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第十二話「二人の王子と、一つの屋敷」 後編

それは、唐突に起きた。


森の奥から——がさり、と音がした。


茂みが揺れる。枝が折れる音。そして、低い唸り声。


全員が、足を止めた。


茂みの向こうから、巨大な影が姿を現した。


クマだった。


体長は二メートルを超える。黒い毛皮。小さな目。大きく開いた口から、黄色い牙が覗いている。


冬眠を前にして、腹を空かせた個体だ。


クマが、後ろ足で立ち上がった。


前足を振り上げ、威嚇のポーズを取る。


今にも、襲いかかってきそうだった。


「レオンハルト様!」


ガルディアの護衛兵たちが、咄嗟に動いた。


訓練された反射だった。瞬時に陣形を組み、レオンハルトを中心にした防御壁を形成する。盾を構え、剣を抜き、主君を背後に庇う。


一拍遅れて、エステリアの近衛兵たちも動いた。


アレクシスを囲むように、肉の壁を作る。盾と剣で、王子を完全にガードする。


先日の襲撃事件で近衛隊長の首が飛んだ記憶が、近衛兵たちの行動を支配していた。王子に傷一つつけてはならない。何があっても。何を犠牲にしても。


だが——。


その結果、一人の少女が、護衛の壁の外に取り残された。


シンデレラが。


二つの護衛部隊は、それぞれの主君を守ることに全神経を集中していた。シンデレラは、どちらの護衛対象にも含まれていなかった。


クマの小さな目が、孤立した少女を捉えた。


「——護衛は無用だ!」


レオンハルトの声が、森に響いた。


「姫を中心に円陣を張れ!」


護衛兵たちが、一瞬、戸惑った。


主君を守るのが、護衛の第一義務だ。主君を放置して、他の人間を守れと言われても——。


だが、それは一瞬だけだった。


「は、はっ!」


ガルディアの護衛兵たちは、即座に陣形を組み直した。レオンハルトを離れ、シンデレラを中心にした防御円陣を形成する。


それが主の一番の望みだと——わかっていたからだ。


十年仕えてきた主人が、何よりも大切にしている人。その人を守ることが、主の望み。


ならば、従うまでだ。


エステリアの近衛兵たちも、セバスチャンの指示で、シンデレラの周囲に合流した。アレクシスが「私のことはいい、彼女を守れ」と命じたからだ。


シンデレラを中心に、両国の兵士が円陣を組む。


つい先ほどまで睨み合っていた二つの国の兵士が、一人の少女を守るために、肩を並べている。


レオンハルトの隣に残ったのは、ヴォルフただ一人だった。


「殿下、お下がりください。私が——」


「退け、ヴォルフ」


レオンハルトは、腰の長剣を抜いた。


刃が、木漏れ日を受けて白く光る。


「問題ない。獣一匹追い払えずに、何が武人か」


悠然と言い放つ。


だが、ヴォルフは気が気ではなかった。


ヴォルフだけではない。


武人だろうと何だろうと、一人で、剣一本でクマに立ち向かうなど、狂気の沙汰だ。


セバスチャンも、円陣の内側からハラハラしながら見守っていた。この場でレオンハルト王子に何かあれば、せっかく良い方向に進んでいた二国の関係が、また面倒なことになりかねない。


クマが、レオンハルトに目を向けた。


巨体が、一歩、前に出る。


地面が、重い足音で震えた。


レオンハルトは、剣を構えたまま、クマを見据えていた。


だが——その左手は、すでに動いていた。


掌に、魔力を集中させている。


レオンハルトは、剣だけの男ではない。ガルディア王族の血には、魔力が流れている。剣術ほど磨いてはいないが、基礎的な魔法は使える。


クマが、咆哮を上げた。


大地を揺るがすような、腹の底に響く叫び。


そして——突進してきた。


巨体が、驚くべき速度で迫る。


レオンハルトは、動かなかった。


クマが間合いに入る、その瞬間——。


旋風空弾丸ウインド・バレット……!」


左手から、圧縮された空気の塊が射出された。


回転しながら飛ぶ、風の弾丸。


それは、クマの顔面に——直撃した。


ごっ、という鈍い衝撃音。


クマの巨体が、一瞬、のけぞった。突進の勢いが止まる。バランスを崩し、前足が地面を掻く。


その隙を——レオンハルトは、逃さなかった。


一歩、踏み込む。


長剣が、弧を描いた。


一閃。


刃が、クマの胸元を切り裂いた。


深い傷ではない。だが、確実に痛みを与える一撃。


クマが、悲鳴のような叫び声を上げた。


「退けッ!」


レオンハルトが、気迫を込めて叫んだ。


剣を構え、一歩、前に出る。


その目に、殺意はなかった。だが、圧倒的な威圧感があった。武人としての、生き物としての、格の違い。


クマは——退いた。


傷を負った胸を庇いながら、のそのそと後退し、茂みの中に消えていった。


静寂が、戻った。


レオンハルトが、剣を鞘に収めた。


そして——真っ先に、円陣の方に駆け寄った。


「……お怪我は、ありませんでしたか」


護衛たちの壁を割って、シンデレラの前に立つ。


黒い瞳が、麗良の全身を素早く確認する。傷がないか。怯えていないか。


「レ、レオンハルト様こそ……!」


麗良の声が、震えていた。


目の前で、一人の男がクマに立ち向かった。剣と魔法で。自分を守るために。


怖かった。クマも怖かったが、それ以上に——レオンハルトが傷つくのが、怖かった。


「私は無傷だ。心配には及ばない」


レオンハルトは、短く答えた。


だが、その声は——いつもより、少しだけ柔らかかった。


少し場が落ち着いてから、レオンハルトがアレクシスに歩み寄った。


「それにしても」


黒い瞳が、アレクシスの護衛たちを一瞥した。


「先ほどの立ち回りを見る限りは——失礼ながら、アレクシス殿と、その護衛たちが、姫を守れるとは、とても思えませぬな」


空気が、凍った。


エステリアの近衛兵たちの顔に、怒りの色が浮かんだ。


「何だと……!」


「我々を侮辱するのか、ガルディアの王子!」


兵士たちが、気色ばむ。


アレクシスが、手を上げてそれを制した。


「……落ち着け」


王子の声は、静かだった。だが、その碧い瞳には——苦い自覚が滲んでいた。


レオンハルトの言葉は、的を射ていた。


先日の襲撃事件で近衛隊長が解雇された。その記憶が、近衛兵たちの行動を縛っていた。「王子に傷一つつけてはならない」——その意識が強すぎて、クマが現れた瞬間、全員がアレクシスの周囲に壁を作った。


結果、シンデレラが孤立した。


レオンハルトが「姫を中心に円陣を張れ」と叫ばなければ、シンデレラは無防備なまま、クマの前に立たされていた。


護衛たちが王子を守ることに固執するあまり、本当に守るべき人を守れなかった。


それは——事実だった。


「……ご指摘、痛み入ります」


アレクシスは、静かに頭を下げた。


王子が、他国の王子に頭を下げる。護衛たちの顔が、屈辱に歪んだ。


だが、アレクシスは——自分の非を認められる男だった。それが、この王子の強さだった。


場の空気が、重くなった。


レオンハルトは、それ以上は何も言わなかった。


追い打ちをかけるような男ではない。言うべきことを言った。それで十分だった。


「では、我々はこれで失礼します」


レオンハルトが、アレクシスとシンデレラに一礼した。


「シンデレラ嬢。今日は、お会いできてよかった」


黒い瞳が、一瞬だけ——柔らかくなった。


そして、ヴォルフと護衛たちを従えて、森を去っていった。


黒い軍服の背中が、木立の間に消えていく。


麗良は、その背中を見送りながら——胸の奥で、何かが揺れるのを感じていた。


レオンハルトが去った後、森には、アレクシスと麗良、そしてエステリアの護衛たちだけが残された。


しばらく、沈黙が続いた。


アレクシスは、木立の間から差し込む光を見つめていた。碧い瞳に、複雑な感情が渦巻いている。


「……申し訳ありません」


不意に、アレクシスが言った。


「え?」


「今日は、あなたとゆっくり話がしたかった。なのに——こんなことになってしまって」


苦笑。


自嘲の混じった、しかし穏やかな笑み。


「クマに襲われ、レオンハルト殿に助けられ、護衛の不備を指摘され——情けない限りです」


「そんな……! アレクシス様は、何も悪くありません」


「いいえ。レオンハルト殿の言う通りです。私の護衛は、あなたを守れなかった。それは、私の責任だ」


アレクシスの声は、静かだった。


だが、その静かさの中に——強い決意が滲んでいた。


「……次は、必ず。私自身の手で、あなたを守ります」


碧い瞳が、まっすぐに麗良を見つめた。


麗良の心臓が、どくん、と跳ねた。


「……あ、あの」


「はい」


「今日は……お会いできて、嬉しかったです。本当に」


麗良の声は、小さかった。だが、嘘のない声だった。


アレクシスの表情が、ふっと緩んだ。


花が綻ぶような、穏やかな笑み。


「……私もです。また、会いに来てもいいですか」


「はい。いつでも」


二人の間を、秋の風が吹き抜けた。


落ち葉が舞い上がり、木漏れ日の中で、金色に輝いた。


屋敷に戻ると、アナスタシアとドリゼラが、庭で魔法の自主練習をしていた。


「おかえり、シンデレラ。……どうだった?」


アナスタシアが、炎を消しながら聞いた。


「……色々、ありました」


「色々って?」


「クマが出ました」


「クマ!?」


「レオンハルト様が、剣と魔法で追い払ってくれました」


「えええ!?」


「アレクシス様が、次は自分の手で守ると言ってくれました」


「ええええ!?」


アナスタシアとドリゼラが、目を丸くしている。


麗良は、自分の部屋に戻った。


棚の上のガラスの靴と、昨日フィリップにもらった花の冠。そして、今日アレクシスにもらった宝石箱と、レオンハルトにもらったペンダント。


三人の王子からの贈り物が、小さな棚の上に並んでいる。


麗良は、寝台に腰を下ろした。


「……三人とも、本気なんだ」


改めて、実感した。


フィリップの軽やかな優しさ。アレクシスの静かな誠実さ。レオンハルトの不器用なまっすぐさ。


三人とも、違う形で——でも、同じくらい真剣に、麗良を想ってくれている。


「……どうしよう」


答えは、まだ出ない。


でも——一つだけ、わかったことがある。


今日、クマが現れた時。


レオンハルトが「姫を中心に円陣を張れ」と叫んだ時。


アレクシスが「私のことはいい、彼女を守れ」と命じた時。


二人とも——自分の命よりも、麗良の安全を優先した。


それは、王子としての義務ではない。


一人の男としての、想い。


「……重いなぁ」


呟いて、枕に顔を埋めた。


重い。三人分の想いが、重い。


でも——嫌ではなかった。


むしろ、温かかった。


二十七年間、誰にも必要とされなかった女が。


三人の男に、命をかけて守ると言われている。


「……贅沢な悩みだよね、ほんと」


秋の夕暮れが、窓の外を茜色に染めていた。


第十二話「二人の王子と、一つの屋敷」——了


第十三話「二つの魂と、一つの体」に続く

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