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最終話「ガラスの靴を脱ぐ日」 前編

冬が来た。


エステリア王国の城下町は、祝福ムードに包まれていた。


通りには色とりどりの旗が掲げられ、花屋は薔薇と百合を山のように仕入れ、仕立て屋は夜通し針を動かし、菓子屋は特別な祝い菓子を焼き続けていた。


アレクシス王子と、シンデレラの婚約が、正式に発表されたのだ。


「灰かぶりの少女が、王子様のお妃に!」


「ガラスの靴の物語が、本当になったのね!」


「しかも三人の王子様に求婚されて、アレクシス様を選んだんですって!」


城下町の人々は、この上なくロマンチックな物語に酔いしれていた。


お城は、結婚式の準備に大わらわだった。


大広間の装飾。招待状の発送。料理の献立。楽団の手配。衣装の仕立て。


セバスチャンが、白髪を振り乱しながら指揮を執っている。老臣の目尻には、深い皺が刻まれていたが——その皺は、笑い皺だった。


「殿下のご婚約を、この目で見届けられるとは……長生きはするものですな」


周辺国からも、祝いの使者が次々と訪れていた。


ヴァレンティアからは、フィリップ王子の名で、世界最高級の宝石をあしらったティアラが贈られた。添えられた手紙には、軽やかな筆跡でこう書かれていた。


「お幸せに。——いつか、二人の肖像画を描かせてくれると嬉しい。フィリップ」


ガルディアからは、レオンハルト王子の名で、ガルディア鋼で鍛えられた一振りの短剣が贈られた。護身用の、美しい装飾が施された短剣。添えられた手紙は、短かった。


「幸せであれ。——レオンハルト」


不器用な筆跡。だが、その一言に込められた想いの重さは、誰にでもわかった。


麗良は、城の一室で、窓の外を眺めていた。


城下町の賑わい。旗。花。笑い声。


すべてが、自分のための祝福。


「……夢みたい」


呟いた。


夢みたいだ。


本当に——夢みたいだ。


だが、麗良は知っていた。


これが、夢に近しいものであることを。


夜ごとに見る、あの光景。


白い天井。病院のベッド。モニターの電子音。


現実世界の新出麗良の体は、目覚めに向かっていた。


脳波が、正常なパターンに近づいている。バイタルサインが、安定してきている。


医師の声が、夢の中で聞こえた。


「回復の兆候が顕著です。意識が戻る可能性が、かなり高くなってきました」


同時に——この体の中で、もう一つの存在が、日に日に強くなっていた。


エラ。


シンデレラの、本当の魂。


最初は、かすかな気配だった。胸の奥で、誰かが息をしている、という程度の。


だが今は——感情が、流れ込んでくる。


アレクシスと手を繋いで城の庭園を歩く時。


麗良の心臓がどきどきする。


それと同時に——胸の奥から、もう一つのどきどきが、伝わってくる。


エラも、ドキドキしている。


麗良とは少し違う、もっと初々しい、もっと純粋な——少女のときめき。


アレクシスが微笑むたびに、エラの感情が波のように押し寄せる。


嬉しい。幸せ。でも、恥ずかしい。こんな素敵な人が、私を好きだなんて、信じられない。


それは、麗良の感情と——驚くほど、似ていた。


二人の魂が、一人の王子を、同時に想っている。


ある夜。


城の自室で、麗良は目を閉じていた。


すると——声が、聞こえた。


胸の奥から。


遠くて近い、かすかな声。


少女の声。


『……妖精さん、それとも精霊さん……?』


麗良は、息を呑んだ。


エラの声だ。


初めて、言葉として聞こえた。


『ずっと、心の中で……わたしじゃないわたしを、不思議な気持ちで見ていました』


エラの声は、柔らかかった。怒りも、恨みも、なかった。ただ、静かな驚きと、温かな感謝が——声の端々に滲んでいた。


『お屋敷でいっぱい仕事を押しつけられても、笑顔で全部こなして』


(……それは、前の会社で鍛えられてたから)


とは、言えなかった。


『あれだけ理不尽な扱いを受けても、ガルディアの兵士が屋敷に来るのを知らせようとして』


(……それは、社畜の性分で)


とも、言えなかった。


『箒一本で、魔導士たちに立ち向かって……』


(……あれは、考えるより先に体が動いちゃっただけで)


言い訳が、次々と浮かぶ。だが、どれも口にはできなかった。


『そんなあなただから、姉さまたちの心も、お義母さまの心も、動かせた。たくさんの王子様たちにも、好かれた』


エラの声が、少し震えた。


『いくらありがとうを言っても足りません。絶望していたわたしを……幸せに導いてくれて、ありがとう』


麗良の目から、涙が溢れた。


声にならない声で、答えた。


(……ありがとうは、私の方だよ、エラ)


(あなたが呼んでくれたから、私はここに来られた。王子様に会えた。恋を知った。人を守る勇気を知った。自分の価値を知った)


(あなたの物語を借りて……私は、生まれ変われたんだよ)


エラの気配が、ふわりと温かくなった。


まるで、微笑んでいるように。


『……妖精さん』


(麗良、だよ。新出麗良)


『レイラさん……不思議な名前。でも、素敵』


(ありがとう)


『レイラさん。わたし……王子様のこと、好きになってもいいですか?』


麗良は、泣き笑いの顔で答えた。


(もちろん。……もちろんだよ、エラ。あの人は、あなたの王子様なんだから)


エラの気配が、ゆっくりと薄れていった。


眠りに戻っていく。


でも——もう、深い眠りではなかった。


浅い、穏やかな眠り。


もうすぐ、目覚める眠り。


結婚式の前夜。


星の綺麗な夜だった。


冬の空気は冷たく澄んでいて、星々が宝石のように瞬いている。城の塔の上からは、城下町の灯りが、地上の星座のように広がって見えた。


明日は、結婚式。


城中が、最後の準備に追われている。大広間には花が飾られ、テーブルには銀の食器が並べられ、楽団がリハーサルを行っている。


だが、バルコニーには——二人だけだった。


アレクシスと、シンデレラ。


あの舞踏会の夜と、同じように。


月明かりの下で、並んで立っている。


「……明日ですね」


アレクシスが、静かに言った。


「はい」


麗良が、答えた。


声が、震えないように。笑顔が、崩れないように。


必死だった。


麗良の体は——現実世界で、目覚めようとしていた。


脳波が、ほぼ正常に戻っている。バイタルサインが、完全に安定している。


今夜か、明日か。


もうすぐ、新出麗良の体が目を開ける。


そうなれば——この体から、離れなければならない。


エラの意識が、もうすぐそこまで来ている。胸の奥で、少女の魂が、目覚めの時を待っている。


「……緊張していますか?」


アレクシスが、優しく聞いた。


「少し」


嘘だった。


緊張ではない。


悲しいのだ。


こんなに幸せなのに。こんなに愛されているのに。


明日の結婚式を、自分は見届けられないかもしれない。


「アレクシス様」


「はい」


「……どうか、もう少しだけ、このまま」


アレクシスの碧い瞳が、シンデレラを見つめた。


何かを感じ取ったのだろうか。


王子は、何も聞かなかった。


ただ——シンデレラを、抱きしめた。


温かい腕。広い胸。心臓の鼓動が、耳元で聞こえる。


麗良は、王子の胸に顔を埋めた。


そして——顔を上げた。


碧い瞳と、青い瞳が、至近距離で見つめ合った。


麗良は、背伸びをして——アレクシスの唇に、自分の唇を重ねた。


柔らかかった。


温かかった。


涙が、一筋、頬を流れた。


長い、長いキス。


永遠に続いてほしかった。


でも——永遠は、ない。


唇が離れた。


アレクシスの指が、麗良の頬の涙を拭った。


「……泣いているのですか」


「嬉し涙です」


嘘だった。


嘘だったけど——嘘ではなかった。


嬉しいのは、本当だ。幸せなのも、本当だ。


ただ、それと同じくらい——悲しい。


「アレクシス様」


「はい」


「……幸せに、なってくださいね」


「あなたと一緒に、なりますよ」


麗良は、微笑んだ。


泣き笑いの、精一杯の笑顔。


(さよなら、私の王子様)


心の中で、呟いた。


(どうか、シンデレラと幸せになって)


アレクシスの腕の中で、意識が——薄れていく。


(シンデレラも、幸せになるんだよ)


エラの気配が、強くなっていく。少女の魂が、目覚めようとしている。


(これは本当は、あなたの物語なんだから)


星空が、滲んでいく。


アレクシスの顔が、遠くなっていく。


温かい腕の感触が、薄れていく。


最後に見えたのは——碧い瞳だった。


月明かりの中で、宝石のように輝く、碧い瞳。


(……ありがとう。さよなら)


意識が、闇に沈んでいく。


深く、深く。


そして——。

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