第十三話「二つの魂と、一つの体」 後編
四
その夜。
麗良は、自室の寝台で眠りについた。
新しいブラウスを脱ぎ、寝間着に着替え、毛布にくるまる。棚の上には、ガラスの靴と、花の冠と、三人の王子からの贈り物が並んでいる。
目を閉じる。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
眠りの淵に——。
◇
白い天井が、見えた。
蛍光灯の光。無機質な白い壁。規則的な電子音。
心電図のモニター。点滴のチューブ。酸素マスク。
病院だった。
ベッドの上に、一人の女性が横たわっている。
痩せた体。青白い顔。閉じられた瞼。
新出麗良——二十七歳の、その体。
「……」
麗良は、自分自身を見下ろしていた。
幽体離脱のような、不思議な感覚。自分の体を、外側から見ている。
ベッドの脇には、モニターが並んでいた。脳波計。心拍計。血圧計。
そして——ベッドの横の椅子に、一人の男性が座っていた。白衣を着た、中年の医師。カルテを見ながら、何かをメモしている。
「……平坦だった脳波に、少し動きが出はじめましたね」
医師が、看護師に向かって言った。
「外からの刺激に対する反応も出てきています。睡眠と覚醒らしいリズムも見えてきました」
「意識が戻る可能性は……?」
「まだ断定はできません。ですが——脳の活動パターンを見る限り、以前よりも明らかに改善しています。このまま回復が続けば……」
医師の言葉が、遠くなっていく。
白い天井が、ぼやけていく。
◇
麗良は、目を覚ました。
シンデレラの体で。
小さな自室の、寝台の上で。
窓の外は、まだ暗い。夜明け前の、深い藍色の空。
「……夢」
呟いた。
だが、夢にしては——あまりにも鮮明だった。
病院の匂い。消毒液の匂い。モニターの電子音。医師の声。
あれは、夢ではない。
麗良の——新出麗良の、本当の体が、あそこにある。
病院のベッドの上で、眠り続けている。
でも——目覚めようとしている。
「……私の体が、戻ろうとしている」
麗良は、暗闇の中で、自分の手を見つめた。
シンデレラの手。白く、細く、華奢な手。
この手は、自分のものではない。
借りているだけだ。
五
それから、夢は——繰り返し、訪れるようになった。
毎晩ではない。数日に一度。時には一週間空くこともある。
だが、確実に——頻度は増していた。
夢の中で見る光景は、いつも同じだった。
白い天井。病院のベッド。モニターの電子音。
そして、横たわる自分の体。
回を重ねるごとに、体の状態は——少しずつ、変化していた。
最初は、ぴくりとも動かなかった指先が、かすかに震えるようになった。
閉じられたままだった瞼が、時折、微かに動くようになった。
モニターの波形が、少しずつ、活発になっていた。
麗良の体は——目覚めようとしている。
◇
そして、もう一つ。
麗良は、シンデレラの体の中で——もう一つの存在を、感じるようになっていた。
最初は、かすかな気配だった。
胸の奥で、何かが——誰かが、息をしている。
転生した直後、麗良はシンデレラの「記憶」を受け取った。継母にいじめられた記憶。父を亡くした記憶。優しかった実の母の記憶。
だが、それは「記憶」でしかなかった。データのようなもの。感情の伴わない、情報の羅列。
今は、違う。
記憶ではなく——魂を、感じる。
シンデレラの魂。
この体の、本来の持ち主。
微かに。とても微かに。だが、確かに——そこにいる。
今は眠っている。深い深い眠りの中で。
でも——少しずつ、目覚めようとしている。
麗良の体が、現実世界で目覚めに向かっているのと、同じように。
一つの体に、二つの魂。
片方が目覚めれば、もう片方は——。
「……帰るんだ」
麗良は、夜明け前の暗い部屋で、呟いた。
「私の体が目覚めたら……私は、この体から離れて、元の世界に帰るんだ」
声に出してみると、それは——驚くほど、確かな実感を伴っていた。
直感だった。
理屈ではない。証拠もない。
でも——わかる。
この体は、借り物だ。
いつか、返さなければならない。
六
ある夜。
麗良は、夢の中で——シンデレラの記憶の、もっと深い層に触れた。
今まで見たことのない記憶。
転生する「前」の記憶。
◇
暗い部屋だった。
暖炉の前。藁のベッド。
少女が、一人で座っていた。
金色の髪。青い瞳。痩せた体。灰だらけの顔。
シンデレラ——いや、この世界での本当の名前は、エラ。
エラは、泣いていた。
声を殺して。肩を震わせて。
今日も、継母に怒鳴られた。姉たちにいびられた。朝から晩まで働いて、食事はパンの耳と薄いスープだけ。
誰も、助けてくれない。
誰も、わかってくれない。
お母様は、死んでしまった。お父様も、死んでしまった。
一人ぼっちだ。
「……誰か」
エラは、かすれた声で呟いた。
「誰か、助けて……」
返事はなかった。
暖炉の火が、ちろちろと揺れているだけ。
その時——エラの目に、何かが映った。
藁のベッドの隅に、一冊の本が落ちていた。
古びた革表紙。黄ばんだ頁。
屋敷の掃除をしている時に見つけたものだ。屋根裏の、埃だらけの箱の中に入っていた。何の本かもわからず、とりあえず自分のベッドの脇に置いておいた。
エラは、本を手に取った。
頁をめくる。
古い文字。読みにくいが——エラには、読めた。亡き母が、文字を教えてくれていたから。
そこには、いくつもの呪術が書かれていた。
薬草の調合法。護符の作り方。精霊への祈りの言葉。
そして——。
エラの指が、ある頁で止まった。
「精霊や妖精、この世ならざる者を、その身に宿らせる呪術」
エラは、その記述を、何度も読み返した。
この世ならざる者を、自分の体に宿らせる。
精霊でも、妖精でも。
自分の代わりに——。
「……精霊でも妖精でも、私の代わりに働いてくれたらいいのに」
エラは、呟いた。
それは、切実な願いだった。
もう、疲れた。
もう、一人では耐えられない。
誰でもいい。何でもいい。この体に入って、代わりに生きてくれたら——。
エラは、呪術書の記述通りに動いた。
藁のベッドの脇の床に、紙を広げた。
五芒星を描いた。いくつかの図形を、その周囲に配置した。
そして——。
針を手に取った。
右手の人差し指の先に、針を突き立てた。
ちくり、と痛みが走る。赤い血が、一滴、滲み出た。
その血で、五芒星の中心に——印を記した。
それはさながら、悪魔との契約。
エラは、目を閉じた。
「……誰か、来て」
祈るように。
願うように。
「誰でもいいから……私を、助けて……」
◇
その瞬間——遠い遠い、別の世界で。
山手線のホームで、一人の女性が倒れた。
新出麗良。二十七歳。社畜OL。
過労と睡眠不足で、意識を失い——ホームの縁から、足を踏み外した。
電子音。風圧。悲鳴。
意識が、闇に沈んでいく。
——ああ、と思った。
——私、このまま死ぬのかな。
——せめて一度くらい、お姫様みたいに扱われたかったな。
絶望しながら死にかけた魂が——別の世界の、絶望した少女の呼び声に、吸い寄せられた。
五芒星の紙が、光った。
エラの体が、光に包まれた。
そして——エラの魂は、深い眠りに落ちた。
代わりに、目を覚ましたのは——。
新出麗良だった。
七
麗良は、夢から覚めた。
シンデレラの——エラの自室で。
寝台の上で、汗だくで、荒い息をついていた。
「……そういう、ことだったんだ」
すべてが、繋がった。
あの日、最初にシンデレラとして目覚めた時、藁のベッドの隅に落ちていた、五芒星と奇妙な図形が描かれた紙片。
右手の人差し指から流れていた血。
あれは——エラが、呪術を行った痕跡だった。
エラが、助けを求めた。
絶望の中で、誰かに——何かに、すがろうとした。
そして、その呼び声に応えるように、別の世界で絶望していた麗良の魂が、引き寄せられた。
転生ではなかった。
召喚だったのだ。
エラが、麗良を呼んだ。
「……エラ」
麗良は、自分の胸に手を当てた。
この奥に、エラがいる。
その魂は今は眠っている。深い深い眠りの中で、揺蕩っている。
でも——少しずつ、目覚めようとしている。
麗良が、現実世界の体に戻る時が近づいているように。
エラも、自分の体を取り戻す時が近づいている。
「……ごめんね、エラ」
麗良は、胸に手を当てたまま、呟いた。
「あなたの体を、借りていたんだね。あなたの人生を、勝手に生きていたんだね」
涙が、頬を伝った。
「でも——ありがとう。あなたが呼んでくれたから、私はここに来られた。王子様に会えた。お姉様たちと笑い合えた。メルヴィン様に守ってもらえた」
声が、震えた。
「あなたの物語を、少しだけ借りてた。——もうすぐ、返すからね」
窓の外で、夜が明けようとしていた。
東の空が、薄い紫色に染まっている。
麗良は、棚の上のガラスの靴を見つめた。
透明な靴が、夜明けの光を受けて、かすかに輝いていた。
(……もう少しだけ。もう少しだけ、この世界にいさせて)
祈るように。
願うように。
夜明けの光が、部屋の中に差し込んできた。
新しい一日が、始まろうとしていた。
残された時間が、どれだけあるのかはわからない。
でも——その時間を、精一杯生きよう。
麗良は、涙を拭いて、立ち上がった。
朝食の支度をしなければ。
いつもの朝が、始まる。
いつもの——でも、もう二度と戻らないかもしれない、大切な朝が。
第十三話「二つの魂と、一つの体」——了
第十四話「薔薇の決闘」に続く




