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第十三話「二つの魂と、一つの体」 後編

その夜。


麗良は、自室の寝台で眠りについた。


新しいブラウスを脱ぎ、寝間着に着替え、毛布にくるまる。棚の上には、ガラスの靴と、花の冠と、三人の王子からの贈り物が並んでいる。


目を閉じる。


意識が、ゆっくりと沈んでいく。


眠りの淵に——。



白い天井が、見えた。


蛍光灯の光。無機質な白い壁。規則的な電子音。


心電図のモニター。点滴のチューブ。酸素マスク。


病院だった。


ベッドの上に、一人の女性が横たわっている。


痩せた体。青白い顔。閉じられた瞼。


新出麗良——二十七歳の、その体。


「……」


麗良は、自分自身を見下ろしていた。


幽体離脱のような、不思議な感覚。自分の体を、外側から見ている。


ベッドの脇には、モニターが並んでいた。脳波計。心拍計。血圧計。


そして——ベッドの横の椅子に、一人の男性が座っていた。白衣を着た、中年の医師。カルテを見ながら、何かをメモしている。


「……平坦だった脳波に、少し動きが出はじめましたね」


医師が、看護師に向かって言った。


「外からの刺激に対する反応も出てきています。睡眠と覚醒らしいリズムも見えてきました」


「意識が戻る可能性は……?」


「まだ断定はできません。ですが——脳の活動パターンを見る限り、以前よりも明らかに改善しています。このまま回復が続けば……」


医師の言葉が、遠くなっていく。


白い天井が、ぼやけていく。



麗良は、目を覚ました。


シンデレラの体で。


小さな自室の、寝台の上で。


窓の外は、まだ暗い。夜明け前の、深い藍色の空。


「……夢」


呟いた。


だが、夢にしては——あまりにも鮮明だった。


病院の匂い。消毒液の匂い。モニターの電子音。医師の声。


あれは、夢ではない。


麗良の——新出麗良の、本当の体が、あそこにある。


病院のベッドの上で、眠り続けている。


でも——目覚めようとしている。


「……私の体が、戻ろうとしている」


麗良は、暗闇の中で、自分の手を見つめた。


シンデレラの手。白く、細く、華奢な手。


この手は、自分のものではない。


借りているだけだ。


それから、夢は——繰り返し、訪れるようになった。


毎晩ではない。数日に一度。時には一週間空くこともある。


だが、確実に——頻度は増していた。


夢の中で見る光景は、いつも同じだった。


白い天井。病院のベッド。モニターの電子音。


そして、横たわる自分の体。


回を重ねるごとに、体の状態は——少しずつ、変化していた。


最初は、ぴくりとも動かなかった指先が、かすかに震えるようになった。


閉じられたままだった瞼が、時折、微かに動くようになった。


モニターの波形が、少しずつ、活発になっていた。


麗良の体は——目覚めようとしている。



そして、もう一つ。


麗良は、シンデレラの体の中で——もう一つの存在を、感じるようになっていた。


最初は、かすかな気配だった。


胸の奥で、何かが——誰かが、息をしている。


転生した直後、麗良はシンデレラの「記憶」を受け取った。継母にいじめられた記憶。父を亡くした記憶。優しかった実の母の記憶。


だが、それは「記憶」でしかなかった。データのようなもの。感情の伴わない、情報の羅列。


今は、違う。


記憶ではなく——魂を、感じる。


シンデレラの魂。


この体の、本来の持ち主。


微かに。とても微かに。だが、確かに——そこにいる。


今は眠っている。深い深い眠りの中で。


でも——少しずつ、目覚めようとしている。


麗良の体が、現実世界で目覚めに向かっているのと、同じように。


一つの体に、二つの魂。


片方が目覚めれば、もう片方は——。


「……帰るんだ」


麗良は、夜明け前の暗い部屋で、呟いた。


「私の体が目覚めたら……私は、この体から離れて、元の世界に帰るんだ」


声に出してみると、それは——驚くほど、確かな実感を伴っていた。


直感だった。


理屈ではない。証拠もない。


でも——わかる。


この体は、借り物だ。


いつか、返さなければならない。


ある夜。


麗良は、夢の中で——シンデレラの記憶の、もっと深い層に触れた。


今まで見たことのない記憶。


転生する「前」の記憶。



暗い部屋だった。


暖炉の前。藁のベッド。


少女が、一人で座っていた。


金色の髪。青い瞳。痩せた体。灰だらけの顔。


シンデレラ——いや、この世界での本当の名前は、エラ。


エラは、泣いていた。


声を殺して。肩を震わせて。


今日も、継母に怒鳴られた。姉たちにいびられた。朝から晩まで働いて、食事はパンの耳と薄いスープだけ。


誰も、助けてくれない。


誰も、わかってくれない。


お母様は、死んでしまった。お父様も、死んでしまった。


一人ぼっちだ。


「……誰か」


エラは、かすれた声で呟いた。


「誰か、助けて……」


返事はなかった。


暖炉の火が、ちろちろと揺れているだけ。


その時——エラの目に、何かが映った。


藁のベッドの隅に、一冊の本が落ちていた。


古びた革表紙。黄ばんだ頁。


屋敷の掃除をしている時に見つけたものだ。屋根裏の、埃だらけの箱の中に入っていた。何の本かもわからず、とりあえず自分のベッドの脇に置いておいた。


エラは、本を手に取った。


頁をめくる。


古い文字。読みにくいが——エラには、読めた。亡き母が、文字を教えてくれていたから。


そこには、いくつもの呪術が書かれていた。


薬草の調合法。護符の作り方。精霊への祈りの言葉。


そして——。


エラの指が、ある頁で止まった。


「精霊や妖精、この世ならざる者を、その身に宿らせる呪術」


エラは、その記述を、何度も読み返した。


この世ならざる者を、自分の体に宿らせる。


精霊でも、妖精でも。


自分の代わりに——。


「……精霊でも妖精でも、私の代わりに働いてくれたらいいのに」


エラは、呟いた。


それは、切実な願いだった。


もう、疲れた。


もう、一人では耐えられない。


誰でもいい。何でもいい。この体に入って、代わりに生きてくれたら——。


エラは、呪術書の記述通りに動いた。


藁のベッドの脇の床に、紙を広げた。


五芒星を描いた。いくつかの図形を、その周囲に配置した。


そして——。


針を手に取った。


右手の人差し指の先に、針を突き立てた。


ちくり、と痛みが走る。赤い血が、一滴、滲み出た。


その血で、五芒星の中心に——印を記した。


それはさながら、悪魔との契約。


エラは、目を閉じた。


「……誰か、来て」


祈るように。


願うように。


「誰でもいいから……私を、助けて……」



その瞬間——遠い遠い、別の世界で。


山手線のホームで、一人の女性が倒れた。


新出麗良。二十七歳。社畜OL。


過労と睡眠不足で、意識を失い——ホームの縁から、足を踏み外した。


電子音。風圧。悲鳴。


意識が、闇に沈んでいく。


——ああ、と思った。


——私、このまま死ぬのかな。


——せめて一度くらい、お姫様みたいに扱われたかったな。


絶望しながら死にかけた魂が——別の世界の、絶望した少女の呼び声に、吸い寄せられた。


五芒星の紙が、光った。


エラの体が、光に包まれた。


そして——エラの魂は、深い眠りに落ちた。


代わりに、目を覚ましたのは——。


新出麗良だった。


麗良は、夢から覚めた。


シンデレラの——エラの自室で。


寝台の上で、汗だくで、荒い息をついていた。


「……そういう、ことだったんだ」


すべてが、繋がった。


あの日、最初にシンデレラとして目覚めた時、藁のベッドの隅に落ちていた、五芒星と奇妙な図形が描かれた紙片。


右手の人差し指から流れていた血。


あれは——エラが、呪術を行った痕跡だった。


エラが、助けを求めた。


絶望の中で、誰かに——何かに、すがろうとした。


そして、その呼び声に応えるように、別の世界で絶望していた麗良の魂が、引き寄せられた。


転生ではなかった。


召喚だったのだ。


エラが、麗良を呼んだ。


「……エラ」


麗良は、自分の胸に手を当てた。


この奥に、エラがいる。


その魂は今は眠っている。深い深い眠りの中で、揺蕩っている。


でも——少しずつ、目覚めようとしている。


麗良が、現実世界の体に戻る時が近づいているように。


エラも、自分の体を取り戻す時が近づいている。


「……ごめんね、エラ」


麗良は、胸に手を当てたまま、呟いた。


「あなたの体を、借りていたんだね。あなたの人生を、勝手に生きていたんだね」


涙が、頬を伝った。


「でも——ありがとう。あなたが呼んでくれたから、私はここに来られた。王子様に会えた。お姉様たちと笑い合えた。メルヴィン様に守ってもらえた」


声が、震えた。


「あなたの物語を、少しだけ借りてた。——もうすぐ、返すからね」


窓の外で、夜が明けようとしていた。


東の空が、薄い紫色に染まっている。


麗良は、棚の上のガラスの靴を見つめた。


透明な靴が、夜明けの光を受けて、かすかに輝いていた。


(……もう少しだけ。もう少しだけ、この世界にいさせて)


祈るように。


願うように。


夜明けの光が、部屋の中に差し込んできた。


新しい一日が、始まろうとしていた。


残された時間が、どれだけあるのかはわからない。


でも——その時間を、精一杯生きよう。


麗良は、涙を拭いて、立ち上がった。


朝食の支度をしなければ。


いつもの朝が、始まる。


いつもの——でも、もう二度と戻らないかもしれない、大切な朝が。


第十三話「二つの魂と、一つの体」——了


第十四話「薔薇の決闘」に続く

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