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第十一話「花の冠と、紅茶の午後」 前編

日数をかけて、国境沿いの風景が変わっていった。


三国王子の会談で発行された合意文書に従い、ガルディアの兵士たちが、少しずつ国境の向こうへ退いていく。黒い鎧の騎兵たちが、隊列を組んで北東へ去っていく姿を、町の人々は安堵の目で見送った。


エステリア側も、国境沿いに増強していた兵力を段階的に削減していった。巡回の頻度が減り、検問が緩和され、街道を行き交う人々の表情から、緊張の色が消えていく。


秋が深まり、木々の葉が赤や金に染まる頃——国境沿いの町は、ようやく日常を取り戻しつつあった。


そして——トレメイン一家にも、帰る日が来た。


「荷物はまとまったかしら」


トレメイン夫人が、宿屋の部屋を見回しながら言った。


「はい、お義母様。全部揃っています」


麗良が、荷物の確認を終えて頷いた。


「私の荷物もオッケー!」


アナスタシアが、ルシファーを抱き上げながら言った。猫は相変わらず、おとなしく腕の中に収まっている。


「私も大丈夫よ」


ドリゼラが、小さな鞄を肩にかけた。


住み慣れた屋敷に、戻れる。


国境付近の緊張が解けた以上、あの屋敷に危険はもうない。


トレメイン夫人は、宿を出る前に、女将のマルタに丁寧に挨拶をした。


「マルタさん、長い間お世話になりました。あなたのおかげで、不自由なく過ごすことができましたわ」


「いいのよ、奥様。また何かあったら、いつでもいらっしゃいな」


マルタが、恰幅のいい体で温かく手を握った。


さらに、トレメイン夫人は町の有力者たちにも挨拶回りをすることを忘れなかった。領主の代理人、商人組合の長、教会の司祭——一人一人に、滞在中の礼を述べて回る。


(……お義母様、こういうところは本当にしっかりしてるんだよなぁ)


麗良は、継母の手際に感心しながら、荷物を馬車に積み込んだ。


社交の基本は、去り際にある。それは社畜時代にも学んだことだ。取引先との関係は、契約が終わった後の対応で決まる。トレメイン夫人は、本能的にそれを理解している女性だった。


メルヴィンもまた、一家と共に町を後にすることになった。隠居していた国境付近の小さな家に戻るのだ。


「万一また何かあっても、大魔導士様がいるから安心よね!」


アナスタシアが、馬車の窓から身を乗り出して言った。すっかりメルヴィンの弟子である。


「何もないのが一番じゃがな」


メルヴィンは苦笑しながら、馬車の隣を杖を突いて歩いていた。馬車に乗ればいいのに、と麗良は思ったが、老人は「年寄りの足腰は、使わねば衰える」と頑なに歩くことを選んだ。


街道を進み、見慣れた風景が近づいてくる。


丘の上の、石造りの屋敷。


トレメイン家の屋敷だ。


「……帰ってきた」


麗良は、馬車の窓から屋敷を見上げた。


あの暖炉の前の藁のベッド。灰だらけの日々。継母と義姉たちにこき使われた毎日。


でも——あの日々があったから、今がある。


「さあ、着いたわよ。荷物を運び入れなさい」


トレメイン夫人の声で、麗良は我に返った。


「はい、お義母様」


帰ってきた。


日常が、戻ってくる。


屋敷に戻り、掃除をし、荷物を片付け、暖炉に火を入れ——。


留守の間に溜まった埃を払い、蜘蛛の巣を取り、窓を磨き、床を拭く。麗良の得意分野だ。社畜時代に鍛えられたマルチタスク能力が、遺憾なく発揮される。


アナスタシアとドリゼラは、荷解きもそこそこに、さっそく庭で魔法の自主練習を始めていた。町はずれの草原ほど広くはないが、屋敷の庭なら十分だ。


「炎よ!」


アナスタシアの掌から、炎が飛ぶ。以前より大きく、以前より安定している。


「氷よ!」


ドリゼラの足元から、氷の柱が生える。以前より高く、以前より鋭い。


メルヴィンは、屋敷から少し離れた自分の小屋に戻っていったが、「明日からまた修行じゃ。怠けるなよ」と言い残していった。


夕方になり、一通りの片付けが終わった頃——トレメイン夫人が、麗良を呼んだ。


「シンデレラ。ついてきなさい」


継母に連れられて、屋敷の二階に上がった。


廊下の奥、これまで物置として使われていた小部屋の前で、トレメイン夫人は足を止めた。


「ここを、あなたの部屋にしなさい」


「……え?」


麗良は、耳を疑った。


扉を開けると、小さいが清潔な部屋があった。


窓が一つ。小さな寝台。簡素な机と椅子。壁には小さな棚。


物置だった頃の雑多な荷物は、すでに片付けられていた。寝台には清潔なシーツが敷かれ、枕には白いカバーがかけられている。


「広くはないけれど、暖炉の前の藁よりはましでしょう」


トレメイン夫人の声は、いつも通り素っ気なかった。


麗良は、部屋の中を見回した。


窓からは、庭が見える。夕暮れの光が、部屋の中に柔らかく差し込んでいる。


自分の部屋。


生まれて初めて——いや、この世界に来て初めて、自分だけの空間が与えられた。


藁のベッドで、ネズミたちと仲良く寝ていた日々を思えば——はっきり言って、大出世だった。


「……ありがとうございます、お義母様」


声が、少し震えた。


「だから、礼はいらないと言っているでしょう。三国の王子に求婚される娘を、暖炉の前で寝かせておくわけにはいかないだけよ」


トレメイン夫人は、さっさと踵を返して去っていった。


麗良は、小さな寝台に腰を下ろした。


柔らかい。


藁ではない。ちゃんとした寝台だ。マットレスがあり、シーツがあり、毛布がある。


「……ふふ」


笑みが、こぼれた。


そして——荷物の中から、布に包んだガラスの靴を取り出し、棚の上にそっと置いた。


片方だけの、ガラスの靴。


もう片方は、アレクシス王子が持っている。あの日、宿屋の前で、麗良の足に履かせてくれた。


二つの靴が揃う日は——もう、そう遠くないのかもしれない。


だが、その前に——。


麗良は、寝台に仰向けに倒れ込んだ。


天井を見つめる。


「……どうしよう」


呟いた。


何を悩むことがあるのか、と思うかもしれない。


麗良が体験しているこの世界は、原作のシンデレラとは大きく異なっている。国境紛争があり、刺客が現れ、魔導士部隊に襲われ、胃を痛める場面は数え切れなかった。


だが——結果だけを見るならば、原作よりも断然恵まれていると言えるだろう。


原作では終幕までずっと敵役であるトレメイン夫人の態度は軟化した。新しい服を与えられ、自分の部屋をもらい、少なくとも「虐待」と呼べるような扱いはなくなった。


アナスタシアとドリゼラも、シンデレラを積極的にいびることはなくなった。魔法修行に夢中で、シンデレラをいじめている暇がない。むしろ、手作りの宝石をプレゼントしてくれるくらいだ。


さらに、原作ではシンデレラに求愛する王子は一人だったが、この世界ではなぜか三人になっている。どの国の王子だろうと、選び放題だ。


客観的に見れば、原作シンデレラよりも遥かに素晴らしい境遇。


だが——麗良を悩ませているのは、まさにその王子たちのことだった。


原作のシンデレラは、こう言っては何だが、単純明快だ。たった一人の王子様に見初められて、ガラスの靴がぴったり合って、ハッピーエンド。何も考える必要がない。


しかし、この世界はそう簡単ではない。


三人の王子が、それぞれ本気で求愛している。


そして、三人とも——一国の王子だ。


麗良が誰かを選ぶということは、その国との関係が深まるということ。同時に、選ばれなかった二人の王子の国との関係に、微妙な影を落とす可能性がある。


選択次第では、国際問題になりかねない。


せっかく会談で合意に至った三国の関係が、一人の娘の恋愛問題で再び揺らぐ——そんなことになったら、笑い話にもならない。


麗良の心は、正史の王子様——アレクシス王子に傾いている。


舞踏会の夜から、ずっと。あの温かい手。あの碧い瞳。「あなたにもう一度会うために、この舞踏会を開いた」と言ってくれた、あの言葉。


でも——。


誰かを選ぶということは、残る二人の王子を、振らなければいけない。


振るにしても、遺恨が残ってはいけない。


フィリップは、何枚も絵を描いて、銅版画にして、国中に配って探してくれた。


レオンハルトは、武人の誇りを賭けて、命をかけて守ると誓ってくれた。


二人の想いを踏みにじるようなことは、したくない。


「……はぁ」


麗良は、枕に顔を埋めた。


贅沢な悩みだ。


世の中の大半の女性が「羨ましい」と叫ぶような悩みだ。


だが、前世で二十七年間、男性に縁がなかった麗良としては——本当に、どうしていいかわからなかった。


恋愛経験値が、圧倒的に足りない。


社畜スキルなら山ほどあるのに。マルチタスク能力も、理不尽耐性も、プレゼン力も、チートスキル並みに鍛えられているのに。


恋愛だけは——レベル1のままだ。


「……誰か、攻略本をください」


枕に向かって呟いた。


返事はなかった。

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