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第一話「ガラスの靴、持って帰ってきちゃいました」 前編

死んだ、と思った。


正確に言えば、死にかけた——のだと思う。たぶん。


金曜日の終電。新出麗良あらいで・れいら、二十七歳、独身、彼氏なし。都内某所のブラック企業に勤めて五年目。今週の残業時間は既に四十時間を超えていた。


山手線のホームで、ぐらり、と視界が傾いた。


三日間まともに寝ていなかった。食事はコンビニのウィダーインゼリーとブラックコーヒー。胃は焼けるように痛み、目の奥は鉛のように重く、それでも明日——いや今日の土曜日も出勤だった。課長の「麗良ちゃんは優秀だから」という言葉は、もはや呪いの詠唱にしか聞こえない。


ホームの黄色い点字ブロックの向こう側に、足が出た。


電子音。風圧。悲鳴。


——ああ、と思った。


——私、このまま死ぬのかな。


——せめて一度くらい、お姫様みたいに扱われたかったな。


それが、新出麗良の最後の意識だった。


目を覚ますと、わらの上だった。


「…………は?」


天井が低い。石造りの壁。小さな窓から差し込む朝日は柔らかいが、空気は冷たく、かすかにすすの匂いがする。身体の下に敷かれているのは、薄い毛布と、大量の藁。


ベッドですらない。


よく見ると、その藁にも塵や埃などが混じっていて、清潔な寝床にはほど遠い。なぜか、五芒星と奇妙な図形が描かれた不気味な紙片まで見付かった。


麗良は自分の手を見た。白い。細い。自分の手ではない。いや、自分の手なのだが、二十七年間キーボードを叩き、書類を運び、コンビニ弁当の割り箸を割り続けてきた手ではない。もっと若い。もっと華奢で、もっと——汚れている。爪の間に灰が詰まり、指先はあかぎれだらけだった。さらには、右手人差し指からは血も流れている。


「……え、ちょっと待って」


起き上がる。身体が軽い。だが、着ているものはぼろぼろのワンピース一枚。靴すらない。裸足の足の裏は固く、胼胝たこだらけだった。


壁に掛けられた、曇った小さな鏡を覗き込む。


映っていたのは、十六、七歳の少女だった。


金色の髪。青い瞳。顔立ちは整っているが、頬はやつれ、髪はぼさぼさで、顔のあちこちに煤がついている。


「…………」


麗良は、その顔に見覚えがあった。


見覚えがあるも何も、子供の頃から何度も絵本で見た顔だ。ディズニーのアニメで見た顔だ。


「シンデレラ……?」


呟いた瞬間、頭の中に「記憶」が流れ込んできた。


この身体の持ち主の記憶。優しかった実の母が亡くなったこと。父が再婚したこと。その父も亡くなり、継母と二人の義姉に召使い同然の扱いを受けていること。毎日毎日、掃除、洗濯、炊事、暖炉の灰掃除——。


「灰かぶり(サンドリヨン)」と呼ばれていること。


「いや、待って待って待って」


麗良は藁のベッドの上で頭を抱えた。


転生。


これは、転生だ。


ブラック企業で過労死しかけた(あるいは本当に死んだ)社畜OLが、童話の世界に転生した。しかも、よりによって——シンデレラに。


「…………」


数秒の沈黙。


そして、新出麗良は——にやり、と笑った。


「シンデレラって、最後は王子様と結婚してハッピーエンドじゃん」


そう。


シンデレラの物語を知らない人間など、この世にいない。いじめられて、こき使われて、でも最後には魔法使いの助けで舞踏会に行き、王子様に見初められ、ガラスの靴をきっかけに正体が判明し、王子様と結ばれる。


ハッピーエンド。


完璧なハッピーエンド。


「つまり私は、このまま物語の流れに乗っていれば、イケメン王子様と結婚できるわけだ」


社畜人生二十七年間、彼氏いない歴イコール年齢だった女が、王子様と結婚。


「勝ち確じゃん」


麗良は藁のベッドの上で、小さくガッツポーズをした。


——とはいえ。


「シンデレラァ! まだ朝食の支度ができていないの!? このぐうたら!」


「は、はいっ、ただいま!」


現実は、なかなかに厳しかった。


継母——マダム・トレメインは、絵に描いたような意地悪継母だった。背が高く、痩せぎすで、鷲鼻の先がいつも不機嫌そうに尖っている。その目は冷たく、シンデレラを見る視線には、愛情のかけらもない。


「まったく、使えない子。あなたの母親もきっとこんなふうにのろまだったのでしょうね」


——おい。今、亡くなった実母の悪口言ったか?


麗良の中で、社畜時代に鍛えられた「理不尽耐性」がぎりぎりと軋む。課長の「麗良ちゃんは優秀だから(だから残業よろしく)」に比べれば——いや、方向性が違う。こっちのほうが純粋に悪意がある分、たちが悪い。


だが、麗良は耐えた。


なぜなら、結末を知っているからだ。


(この人、最後には没落するんだよなぁ)


そう思うと、不思議と心が凪いだ。


「シンデレラ! 私の朝食はまだなの!?」

「シンデレラ! 私のドレスにしわがあるわ! アイロンをかけ直しなさい!」


義姉たちも、負けず劣らずだった。


長女のアナスタシアは、赤毛で気が強く、声が大きい。次女のドリゼラは、黒髪で陰湿で、わざとシンデレラの掃除したばかりの床に泥靴で上がるような女だった。


「あら、シンデレラ。床が汚れているわよ? ちゃんと掃除しなさいな。おほほほ」


——こいつ、わざとやってるな。知ってる。見てたから。


麗良は、にっこり笑って雑巾を手に取った。


「はい、お姉様。すぐに綺麗にしますね」


(お前も最後には痛い目見るんだよなぁ。楽しみだなぁ)


この精神的余裕。


結末を知っている者だけが持てる、絶対的な心の安寧。


社畜時代には決して得られなかったものだ。あの頃は、明日も明後日も来週も来月も、永遠に続く残業地獄しか見えなかった。終わりが見えない苦痛ほど、人の心を蝕むものはない。


だが今は違う。


終わりが見えている。しかも、ハッピーエンドが確定している。


「ふふ」


暖炉の灰を掃除しながら、麗良は小さく笑った。


灰だらけの顔で、それでも、その笑みには不思議な輝きがあった。


日々は過ぎた。


朝は誰よりも早く起き、暖炉に火を入れ、朝食を作り、屋敷中を掃除し、洗濯をし、庭の手入れをし、昼食を作り、義姉たちの衣装の手入れをし、買い出しに行き、夕食を作り、食器を洗い、継母の寝室を整え、義姉たちの夜着を用意し——。


「……あれ、これ、前職と労働時間変わらなくない?」


いや、むしろ悪化している。前職には少なくとも給料があった。ここには、ない。


だが、麗良には希望があった。


「舞踏会」である。


そして、その日は——ついに来た。


「お母様! お城から招待状が届きましたわ!」


アナスタシアが甲高い声で叫びながら、玄関ホールに駆け込んできた。手には、金の縁取りが施された豪華な封筒。


「王子様が、花嫁を選ぶための舞踏会を開くそうですわ! 国中の年頃の娘が招待されているんですって!」


「まあ!」


ドリゼラも目を輝かせて駆け寄る。


継母は招待状を受け取り、冷たい目で内容を確認した。そして、薄い唇の端を、かすかに持ち上げた。


「……ふふ。これは好機ですね。アナスタシア、ドリゼラ、あなたたちのどちらかが王子様に見初められれば、この家の未来は安泰です」


「私よ! 私が王子様のお妃になるの!」

「何を言ってるの、姉さん。私のほうが美しいに決まってるわ!」


二人の義姉が言い争いを始める。


その騒ぎを、麗良は台所の入り口からそっと覗いていた。


(来た来た来た来た来たーーーーっ!)


心の中で、麗良は絶叫していた。


舞踏会。


ついに来た。物語のクライマックスへの入り口。ここから先は、魔法使いが現れ、魔法のドレスとガラスの靴とカボチャの馬車をもらい、舞踏会で王子様と踊り、ガラスの靴を残して去り、王子様が靴の持ち主を探し——ハッピーエンド。


完璧なシナリオが、麗良の頭の中には入っている。


「あの……お義母様」


麗良は、おずおずと声をかけた。台本通りに。


「私も、舞踏会に行ってもよろしいでしょうか……?」


継母が振り返る。その目は、氷のように冷たかった。


「あなたが? その灰だらけの格好で?」


「あはははは! シンデレラが舞踏会ですって!」

「灰かぶりの舞踏会! おかしくて涙が出るわ!」


義姉たちが腹を抱えて笑う。


(はいはい、笑え笑え。今のうちにたっぷり笑っておけ)


麗良は内心で冷静だった。ここは耐えるシーン。物語の構成上、必要な「溜め」の場面だ。主人公が虐げられれば虐げられるほど、後のカタルシスが大きくなる。


「……そうですよね。すみません、出過ぎたことを言いました」


しゅんとうなだれるシンデレラ。


完璧な演技だった。社畜時代、理不尽な叱責に「すみません」と頭を下げ続けた五年間は、伊達ではない。


舞踏会の夜が来た。


義姉たちの支度は、壮絶だった。


「シンデレラ! コルセットをもっときつく締めなさい!」

「シンデレラ! 髪が上手く巻けないの! やり直して!」

「シンデレラ! この靴、きついわ! もっと大きいのを持ってきなさい!」


麗良は黙々と働いた。アナスタシアのコルセットを締め上げ(ちょっとだけきつめに)、ドリゼラの髪を巻き直し(ちょっとだけ不格好に)、靴を取り替えた(ちょっとだけ大きすぎるのを)。


ささやかな復讐である。


やがて、継母と義姉たちは、豪華な馬車に乗って出かけていった。


屋敷に、静寂が降りる。


麗良は、玄関の前に立ち尽くした。


「……さて」


ここからだ。


物語の流れでは、ここで泣いているシンデレラのもとに、魔法使いが現れる。


麗良は、とりあえず泣くことにした。


「うう……私も舞踏会に行きたかった……」


涙は出なかった。社畜時代に涙腺が枯れている。


「……えーと、私も舞踏会に行きたいよう……しくしく」


棒読みになってしまう。


だが、それでも——。


「おやおや、これはこれは。美しいお嬢さんが泣いておるとは、忍びないのう」


——来た。


声は、庭の方から聞こえた。


振り返ると、そこに立っていたのは——。


小柄な老人だった。


白い髭を長く伸ばし、深い紫色のローブを纏い、先の曲がった杖を手にしている。フードの奥の目は、星のように輝いていた。


「あ、あなたは……?」


「わしか? わしは、まあ……魔法使い、とでも名乗っておこうかの」


(キターーーーーーーッ!)


麗良の心臓が跳ねた。


原作では「妖精の名付け親(フェアリゴッドマザー)」——つまり老婦人のはずだが、老人だった。まあ、細かいことは気にしない。転生ものにはよくあるアレンジだ。


「魔法使い……さま?」


「うむ。お嬢さん、舞踏会に行きたいのじゃろう?」


「は、はい! でも、私にはきれいな服もなくて……」


「ふぉっふぉっふぉ。それなら、わしに任せなさい」


老人が杖を振った。


まず、庭の隅に転がっていたカボチャが、ぐるぐると回転し、膨らみ、金色に輝き——見事な馬車に変わった。


「おおっ……!」


次に、納屋にいたネズミたちが飛び出してきて、くるくると回り、白い馬に変わった。トカゲは御者に、犬は従者になった。


「すごい……!」


そして最後に、老人の杖が麗良自身に向けられた。


光が、全身を包んだ。


ぼろぼろのワンピースが、光の粒子に分解されていく。代わりに、身体を包んでいくのは——。


「……っ」


麗良は、息を呑んだ。


銀色に輝くドレスだった。


胸元は繊細なレースで飾られ、ウエストは細く絞られ、スカートは幾重にも重なるチュールが波のように広がっている。星屑を散りばめたような微細な輝きが、月明かりを受けてきらきらと瞬いていた。


そして、足元。


ガラスの靴。


透明で、月光を受けて虹色に輝く、この世のものとは思えない靴。


「……きれい」


思わず、本音が漏れた。


二十七年間——いや、この身体の年齢で言えば十七年間、こんなものを身につけたことはなかった。前世では、スーツと運動靴(通勤用)が制服だった。休日はジャージ。おしゃれをする暇も気力もなかった。


鏡に映った自分の姿を見て、麗良は目を見開いた。


灰だらけの顔は、白磁のように滑らかな肌に変わっていた。ぼさぼさの金髪は、艶やかに結い上げられ、小さなティアラが載っている。青い瞳は、ドレスの銀色を映して、宝石のように輝いていた。


「……これが、私?」


「ふぉっふぉっふぉ。元が良いからの。磨けば光る、とはこのことじゃ」


老人は満足そうに頷いた。そして、表情を引き締めて言った。


「ただし、一つだけ約束じゃ」


「はい」


「この魔法は、午前零時——真夜中の鐘が十二回鳴り終わると、すべて解けてしまう。ドレスも、馬車も、すべて元に戻る。それまでに、必ず舞踏会を出なさい」


「午前零時ですね。わかりました」


麗良は力強く頷いた。


知っている。全部知っている。午前零時に魔法が解ける。だから、その前に会場を出る。そのとき、階段にガラスの靴を片方落とす。王子様がその靴を手がかりにシンデレラを探し出す。


完璧だ。


シナリオは頭に入っている。


「では、行ってまいります!」


麗良は、金色のカボチャの馬車に乗り込んだ。


白い馬たちがいななき、馬車が走り出す。月明かりの道を、城に向かって。


麗良の胸は、かつてないほど高鳴っていた。

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