最終話「ガラスの靴を脱ぐ日」 後編
五
白い天井が、見えた。
蛍光灯の光。無機質な白い壁。規則的な電子音。
心電図のモニター。点滴のチューブ。
病院の、ベッドの上。
「……」
新出麗良は、目を開けた。
自分の目で。自分の体で。
天井が、ぼやけている。目の焦点が、うまく合わない。長い間使っていなかった目は、光に慣れるのに時間がかかった。
「……先生! 患者さんが……!」
看護師の声が、遠くから聞こえた。
足音。ざわめき。
「新出さん、聞こえますか? 新出さん!」
医師の声。
麗良は、唇を動かした。
声が、出ない。
喉が、からからに乾いている。
でも——。
指先が、動いた。
右手の人差し指。
かつて、エラが針で突いた、あの指。
ぴくり、と動いた。
「反応があります! 意識が戻っています!」
医師たちが、慌ただしく動き始めた。
麗良は、白い天井を見つめていた。
涙が、一筋、こめかみを伝って枕に落ちた。
(……帰ってきた)
帰ってきた。
元の世界に。
元の体に。
(……さよなら、シンデレラの世界)
心の中で、呟いた。
(さよなら、アレクシス様。さよなら、メルヴィン様。さよなら、お姉様たち。さよなら、お義母様)
(さよなら、エラ。……幸せにね)
白い天井が、涙で滲んだ。
六
退院までに、三ヶ月かかった。
長期間の昏睡状態で衰えた筋力を取り戻すためのリハビリ。検査。経過観察。
その間に、麗良は——一つの決断をした。
退院の日。
麗良は、会社に辞表を出した。
上司は驚いた。同僚は驚いた。人事部は慰留しようとした。
だが、麗良の意志は固かった。
一度死にかけた身だ。いや——一度、別の世界で生き直した身だ。
あの世界で学んだことがある。
人生は、一度きりだ。
自分を殺して、歯車のように働き続ける人生は——もう、終わりにする。
「お世話になりました」
深々と頭を下げて、会社を出た。
冬の空気が、頬に冷たかった。
でも——清々しかった。
幸い、貯金は潤沢にあった。忙しすぎて、使う暇がなかったのだ。皮肉な話だが、社畜生活の唯一の恩恵だった。
しばらくは、ゆっくりしよう。
自分のために、時間を使おう。
麗良は、久しぶりに——本当に久しぶりに、ゆっくりと街を歩いた。
社畜時代は、いつも走っていた。駅まで走り、会社まで走り、取引先まで走り、コンビニまで走り——立ち止まることを、自分に許さなかった。
でも、今日は歩く。
ゆっくりと。
公園を通り抜けた。
冬枯れの木々の間から、陽光が差し込んでいる。枝の先に、小さな蕾が膨らみかけていた。春の準備。
「……きれい」
立ち止まって、木々を見上げた。
社畜時代は、公園の木々を見上げる余裕すらなかった。季節の移り変わりに気づかないまま、一年が過ぎていた。
でも、今は——見える。
冬の木々の美しさが。春を待つ蕾の健気さが。
お洒落なカフェに入った。
窓際の席に座り、カフェラテを注文した。
温かいカップを両手で包みながら、窓の外を眺める。
行き交う人々。車。自転車。犬の散歩をする老人。手を繋いで歩くカップル。
普通の、日常の風景。
でも、それが——こんなにも、愛おしい。
「……生きてるんだな、私」
呟いて、カフェラテを一口飲んだ。
温かかった。
七
カフェを出て、商店街を歩いた。
無意識に、足が向かった先は——書店だった。
自動ドアをくぐり、店内に入る。
本の匂い。紙とインクの、懐かしい匂い。
麗良の足は、迷わず——児童書のコーナーに向かっていた。
童話の棚。
色とりどりの絵本が並んでいる。
『白雪姫』『眠れる森の美女』『ラプンツェル』『人魚姫』——。
そして——。
麗良の目が、一冊の本に吸い寄せられた。
手が、伸びた。
本を、棚から抜き取った。
「あ……」
声が、漏れた。
表紙を見つめる。
そこに描かれていたのは——麗良の知っている童話ではなかった。
プリンス・チャーミングの姿は、どこにもなかった。
代わりに——三人の王子が、描かれていた。
栗色の髪に碧い瞳の、穏やかな笑みの王子。
金髪に碧い瞳の、軽やかな笑みの王子。
黒髪に黒い瞳の、不器用な笑みの王子。
アレクシス。フィリップ。レオンハルト。
三人の王子が、一人の少女のそばで——微笑んでいた。
少女は、白いドレスを纏い、ガラスの靴を履いていた。金色の髪に、青い瞳。
シンデレラ。
タイトルは——。
『シンデレラと三人の王子』
「絵柄が、違う……タイトルも……」
麗良は、本を胸に抱いた。
笑ってしまった。
こらえきれずに、笑ってしまった。
書店の児童書コーナーで、二十七歳の女が、童話の絵本を抱えて笑っている。
周囲の客が、ちらちらとこちらを見ている。
でも、構わなかった。
笑いながら——泣いた。
あの世界のことを思い出して。
アレクシスの温かい手を。フィリップの軽やかな笑みを。レオンハルトの不器用な優しさを。
メルヴィンの星のような目を。アナスタシアの炎を。ドリゼラの氷を。トレメイン夫人の魔力障壁を。
舞踏会の夜を。ガラスの靴を。カボチャの馬車を。
そして——最後の夜の、キスを。
全部、全部、思い出して——泣いた。
「……ありがとう」
本に向かって、囁いた。
「みんな、ありがとう」
八
書店を出た。
冬の空が、澄んでいた。
雲一つない、青い空。
あの世界の空と——同じ色だった。
麗良は、空を見上げた。
「ねえ、シンデレラ」
語りかけた。
遠い遠い、別の世界にいる少女に。
今頃、結婚式を終えた頃だろうか。
白いドレスを纏い、ガラスの靴を履いて、アレクシスの隣に立っているだろうか。
幸せだろうか。
きっと、幸せだ。
エラは、強い子だ。絶望の中で、助けを求める勇気を持った子だ。
アレクシスは、優しい人だ。エラが誰であっても——その瞳の奥にある光を、愛してくれるはずだ。
「わたし、幸せになるから」
麗良は、青空に向かって言った。
「絶対」
風が、吹いた。
冬の風。冷たいけれど、どこか——春の匂いがする風。
麗良は、深呼吸をした。
新しい空気が、肺を満たす。
新しい人生が、始まる。
社畜でもない。シンデレラでもない。
ただの、新出麗良として。
自分の足で、自分の物語を、歩き始める。
「……さて」
麗良は、歩き出した。
駅に向かって。
次の目的地は、まだ決まっていない。でも、それでいい。
決まっていないからこそ、どこにでも行ける。
改札が見えてきた。
ポーチから乗車券を取り出そうとして——。
手が滑った。
ポーチの口が開き、中身が——コスメポーチ、ハンカチ、リップクリーム、鍵、小銭入れ——改札の前に、盛大にぶちまけられた。
「あっ——!」
麗良は、慌ててしゃがみ込んだ。
転がっていくリップクリーム。散らばる小銭。滑っていくコスメポーチ。
(うわ、最悪……! せっかくいい気分だったのに……!)
這いつくばって、散らばった持ち物を拾い集める。
改札前の人の流れが、麗良を避けて通り過ぎていく。
恥ずかしい。穴があったら入りたい。
エモい気分も感傷も、一瞬で吹き飛んだ。
その時——。
「大丈夫ですか?」
声がした。
目の前に、手が差し出されていた。
大きな手。長い指。清潔な爪。
麗良は、顔を上げた。
スーツ姿の男性が、しゃがみ込んで、散らばった持ち物を拾ってくれていた。
栗色の髪。穏やかな目元。すっきりとした顎の線。
その姿は——。
アレクシス王子に、少しだけ似ていた。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
「……あ、ありがとうございます」
麗良は、差し出された手を取って立ち上がった。
男性が、拾い集めた持ち物を渡してくれた。
「全部ありますか?」
「は、はい。大丈夫です。すみません、ご迷惑を——」
「いえ。——気をつけてくださいね」
男性が、微笑んだ。
穏やかな笑み。
麗良の心臓が——どくん、と跳ねた。
男性は、軽く会釈をして、改札の向こうに消えていった。
麗良は、改札の前に立ち尽くしていた。
手の中に、拾い集めた持ち物。
そして——手のひらに残る、かすかな温もり。
「……」
麗良の頬が、赤くなった。
(……ちょっと、似てた)
心臓が、まだどきどきしている。
(アレクシス様に、ちょっとだけ)
麗良は——笑った。
改札の前で、一人で、笑った。
恋の予感。
小さな、小さな予感。
でも——確かに、胸の中で、何かが芽吹いた。
麗良は、乗車券を改札に通した。
今度は、落とさなかった。
ホームに向かって、歩き出す。
足取りは、軽かった。
冬の陽光が、駅のホームに差し込んでいた。
電車が来る。
新しい場所へ、連れて行ってくれる電車が。
麗良は、電車に乗った。
窓の外を、景色が流れていく。
ビル。街路樹。公園。川。橋。
普通の、日常の景色。
でも、その一つ一つが——きらきらと、輝いて見えた。
ガラスの靴は、もうない。
魔法のドレスも、カボチャの馬車も、ない。
でも——。
麗良の足元には、自分で選んだ靴がある。
自分の足で、自分の道を、歩いていける。
それだけで、十分だ。
窓の外の空が、どこまでも青かった。
あの世界と、同じ空。
「……ありがとう、シンデレラ」
小さく呟いて、麗良は目を閉じた。
電車が、走っていく。
新しい物語の、始まりに向かって。
最終話「ガラスの靴を脱ぐ日」——了
『シンデレラに転生して勝ち確だと思ったのに、ガラスの靴を落とし忘れたせいで物語が崩壊しました~なぜか三国の王子に求婚されてます~』
——完——




