第十二話「二人の王子と、一つの屋敷」 後編
五
それは、唐突に起きた。
森の奥から——がさり、と音がした。
茂みが揺れる。枝が折れる音。そして、低い唸り声。
全員が、足を止めた。
茂みの向こうから、巨大な影が姿を現した。
クマだった。
体長は二メートルを超える。黒い毛皮。小さな目。大きく開いた口から、黄色い牙が覗いている。
冬眠を前にして、腹を空かせた個体だ。
クマが、後ろ足で立ち上がった。
前足を振り上げ、威嚇のポーズを取る。
今にも、襲いかかってきそうだった。
「レオンハルト様!」
ガルディアの護衛兵たちが、咄嗟に動いた。
訓練された反射だった。瞬時に陣形を組み、レオンハルトを中心にした防御壁を形成する。盾を構え、剣を抜き、主君を背後に庇う。
一拍遅れて、エステリアの近衛兵たちも動いた。
アレクシスを囲むように、肉の壁を作る。盾と剣で、王子を完全にガードする。
先日の襲撃事件で近衛隊長の首が飛んだ記憶が、近衛兵たちの行動を支配していた。王子に傷一つつけてはならない。何があっても。何を犠牲にしても。
だが——。
その結果、一人の少女が、護衛の壁の外に取り残された。
シンデレラが。
二つの護衛部隊は、それぞれの主君を守ることに全神経を集中していた。シンデレラは、どちらの護衛対象にも含まれていなかった。
クマの小さな目が、孤立した少女を捉えた。
「——護衛は無用だ!」
レオンハルトの声が、森に響いた。
「姫を中心に円陣を張れ!」
護衛兵たちが、一瞬、戸惑った。
主君を守るのが、護衛の第一義務だ。主君を放置して、他の人間を守れと言われても——。
だが、それは一瞬だけだった。
「は、はっ!」
ガルディアの護衛兵たちは、即座に陣形を組み直した。レオンハルトを離れ、シンデレラを中心にした防御円陣を形成する。
それが主の一番の望みだと——わかっていたからだ。
十年仕えてきた主人が、何よりも大切にしている人。その人を守ることが、主の望み。
ならば、従うまでだ。
エステリアの近衛兵たちも、セバスチャンの指示で、シンデレラの周囲に合流した。アレクシスが「私のことはいい、彼女を守れ」と命じたからだ。
シンデレラを中心に、両国の兵士が円陣を組む。
つい先ほどまで睨み合っていた二つの国の兵士が、一人の少女を守るために、肩を並べている。
レオンハルトの隣に残ったのは、ヴォルフただ一人だった。
「殿下、お下がりください。私が——」
「退け、ヴォルフ」
レオンハルトは、腰の長剣を抜いた。
刃が、木漏れ日を受けて白く光る。
「問題ない。獣一匹追い払えずに、何が武人か」
悠然と言い放つ。
だが、ヴォルフは気が気ではなかった。
ヴォルフだけではない。
武人だろうと何だろうと、一人で、剣一本でクマに立ち向かうなど、狂気の沙汰だ。
セバスチャンも、円陣の内側からハラハラしながら見守っていた。この場でレオンハルト王子に何かあれば、せっかく良い方向に進んでいた二国の関係が、また面倒なことになりかねない。
クマが、レオンハルトに目を向けた。
巨体が、一歩、前に出る。
地面が、重い足音で震えた。
六
レオンハルトは、剣を構えたまま、クマを見据えていた。
だが——その左手は、すでに動いていた。
掌に、魔力を集中させている。
レオンハルトは、剣だけの男ではない。ガルディア王族の血には、魔力が流れている。剣術ほど磨いてはいないが、基礎的な魔法は使える。
クマが、咆哮を上げた。
大地を揺るがすような、腹の底に響く叫び。
そして——突進してきた。
巨体が、驚くべき速度で迫る。
レオンハルトは、動かなかった。
クマが間合いに入る、その瞬間——。
「旋風空弾丸……!」
左手から、圧縮された空気の塊が射出された。
回転しながら飛ぶ、風の弾丸。
それは、クマの顔面に——直撃した。
ごっ、という鈍い衝撃音。
クマの巨体が、一瞬、のけぞった。突進の勢いが止まる。バランスを崩し、前足が地面を掻く。
その隙を——レオンハルトは、逃さなかった。
一歩、踏み込む。
長剣が、弧を描いた。
一閃。
刃が、クマの胸元を切り裂いた。
深い傷ではない。だが、確実に痛みを与える一撃。
クマが、悲鳴のような叫び声を上げた。
「退けッ!」
レオンハルトが、気迫を込めて叫んだ。
剣を構え、一歩、前に出る。
その目に、殺意はなかった。だが、圧倒的な威圧感があった。武人としての、生き物としての、格の違い。
クマは——退いた。
傷を負った胸を庇いながら、のそのそと後退し、茂みの中に消えていった。
静寂が、戻った。
七
レオンハルトが、剣を鞘に収めた。
そして——真っ先に、円陣の方に駆け寄った。
「……お怪我は、ありませんでしたか」
護衛たちの壁を割って、シンデレラの前に立つ。
黒い瞳が、麗良の全身を素早く確認する。傷がないか。怯えていないか。
「レ、レオンハルト様こそ……!」
麗良の声が、震えていた。
目の前で、一人の男がクマに立ち向かった。剣と魔法で。自分を守るために。
怖かった。クマも怖かったが、それ以上に——レオンハルトが傷つくのが、怖かった。
「私は無傷だ。心配には及ばない」
レオンハルトは、短く答えた。
だが、その声は——いつもより、少しだけ柔らかかった。
少し場が落ち着いてから、レオンハルトがアレクシスに歩み寄った。
「それにしても」
黒い瞳が、アレクシスの護衛たちを一瞥した。
「先ほどの立ち回りを見る限りは——失礼ながら、アレクシス殿と、その護衛たちが、姫を守れるとは、とても思えませぬな」
空気が、凍った。
エステリアの近衛兵たちの顔に、怒りの色が浮かんだ。
「何だと……!」
「我々を侮辱するのか、ガルディアの王子!」
兵士たちが、気色ばむ。
アレクシスが、手を上げてそれを制した。
「……落ち着け」
王子の声は、静かだった。だが、その碧い瞳には——苦い自覚が滲んでいた。
レオンハルトの言葉は、的を射ていた。
先日の襲撃事件で近衛隊長が解雇された。その記憶が、近衛兵たちの行動を縛っていた。「王子に傷一つつけてはならない」——その意識が強すぎて、クマが現れた瞬間、全員がアレクシスの周囲に壁を作った。
結果、シンデレラが孤立した。
レオンハルトが「姫を中心に円陣を張れ」と叫ばなければ、シンデレラは無防備なまま、クマの前に立たされていた。
護衛たちが王子を守ることに固執するあまり、本当に守るべき人を守れなかった。
それは——事実だった。
「……ご指摘、痛み入ります」
アレクシスは、静かに頭を下げた。
王子が、他国の王子に頭を下げる。護衛たちの顔が、屈辱に歪んだ。
だが、アレクシスは——自分の非を認められる男だった。それが、この王子の強さだった。
場の空気が、重くなった。
レオンハルトは、それ以上は何も言わなかった。
追い打ちをかけるような男ではない。言うべきことを言った。それで十分だった。
「では、我々はこれで失礼します」
レオンハルトが、アレクシスとシンデレラに一礼した。
「シンデレラ嬢。今日は、お会いできてよかった」
黒い瞳が、一瞬だけ——柔らかくなった。
そして、ヴォルフと護衛たちを従えて、森を去っていった。
黒い軍服の背中が、木立の間に消えていく。
麗良は、その背中を見送りながら——胸の奥で、何かが揺れるのを感じていた。
八
レオンハルトが去った後、森には、アレクシスと麗良、そしてエステリアの護衛たちだけが残された。
しばらく、沈黙が続いた。
アレクシスは、木立の間から差し込む光を見つめていた。碧い瞳に、複雑な感情が渦巻いている。
「……申し訳ありません」
不意に、アレクシスが言った。
「え?」
「今日は、あなたとゆっくり話がしたかった。なのに——こんなことになってしまって」
苦笑。
自嘲の混じった、しかし穏やかな笑み。
「クマに襲われ、レオンハルト殿に助けられ、護衛の不備を指摘され——情けない限りです」
「そんな……! アレクシス様は、何も悪くありません」
「いいえ。レオンハルト殿の言う通りです。私の護衛は、あなたを守れなかった。それは、私の責任だ」
アレクシスの声は、静かだった。
だが、その静かさの中に——強い決意が滲んでいた。
「……次は、必ず。私自身の手で、あなたを守ります」
碧い瞳が、まっすぐに麗良を見つめた。
麗良の心臓が、どくん、と跳ねた。
「……あ、あの」
「はい」
「今日は……お会いできて、嬉しかったです。本当に」
麗良の声は、小さかった。だが、嘘のない声だった。
アレクシスの表情が、ふっと緩んだ。
花が綻ぶような、穏やかな笑み。
「……私もです。また、会いに来てもいいですか」
「はい。いつでも」
二人の間を、秋の風が吹き抜けた。
落ち葉が舞い上がり、木漏れ日の中で、金色に輝いた。
九
屋敷に戻ると、アナスタシアとドリゼラが、庭で魔法の自主練習をしていた。
「おかえり、シンデレラ。……どうだった?」
アナスタシアが、炎を消しながら聞いた。
「……色々、ありました」
「色々って?」
「クマが出ました」
「クマ!?」
「レオンハルト様が、剣と魔法で追い払ってくれました」
「えええ!?」
「アレクシス様が、次は自分の手で守ると言ってくれました」
「ええええ!?」
アナスタシアとドリゼラが、目を丸くしている。
麗良は、自分の部屋に戻った。
棚の上のガラスの靴と、昨日フィリップにもらった花の冠。そして、今日アレクシスにもらった宝石箱と、レオンハルトにもらったペンダント。
三人の王子からの贈り物が、小さな棚の上に並んでいる。
麗良は、寝台に腰を下ろした。
「……三人とも、本気なんだ」
改めて、実感した。
フィリップの軽やかな優しさ。アレクシスの静かな誠実さ。レオンハルトの不器用なまっすぐさ。
三人とも、違う形で——でも、同じくらい真剣に、麗良を想ってくれている。
「……どうしよう」
答えは、まだ出ない。
でも——一つだけ、わかったことがある。
今日、クマが現れた時。
レオンハルトが「姫を中心に円陣を張れ」と叫んだ時。
アレクシスが「私のことはいい、彼女を守れ」と命じた時。
二人とも——自分の命よりも、麗良の安全を優先した。
それは、王子としての義務ではない。
一人の男としての、想い。
「……重いなぁ」
呟いて、枕に顔を埋めた。
重い。三人分の想いが、重い。
でも——嫌ではなかった。
むしろ、温かかった。
二十七年間、誰にも必要とされなかった女が。
三人の男に、命をかけて守ると言われている。
「……贅沢な悩みだよね、ほんと」
秋の夕暮れが、窓の外を茜色に染めていた。
第十二話「二人の王子と、一つの屋敷」——了
第十三話「二つの魂と、一つの体」に続く




