第十話「灰かぶりの新しい服」 前編
一
普段は静かな国境沿いの町が、騒然としていた。
国境紛争。三国王子の会談。武力不行使の合意。
ここ数週間で起きた出来事は、この小さな町の百年分の歴史に匹敵するほどの激動だった。
エステリアとガルディアが、ヴァレンティアの仲介で一定の合意を得た——そのニュースは、町の住民たちをまず安堵させた。戦争にならなかった。家を焼かれずに済んだ。畑を踏み荒らされずに済んだ。それだけで、十分だった。
市場では、久しぶりに活気が戻っていた。露店の売り子たちが威勢のいい声を張り上げ、買い物客が値切り交渉に精を出し、子どもたちが路地を走り回っている。
だが——町の人々の話題の中心は、国際政治ではなかった。
「聞いた? トレメイン家の話」
「聞いたわよ! あの灰かぶりの召使いが、ガラスの靴の持ち主だったんですって!」
「しかも、三人の王子様が揃って跪いたって!」
「嘘でしょう!?」
井戸端で。市場で。酒場で。洗濯場で。
町中が、トレメイン家の話で持ちきりだった。
アレクシス王子が探していた想い人、ガラスの靴の持ち主がついに見つかった。それだけなら、美しいおとぎ話で済む。
だが、その持ち主が——みすぼらしい格好をした召使いの少女だった。
灰だらけの顔。ぼろぼろのワンピース。箒を手にした、灰かぶりの娘。
さらには、会談のために訪れたヴァレンティアとガルディアの王子までが、揃ってその少女に跪いて求婚した。
三国の王子が、一人の召使いに。
こんな無茶苦茶があるだろうか。
「おとぎ話でも、もう少しまともな筋書きを書くわよ」
市場の魚屋のおかみが、腕を組んで言った。
「いやいや、事実は小説より奇なり、と言うじゃないか」
隣の八百屋の主人が、にやにやしながら応じた。
しかも、話はそれだけでは終わらなかった。
二
同じくトレメイン家の娘であるアナスタシアとドリゼラが、大魔導士メルヴィン直伝の魔法で、刺客からアレクシス王子の命を救った——この話も、瞬く間に町中に広まっていた。
王子自身が公式に認めたのだ。
会談の席で、アレクシスは二人の名前を挙げ、その勇気を称えた。
「トレメイン家のアナスタシア嬢とドリゼラ嬢は、私の命の恩人です。彼女たちの勇気がなければ、私は今、この席にいなかったでしょう」
その言葉は、外交文書にも記録された。
そして——アレクシス王子から直々に贈り物が届けられた。
アナスタシアには、エステリア王家の紋章が刻まれた銀のブローチ。ドリゼラには、同じく王家の紋章入りの銀のペンダント。どちらも、王族が臣下に贈る最高級の礼品だった。
さらに。
「王族の命を救った功績を称え、アナスタシア・トレメインとドリゼラ・トレメインに、バロネスの爵位を授ける」
王子の名において、爵位が授けられた。
バロネス——男爵夫人に相当する爵位。貴族の末席ではあるが、正式な爵位だ。
最年少での叙爵。極めて異例のことだった。
なお、その裏では——華やかな話題の陰で、厳しい処分も下されていた。
アレクシス王子の視察時、護衛があまりにも手薄だったことが問題視された。王子が町はずれで襲撃された時、護衛の兵士はわずか二名。しかも、二名とも早々に倒されている。
国際情勢を読み違え、王子の安全を軽視した——として、近衛兵部隊の隊長は職責を問われ、解雇となった。
光と影。栄誉と責任。
一つの事件が、様々な人の運命を変えていた。
三
トレメイン夫人は——大慌てだった。
宿屋の部屋で、椅子に座ったまま、ぼんやりと天井を見つめている。
手の中には、メルヴィンから渡された小さな魔法の杖。もう片方の手には、アナスタシアとドリゼラの叙爵を知らせる公式文書。
「……何が、どうなっているの」
呟いた。
誰に向けた言葉でもなかった。自分自身への、純粋な疑問だった。
思えば——市場に買い出しに行った、あの日から。
あまりにも多くのことが、あり過ぎた。
ガルディアの兵士が屋敷に迫っている、と言われた。
大魔導士メルヴィンに、娘ともども、すさまじい魔法の才能がある、と言われた。
魔法の杖に念を込めたところを、ガルディアの魔導士部隊に襲われた。
灰かぶりのシンデレラに、箒一本で助けられた。
アナスタシアとドリゼラが、魔法でアレクシス王子を助けた。
今度はシンデレラが、ガラスの靴の持ち主だと判明した。
そして——会談のために集まった三国の王子たちが、灰かぶりに跪いて愛を語っている。
「……もう何が何だか、わからないわ」
それが、正直なところだった。
トレメイン夫人は、決して愚かな女ではない。夫を亡くした後、一人で家を守り、娘たちを育て、社交界での体面を保ってきた。判断力も、行動力も、人並み以上にある。
だが、この怒涛の展開は——その判断力をもってしても、処理しきれなかった。
「……ともかく」
トレメイン夫人は、深呼吸をした。
考えを、整理しなければ。
一つ一つ、順番に。
まず、アナスタシアとドリゼラ。
爵位を授けられた。バロネス。正式な貴族だ。これまでは没落貴族の娘に過ぎなかったが、今や王子に叙爵された、れっきとした爵位持ちだ。社交界での立場は、劇的に変わる。
次に、シンデレラ。
三国の王子に求婚されている。灰かぶりの召使いが、一躍、国際的な注目の的になった。
ここで、トレメイン夫人の頭に——冷たい計算が走った。
シンデレラが注目を浴びた以上、このままの扱いを続けるわけにはいかない。
継母が義娘を召使い扱いしている——そんな噂が社交界に広まれば、トレメイン家の名誉は地に落ちる。自分だけの問題ではない。爵位を得たばかりのアナスタシアとドリゼラの名誉にも関わる。
「バロネスの母親が、義娘を虐待している」
そんなレッテルを貼られたら、娘たちの将来に傷がつく。
トレメイン夫人は、唇を引き結んだ。
感情の問題ではない。これは、戦略の問題だ。
シンデレラへの扱いを、改めなければならない。
少なくとも——表面上は。




