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最終話「ガラスの靴を脱ぐ日」 後編

白い天井が、見えた。


蛍光灯の光。無機質な白い壁。規則的な電子音。


心電図のモニター。点滴のチューブ。


病院の、ベッドの上。


「……」


新出麗良は、目を開けた。


自分の目で。自分の体で。


天井が、ぼやけている。目の焦点が、うまく合わない。長い間使っていなかった目は、光に慣れるのに時間がかかった。


「……先生! 患者さんが……!」


看護師の声が、遠くから聞こえた。


足音。ざわめき。


「新出さん、聞こえますか? 新出さん!」


医師の声。


麗良は、唇を動かした。


声が、出ない。


喉が、からからに乾いている。


でも——。


指先が、動いた。


右手の人差し指。


かつて、エラが針で突いた、あの指。


ぴくり、と動いた。


「反応があります! 意識が戻っています!」


医師たちが、慌ただしく動き始めた。


麗良は、白い天井を見つめていた。


涙が、一筋、こめかみを伝って枕に落ちた。


(……帰ってきた)


帰ってきた。


元の世界に。


元の体に。


(……さよなら、シンデレラの世界)


心の中で、呟いた。


(さよなら、アレクシス様。さよなら、メルヴィン様。さよなら、お姉様たち。さよなら、お義母様)


(さよなら、エラ。……幸せにね)


白い天井が、涙で滲んだ。


退院までに、三ヶ月かかった。


長期間の昏睡状態で衰えた筋力を取り戻すためのリハビリ。検査。経過観察。


その間に、麗良は——一つの決断をした。


退院の日。


麗良は、会社に辞表を出した。


上司は驚いた。同僚は驚いた。人事部は慰留しようとした。


だが、麗良の意志は固かった。


一度死にかけた身だ。いや——一度、別の世界で生き直した身だ。


あの世界で学んだことがある。


人生は、一度きりだ。


自分を殺して、歯車のように働き続ける人生は——もう、終わりにする。


「お世話になりました」


深々と頭を下げて、会社を出た。


冬の空気が、頬に冷たかった。


でも——清々しかった。


幸い、貯金は潤沢にあった。忙しすぎて、使う暇がなかったのだ。皮肉な話だが、社畜生活の唯一の恩恵だった。


しばらくは、ゆっくりしよう。


自分のために、時間を使おう。


麗良は、久しぶりに——本当に久しぶりに、ゆっくりと街を歩いた。


社畜時代は、いつも走っていた。駅まで走り、会社まで走り、取引先まで走り、コンビニまで走り——立ち止まることを、自分に許さなかった。


でも、今日は歩く。


ゆっくりと。


公園を通り抜けた。


冬枯れの木々の間から、陽光が差し込んでいる。枝の先に、小さな蕾が膨らみかけていた。春の準備。


「……きれい」


立ち止まって、木々を見上げた。


社畜時代は、公園の木々を見上げる余裕すらなかった。季節の移り変わりに気づかないまま、一年が過ぎていた。


でも、今は——見える。


冬の木々の美しさが。春を待つ蕾の健気さが。


お洒落なカフェに入った。


窓際の席に座り、カフェラテを注文した。


温かいカップを両手で包みながら、窓の外を眺める。


行き交う人々。車。自転車。犬の散歩をする老人。手を繋いで歩くカップル。


普通の、日常の風景。


でも、それが——こんなにも、愛おしい。


「……生きてるんだな、私」


呟いて、カフェラテを一口飲んだ。


温かかった。


カフェを出て、商店街を歩いた。


無意識に、足が向かった先は——書店だった。


自動ドアをくぐり、店内に入る。


本の匂い。紙とインクの、懐かしい匂い。


麗良の足は、迷わず——児童書のコーナーに向かっていた。


童話の棚。


色とりどりの絵本が並んでいる。


『白雪姫』『眠れる森の美女』『ラプンツェル』『人魚姫』——。


そして——。


麗良の目が、一冊の本に吸い寄せられた。


手が、伸びた。


本を、棚から抜き取った。


「あ……」


声が、漏れた。


表紙を見つめる。


そこに描かれていたのは——麗良の知っている童話ではなかった。


プリンス・チャーミングの姿は、どこにもなかった。


代わりに——三人の王子が、描かれていた。


栗色の髪に碧い瞳の、穏やかな笑みの王子。


金髪に碧い瞳の、軽やかな笑みの王子。


黒髪に黒い瞳の、不器用な笑みの王子。


アレクシス。フィリップ。レオンハルト。


三人の王子が、一人の少女のそばで——微笑んでいた。


少女は、白いドレスを纏い、ガラスの靴を履いていた。金色の髪に、青い瞳。


シンデレラ。


タイトルは——。


『シンデレラと三人の王子』


「絵柄が、違う……タイトルも……」


麗良は、本を胸に抱いた。


笑ってしまった。


こらえきれずに、笑ってしまった。


書店の児童書コーナーで、二十七歳の女が、童話の絵本を抱えて笑っている。


周囲の客が、ちらちらとこちらを見ている。


でも、構わなかった。


笑いながら——泣いた。


あの世界のことを思い出して。


アレクシスの温かい手を。フィリップの軽やかな笑みを。レオンハルトの不器用な優しさを。


メルヴィンの星のような目を。アナスタシアの炎を。ドリゼラの氷を。トレメイン夫人の魔力障壁を。


舞踏会の夜を。ガラスの靴を。カボチャの馬車を。


そして——最後の夜の、キスを。


全部、全部、思い出して——泣いた。


「……ありがとう」


本に向かって、囁いた。


「みんな、ありがとう」


書店を出た。


冬の空が、澄んでいた。


雲一つない、青い空。


あの世界の空と——同じ色だった。


麗良は、空を見上げた。


「ねえ、シンデレラ」


語りかけた。


遠い遠い、別の世界にいる少女に。


今頃、結婚式を終えた頃だろうか。


白いドレスを纏い、ガラスの靴を履いて、アレクシスの隣に立っているだろうか。


幸せだろうか。


きっと、幸せだ。


エラは、強い子だ。絶望の中で、助けを求める勇気を持った子だ。


アレクシスは、優しい人だ。エラが誰であっても——その瞳の奥にある光を、愛してくれるはずだ。


「わたし、幸せになるから」


麗良は、青空に向かって言った。


「絶対」


風が、吹いた。


冬の風。冷たいけれど、どこか——春の匂いがする風。


麗良は、深呼吸をした。


新しい空気が、肺を満たす。


新しい人生が、始まる。


社畜でもない。シンデレラでもない。


ただの、新出麗良として。


自分の足で、自分の物語を、歩き始める。


「……さて」


麗良は、歩き出した。


駅に向かって。


次の目的地は、まだ決まっていない。でも、それでいい。


決まっていないからこそ、どこにでも行ける。


改札が見えてきた。


ポーチから乗車券を取り出そうとして——。


手が滑った。


ポーチの口が開き、中身が——コスメポーチ、ハンカチ、リップクリーム、鍵、小銭入れ——改札の前に、盛大にぶちまけられた。


「あっ——!」


麗良は、慌ててしゃがみ込んだ。


転がっていくリップクリーム。散らばる小銭。滑っていくコスメポーチ。


(うわ、最悪……! せっかくいい気分だったのに……!)


這いつくばって、散らばった持ち物を拾い集める。


改札前の人の流れが、麗良を避けて通り過ぎていく。


恥ずかしい。穴があったら入りたい。


エモい気分も感傷も、一瞬で吹き飛んだ。


その時——。


「大丈夫ですか?」


声がした。


目の前に、手が差し出されていた。


大きな手。長い指。清潔な爪。


麗良は、顔を上げた。


スーツ姿の男性が、しゃがみ込んで、散らばった持ち物を拾ってくれていた。


栗色の髪。穏やかな目元。すっきりとした顎の線。


その姿は——。


アレクシス王子に、少しだけ似ていた。


少しだけ。


ほんの少しだけ。


「……あ、ありがとうございます」


麗良は、差し出された手を取って立ち上がった。


男性が、拾い集めた持ち物を渡してくれた。


「全部ありますか?」


「は、はい。大丈夫です。すみません、ご迷惑を——」


「いえ。——気をつけてくださいね」


男性が、微笑んだ。


穏やかな笑み。


麗良の心臓が——どくん、と跳ねた。


男性は、軽く会釈をして、改札の向こうに消えていった。


麗良は、改札の前に立ち尽くしていた。


手の中に、拾い集めた持ち物。


そして——手のひらに残る、かすかな温もり。


「……」


麗良の頬が、赤くなった。


(……ちょっと、似てた)


心臓が、まだどきどきしている。


(アレクシス様に、ちょっとだけ)


麗良は——笑った。


改札の前で、一人で、笑った。


恋の予感。


小さな、小さな予感。


でも——確かに、胸の中で、何かが芽吹いた。


麗良は、乗車券を改札に通した。


今度は、落とさなかった。


ホームに向かって、歩き出す。


足取りは、軽かった。


冬の陽光が、駅のホームに差し込んでいた。


電車が来る。


新しい場所へ、連れて行ってくれる電車が。


麗良は、電車に乗った。


窓の外を、景色が流れていく。


ビル。街路樹。公園。川。橋。


普通の、日常の景色。


でも、その一つ一つが——きらきらと、輝いて見えた。


ガラスの靴は、もうない。


魔法のドレスも、カボチャの馬車も、ない。


でも——。


麗良の足元には、自分で選んだ靴がある。


自分の足で、自分の道を、歩いていける。


それだけで、十分だ。


窓の外の空が、どこまでも青かった。


あの世界と、同じ空。


「……ありがとう、シンデレラ」


小さく呟いて、麗良は目を閉じた。


電車が、走っていく。


新しい物語の、始まりに向かって。


最終話「ガラスの靴を脱ぐ日」——了

『シンデレラに転生して勝ち確だと思ったのに、ガラスの靴を落とし忘れたせいで物語が崩壊しました~なぜか三国の王子に求婚されてます~』


——完——

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