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第十一話「花の冠と、紅茶の午後」 後編

そんなある日のこと。


朝食の片付けを終え、洗濯物を干し、庭の掃除に取りかかろうとした時——屋敷の門の前に、一台の馬車が止まった。


豪華な馬車だった。白い車体に金の装飾。御者台には、ヴァレンティアの紋章——翡翠の冠と金の鍵——が刻まれている。


馬車の扉が開き、降りてきたのは——。


「やあ、お久しぶり」


フィリップ王子だった。


金髪を風になびかせ、白い衣装に身を包み、軽やかな笑みを浮かべている。手には、小さな花束。


「フィ、フィリップ殿下……!?」


麗良は、箒を握ったまま固まった。


「殿下はやめてよ。フィリップでいい」


「いえ、さすがにそれは……」


「じゃあ、フィリップ様で」


「……フィリップ様」


「うん、いい響きだ」


にっこり笑うフィリップ。


麗良は、混乱していた。なぜ、ヴァレンティアの王子が、こんな辺鄙な屋敷に。


「あの、今日はどうされたんですか……?」


「遊びに来た」


あっさりと言った。


「第二王子ってのは気楽なものでね。大した公務もないし、兄上が国を回してくれているから、フットワークが軽いんだ。——それより、今日、少し時間をもらえないかな?」


「え、でも、まだ家事が……」


「シンデレラ」


背後から、声がした。


振り返ると、トレメイン夫人が玄関に立っていた。


王子の馬車を見て、すでに状況を把握したらしい。継母の目は、一瞬で「社交モード」に切り替わっていた。


「行ってらっしゃい。王子様に失礼のないようにね」


声が、優しかった。


いつもの冷たい声ではない。王子の前での、完璧な「良き継母」の声。


だが——その目は、「ちゃんとしなさいよ」と言っていた。


「は、はい……。行ってまいります」


麗良は、慌てて箒を片付け、エプロンを外した。


新しいブラウスとスカートの姿。灰だらけではないが、王子の隣に立つには質素すぎる。


だが、フィリップは気にしていないようだった。


「さ、行こう。近くにいい場所があるって聞いたんだ」


フィリップが、自然に麗良の手を取った。


温かい手だった。


フィリップが「いい場所」と言ったのは、屋敷から少し歩いた先にある、小さな森だった。


秋の森は、赤と金に染まっていた。木漏れ日が落ち葉の絨毯を照らし、空気は冷たいが澄んでいて、どこからか小鳥のさえずりが聞こえる。


森の奥に、開けた場所があった。


花畑だった。


コスモスが、一面に咲いていた。


ピンク、白、薄紫——秋の花が、風に揺れている。その向こうには、野菊や秋桜が群生し、蝶が花から花へと舞っている。


「……わぁ」


麗良は、思わず声を漏らした。


「きれいだろう? 昨日、下見に来たんだ」


フィリップが、得意そうに笑った。


下見。この王子、昨日のうちにロケハンを済ませていたのか。


「さて、せっかくだから——」


フィリップは、花畑の中にしゃがみ込んだ。


コスモスの茎を、丁寧に選んで摘み始める。


「何を……?」


「見ててよ」


フィリップの指が、驚くほど器用に動いた。


茎を編み、花を差し込み、形を整えていく。画家の指先は繊細で、一つ一つの動作に迷いがない。


数分後——フィリップの手の中に、小さな花の冠が出来上がっていた。


コスモスとの野菊を編み込んだ、素朴だが美しい冠。


「はい」


フィリップが、立ち上がって、麗良の頭にそっと載せた。


「……あ」


花の冠が、金色の髪の上に収まった。


コスモスのピンクと、野菊の白が、金髪に映えて——。


「うん、やっぱり似合う」


フィリップが、満足そうに頷いた。


「金銀財宝には興味がなさそうだったからね。こういう、季節を感じる素朴なアクセサリーはどうだろう、と思って」


麗良は、頭の上の花冠に手を触れた。


花びらの柔らかさ。茎の温もり。秋の香り。


「……きれい」


素直に、そう言った。


フィリップの碧い瞳が、柔らかく細められた。


「だが——あなたなら、どんな装飾品であっても似合うはず」


一歩、近づいた。


「そう、召使いの姿ですら、その輝きは隠せなかった。灰だらけの顔でも、ぼろぼろの服でも——あなたの美しさは、何一つ損なわれていなかった」


声が、低くなった。


碧い瞳が、至近距離で麗良を見つめている。


「俺の目は、画家の目だ。美しいものを見逃さない。——あの舞踏会の夜から、あなたの顔を、一日も忘れたことはなかった」


麗良の顔が、真っ赤になった。


耳まで赤い。首まで赤い。


「あ、あの……その……」


言葉が出てこない。


フィリップは、ナチュラルに口説いてくる。呼吸をするように、自然に。計算なのか天然なのかわからないが、破壊力は抜群だった。


「……ありがとう、ございます」


かろうじて、それだけ絞り出した。


フィリップは、にっこり笑った。


「お礼を言うのは俺の方だよ。こうして、また会えたんだから」


秋の風が、花畑を渡っていった。


コスモスが揺れる。花の冠が、かすかに揺れる。


二人の影が、花畑の中に並んでいた。


屋敷に戻ったのは、昼過ぎだった。


フィリップは、玄関で麗良と別れる——かと思いきや、そのまま屋敷の中に入ってきた。


「せっかくだから、ご家族にもご挨拶を」


「え、あ、はい……」


トレメイン夫人が、応接間に通した。


アナスタシアとドリゼラも、魔法修行から戻ってきたところだった。


「ヴァレンティアの王子様が、うちに……!?」


アナスタシアが、目を丸くした。


「嘘でしょう……!?」


ドリゼラも、信じられないという顔。


フィリップは、三人に向かって、完璧な礼をした。


「トレメイン夫人、アナスタシア嬢、ドリゼラ嬢。お初にお目にかかります。ヴァレンティア王国第二王子、フィリップです。シンデレラ嬢には、いつもお世話になっております」


(お世話になっているのは私の方なんですけど……)


と、麗良は心の中で突っ込んだ。


フィリップは、馬車から大きな箱を運び込ませた。


「ヴァレンティアから持ってまいりました。ささやかですが、皆様でお楽しみください」


箱の中身は——紅茶と、お菓子だった。


ヴァレンティア産の高級紅茶。金色の缶に入った、芳醇な香りの茶葉。そして、きらびやかなお菓子の数々。宝石のように美しい砂糖菓子、金箔を散らしたチョコレート、ドライフルーツを練り込んだビスケット。


「まあ……!」


トレメイン夫人の目が、わずかに——ほんのわずかに、輝いた。


高級品を見る目は、さすがに確かだ。この紅茶と菓子が、どれほどの値打ちのものか、一目でわかったのだろう。


「お気遣いいただき、恐縮ですわ、フィリップ殿下」


「いえいえ。——せっかくですから、皆さんでお茶にしませんか?」


かくして、トレメイン家の応接間で、即席のティーパーティーが始まった。


フィリップは、場を回すのが抜群にうまかった。


トレメイン夫人には、ヴァレンティアの社交界の話題を振り、夫人の知識と教養を褒めた。


アナスタシアには、魔法修行の話を聞き、「炎の魔法? すごいね、ヴァレンティアにも炎の使い手は少ないんだ」と感心してみせた。


ドリゼラには、氷の魔法で作った結晶を見せてもらい、「これは美しい。ヴァレンティアの宝石職人も驚くよ」と絶賛した。


三人とも、すっかりフィリップに好印象を持っていた。


「素敵な王子様ねぇ」


アナスタシアが、紅茶を飲みながら、うっとりと呟いた。


「お菓子も美味しいし、話も面白いし……」


「でも、シンデレラの王子様候補でしょう?」


ドリゼラが、小声で言った。


「……そうだったわ」


アナスタシアの顔が、複雑になった。


麗良は、紅茶を飲みながら、フィリップの手際に感心していた。


シンデレラと二人きりの時間もきっちり確保しつつ、家族にも顔を売っておく。


この王子、やはり抜け目のない男である。


社畜時代の営業部のエースを思い出した。クライアントだけでなく、クライアントの秘書や受付にも好印象を残す男。「決裁者だけ攻めても、周囲が味方じゃなきゃ契約は取れない」が口癖だった。


フィリップは、まさにそれを実践している。


恋愛においても、ビジネスにおいても——根回しは大事なのだ。


夕暮れ時、フィリップは馬車で帰っていった。


「また来るよ。——次は、もっといいものを持ってくる」


最後にウインクを一つ残して。


麗良は、玄関先で馬車を見送った。


頭の上には、まだ花の冠が載っている。少ししおれかけているが、コスモスのピンクは、夕日に照らされて温かく輝いていた。


「……楽しかったな」


素直に、そう思った。


フィリップといると、楽しい。会話が弾む。笑顔になれる。気取らなくていい。


でも——。


(アレクシス王子様といる時の、あの胸の奥がきゅっとなる感じとは、ちょっと違う気がする)


何が違うのか、うまく言葉にできない。


恋愛経験値レベル1の麗良には、自分の感情を正確に分析する能力が、まだなかった。


「……はぁ。考えても、わからない」


部屋に戻り、花の冠を棚の上に——ガラスの靴の隣に——そっと置いた。


透明な靴と、秋の花。


不思議な取り合わせだった。


寝台に横になる。


今日は、楽しかった。でも、ちょっと疲れた。


フィリップの笑顔。花畑。花の冠。紅茶。お菓子。義姉たちの笑い声。


色々なものが、頭の中でぐるぐると回っている。


「……おやすみなさい」


誰にともなく呟いて、目を閉じた。


秋の夜は、静かだった。


翌朝。


麗良は、いつも通り早起きして、朝食の支度を始めた。


パンを切り、スープを温め、果物を盛り付ける。新しいブラウスにエプロンをつけて、手際よく動く。


窓の外は、秋晴れだった。雲一つない青空。


(今日は何事もない、平和な一日になるといいな……)


そう思った矢先だった。


屋敷の門の前に、馬車が止まった。


一台ではない。


二台。


同時に。


一台は、エステリア王国の紋章——銀の盾と金の星——をつけた、質素だが品のある馬車。


もう一台は、ガルディア王国の紋章——交差する二本の剣と鷲——をつけた、黒い重厚な馬車。


二台の馬車が、屋敷の門の前で——並んで止まっている。


麗良は、台所の窓からその光景を見て、手にしていたパン切りナイフを取り落とした。


「……嘘」


エステリアの馬車から降りてきたのは——アレクシス王子だった。


左腕の包帯は取れている。傷は癒えたらしい。白い軍服に青いマント。碧い瞳。


右手には、小さな包みを抱えている。


ガルディアの馬車から降りてきたのは——レオンハルト王子だった。


黒い軍服に長剣。浅黒い肌に鋭い黒い瞳。


左手には、不器用に包装された箱を持っている。


二人の王子が、同時に馬車を降り、同時に屋敷の門を見上げ——同時に、互いの存在に気づいた。


碧い瞳と、黒い瞳が、交差した。


「……レオンハルト殿」


「……アレクシス殿」


沈黙。


秋の風が、二人の間を吹き抜けた。


台所の窓から、麗良はその光景を見ていた。


因縁浅からぬ二人の王子が、まさかの同日同時刻訪問。


ブッキングだ。


完全なるブッキングだ。


門の前では、二人の王子が——微妙な空気の中、互いに一礼を交わしていた。


「……奇遇だな」


レオンハルトが言った。


「……ええ、奇遇ですね」


アレクシスが答えた。


どちらも、「奇遇」だとは思っていない顔だった。


麗良は、台所の窓枠にしがみついた。


(どうしよう。どうしよう。どうしよう)


昨日のフィリップに続いて、今日はアレクシスとレオンハルトが同時に。


二日連続で王子が来る屋敷。


(……シンデレラって、こんな話だったっけ)


何度目かわからない自問を、麗良は繰り返した。


答えは、もちろん——否、だった。


第十一話「花の冠と、紅茶の午後」——了


第十二話「二人の王子と、一つの屋敷」に続く

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