだ。舞踏会の美姫と同一人物だとは、誰も思わない。
「……詰んだ」
麗良は、月明かりの下で、がっくりと肩を落とした。
「詰んでる。これ、完全に詰んでる」
なぜ落とさなかったのか。
理由は、痛いほどわかっている。
王子とのダンスに夢中だったのだ。王子との会話に夢中だったのだ。王子の碧い瞳に見つめられて、王子の温かい手に触れられて、王子の優しい声を聞いて——。
イケメン王子の前で、かわいくいることだけに、全神経を集中させてしまった。
「靴を落とす」という、物語上最も重要なイベントを、完全に失念していた。
「……私のバカ! バカバカバカ!」
麗良は、ガラスの靴を両手で抱えて、月に向かって叫んだ。
「イケメンに弱いのは前世からだけど、よりによってこのタイミングで発揮しないでよ、私の恋愛脳!!」
恋愛脳もなにも、二十七年間彼氏がいなかった女が、いきなりあんなイケメンに至近距離で微笑まれたら、正常な判断力など吹き飛んで当然だった。
だが、結果は残酷だ。
ガラスの靴は、両足分、きっちり手元にある。
王子の手には、何も残っていない。
「…………どうしよう」
麗良は、ぼろぼろのワンピース姿で、田舎道にぺたんと座り込んだ。
月が、煌々と照っていた。
ネズミが一匹、心配そうにシンデレラの顔を覗き込んだ。
「……チュウ?」
「……ありがとう。でも、ネズミに相談しても解決しないのよ、これ」
麗良は、深い深いため息をついた。
ガラスの靴を胸に抱いて、夜空を見上げる。
さっきまで夢のように輝いていた星空が、今はやけに遠く見えた。
「……王子様」
呟く。
あの温かい手。あの優しい声。あの碧い瞳。
もう一度、会いたい。
会いたいのに——会う手段がない。
「……社畜時代は、仕事が終わらなくて詰んでた。転生したら、恋が始まる前に詰んだ。……私の人生、詰みすぎじゃない?」
自嘲の笑みを浮かべながら、麗良はのろのろと立ち上がった。
帰らなければ。継母たちが戻る前に、屋敷に帰らなければ。
裸足の足で、冷たい夜道を歩き出す。
片手にガラスの靴を二つ。
もう片手で、ぼろぼろのスカートの裾を持ち上げて。
「……ガラスの靴、持って帰ってきちゃいました、って……笑えない……」
月明かりの中、とぼとぼと歩くシンデレラの背中は、世界一幸薄いお姫様のそれだった。
◇
屋敷に戻った麗良は、暖炉の前の藁のベッドに潜り込み、ガラスの靴を古い布に包んで床下に隠した。
継母たちが帰ってきたのは、それから一時間ほど後だった。
「まあ、今夜の舞踏会は素晴らしかったわ!」
「でも、あの銀のドレスの女! 一体何者なのかしら! 王子様を独り占めして!」
「許せないわ! 次の舞踏会では、絶対に私が王子様と踊るんだから!」
義姉たちの甲高い声が、屋敷中に響く。
麗良は、灰だらけの毛布の中で、じっと目を閉じていた。
(次の舞踏会……? いや、原作では舞踏会は一回きりのはず……。でも、バージョンによっては三夜連続の舞踏会もあったっけ……? この世界はどっちだ……?)
わからない。
わからないが、一つだけ確かなことがある。
このままでは、ハッピーエンドにたどり着けない。
物語の「レール」から、外れてしまった。
「……自力で、なんとかするしかない」
麗良は、暗闇の中で拳を握った。
社畜時代、何度も「詰んだ」と思った。納期に間に合わない。予算が足りない。人手が足りない。クライアントが無茶を言う。
それでも、なんとかしてきた。
徹夜して、頭を下げて、走り回って、泣きながら——それでも、なんとかしてきた。
「……やってやる」
麗良の目に、炎が灯った。
社畜魂に火がついた。
「ガラスの靴がなくたって、王子様に会ってみせる。自力で、ハッピーエンドを掴んでみせる」
暖炉の残り火が、ちろちろと揺れた。
灰の中から、小さな炎が——確かに、燃えていた。
第一話「ガラスの靴、持って帰ってきちゃいました」——了
第二話「ガラスの靴は落としたけれど」に続く




