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第九話「三人の王子と、灰かぶりの姫」 前編

ヴァレンティア王国、軍参謀本部。


薄暗い地下の一室で、参謀長は報告書を読み返していた。


工作は、概ね成功だった。


アレクシス王子の襲撃により、エステリアとガルディアの間の亀裂は深まった。エステリアの軍議は紛糾し、ガルディアは濡れ衣に困惑している。両国の信頼関係は、修復困難なほどに損なわれた——はずだった。


だが。


「……レオンハルト王子が、自ら外交使節としてエステリアに赴く?」


参謀長は、報告書を机に置いた。


「そして、フィリップ殿下が、二国の仲介役として外交使節団を率いる?」


予想外だった。


ガルディアの武人王子が、剣ではなく言葉で解決しようとしている。そして、自国の第二王子が、仲裁者として名乗りを上げている。


とんだマッチポンプだ、と参謀長は思った。


火をつけたのはヴァレンティアなのに、その火を消しに行くのもヴァレンティアの王子。だが、あくまで「第二王子」であるフィリップは、軍参謀部の工作活動についてはほとんど知らない。王位継承権第一位の兄王子と、軍参謀部が主導した作戦だ。芸術家肌の第二王子には、知らせる必要がなかった。


フィリップが仲裁に動くのは、彼自身の判断だろう。舞踏会で出会った女性を追いかけて、ついでに外交的な手柄も立てようという——あの王子らしい、軽やかで抜け目のない動き。


「……まあ、仕方あるまい」


参謀長は、椅子の背にもたれた。


フィリップが介入すること自体は、ヴァレンティアの工作活動へのカモフラージュになる。「ヴァレンティアは平和を望んでいる」という印象を国際社会に与えられる。そして、仲裁者としての存在感も高まる。


エステリアとガルディアが和解に向かうのは、やむを得ない。当初の目的——両国を全面戦争に追い込む——は達成できなかったが、両国の間に刻まれた不信の傷は、簡単には癒えまい。長期的に見れば、ヴァレンティアの利益になる。


「驚くべきは——」


参謀長は、机の上に並べた三枚の報告書を見つめた。


レオンハルト王子の動向。フィリップ王子の動向。そして、アレクシス王子の動向。


「三国の王子たちの行動が、すべて一人の女性に繋がっていることだ」


舞踏会の美姫。


「鷹」の報告が正しければ、その正体は——召使いの少女。灰かぶりのシンデレラ。


「……一人の娘が、三つの国を動かしている」


参謀長は、苦笑した。


戦争も、外交も、諜報も——結局のところ、三人の若い男が、一人の女に恋をした。それだけのことだ。


国家の命運が、恋心に左右される。


馬鹿馬鹿しい、と思う反面——それが人間というものなのだろう、とも思った。


エステリアの町。


会談の場として選ばれたのは、町で最も大きな建物——領主の館だった。


石造りの重厚な建物。広間には長いテーブルが据えられ、三国の旗が並んで掲げられている。エステリアの銀の盾と金の星。ガルディアの交差する二本の剣と鷲。ヴァレンティアの翡翠の冠と金の鍵。


三つの旗が、一つの部屋に並ぶ。


それだけで、異例中の異例だった。


町の人々は、突然の大事に目を丸くしていた。三国の王子が、この小さな町に集まる。護衛の兵士たちが通りを固め、外交官たちが慌ただしく行き交い、普段は静かな町が、にわかに国際政治の舞台と化していた。


麗良は、宿屋の窓から、その様子を眺めていた。


(……王子様たちが、この町に来ている)


アレクシス王子。フィリップ王子。レオンハルト王子。


三人とも。


心臓が、早鐘を打っていた。


だが、会談の場に灰かぶりの召使いが入れるはずもない。麗良にできるのは、窓の外を眺めて、祈ることだけだった。


(どうか、うまくいきますように。戦争になりませんように)


王子様の怪我が治っていますように。


それだけを、祈った。


会談は、緊張の中で始まった。


テーブルの一方に、アレクシス王子。左腕は包帯で吊られているが、碧い瞳は鋭く、声は明瞭だった。傷を押して出席したのは、この会談の重要性を誰よりも理解しているからだ。


テーブルの向かいに、レオンハルト王子。黒い軍服に長剣を佩いた姿は威圧的だが、その黒い瞳には、戦意ではなく——誠意が宿っていた。


そして、テーブルの中央——仲裁者の席に、フィリップ王子。白い衣装に金のモールを飾り、軽やかな笑みを浮かべている。だが、その碧い目は、場の空気を鋭く読み取っていた。


「まず、私から申し上げたい」


最初に口を開いたのは、レオンハルトだった。


椅子から立ち上がり、アレクシスに向かって——深く、頭を下げた。


会場がざわめいた。


ガルディアの第一王子が、エステリアの王子に頭を下げている。武人の国の王子が、他国の王子に敬意を示している。


「アレクシス殿。貴殿が襲撃されたことについて、ガルディア王国は一切関与していない。我が剣に誓い、誇り高き武人の国たるガルディアが、暗殺などという卑怯な手段に訴えることは、断じてない」


レオンハルトの声は、低く、重く、そして——嘘がなかった。


アレクシスは、レオンハルトの目を見つめた。


碧い瞳と、黒い瞳が交差する。


王子には、人を見る目があった。嘘をつく者の目と、真実を語る者の目の違いを、見分ける力があった。


レオンハルトの目には——嘘がなかった。


「……頭を上げてください、レオンハルト殿」


アレクシスが、静かに言った。


「私も、貴殿の言葉を信じたいと思っています。襲撃者の正体は、まだ判明していない。ガルディアの仕業と断定するのは、時期尚早だった」


会場の空気が、わずかに緩んだ。


フィリップが、絶妙なタイミングで口を挟んだ。


「お二人とも、冷静な判断に感謝します。——さて、ヴァレンティアとしては、両国の友好関係の回復を心から願っています。つきましては、仲裁者として、いくつかの提案をさせていただきたい」


フィリップの提案は、周到だった。


両国間の通商条約については、第三者であるヴァレンティアの立ち会いのもと、継続協議を行うこと。国境付近の軍事的緊張を緩和するため、双方が段階的に兵力を削減すること。そして——互いに武力行使を行わないことを、文書で確認すること。


交渉は、決して簡単ではなかった。


ガルディア側の随行員——グスタフ宰相の代理人——は、武力不行使の条項に難色を示した。軍事的圧力こそが、ガルディアの交渉カードだったからだ。


だが、レオンハルトが一言で黙らせた。


「私の意向だ」


それだけで、十分だった。


レオンハルトには、この合意を成立させたい理由があった。


元ガルディア王国の大魔導士メルヴィンは、国境付近に隠居していた。そのメルヴィンの魔法——カボチャの馬車で、あの美姫は舞踏会に現れた。つまり、彼女は国境付近に住んでいる可能性が高い。


自国を発端とした戦乱に、彼女を巻き込みたくない。


それが、レオンハルトの本音だった。


グスタフ宰相がまた頭を抱えるだろうが——それは、仕方がない。


数時間に及ぶ協議の末——合意文書が、テーブルの上に置かれた。


アレクシスが、署名した。


レオンハルトが、署名した。


フィリップが、仲裁者として署名した。


三つの署名が並んだ瞬間——会場に、安堵のため息が漏れた。


エステリアとガルディアの軍事衝突は、回避された。


会談が終わった。


外交官たちが書類をまとめ、護衛の兵士たちが配置を解き、領主の館から人々が散っていく。


秋の夕暮れが、町を茜色に染めていた。


三人の王子は、それぞれの随行員と共に、館を出た。


だが——三人とも、宿に向かう足取りが、妙に速かった。


最初に動いたのは、フィリップだった。


「宿を探さないとね。——ああ、確か、この通りの先に良さそうな宿があると聞いたんだけど」


随行員に軽く手を振って、一人で歩き出す。


向かった先は——麗良たちが滞在している宿屋だった。


「鷹」から、正確な場所は聞いている。


宿屋の前に着いた。


夕暮れの光の中、宿の入り口の脇で、一人の少女が——箒を手に、玄関先を掃いていた。


金色の髪。青い瞳。灰だらけの顔。ぼろぼろのワンピース。


フィリップは、足を止めた。


画家の目が、少女の顔を捉えた。


頬の輪郭。顎の線。鼻筋の通り方。唇の曲線。目の形。


何十枚も描いた。何百回も記憶の中で反芻した。一本の線も違えずに再現できるほど、脳裏に焼き付いた——あの顔。


灰で汚れている。髪は乱れている。服はぼろぼろだ。


だが——骨格は、変わらない。


間違いない。


「……見つけた」


フィリップは、小さく呟いた。


そして——道端に咲いていた野の花を一輪、摘んだ。秋の終わりに咲く、小さな白い花。


少女の前に、歩み寄る。


「お久しぶりです」


少女が、顔を上げた。


青い瞳が、フィリップを捉えた。


一瞬の、空白。


そして——驚愕が、その瞳に広がった。


「また、お会いできましたね」


フィリップは、白い花を差し出した。


軽やかな笑み。だが、その碧い瞳の奥には——長い長い捜索の末にようやくたどり着いた者だけが持つ、静かな感慨が滲んでいた。


「あ、あなたは……ヴァレンティアの……」


麗良の声が、震えた。


箒を握る手が、固まっている。


なぜ。なぜ、フィリップ王子がここに。なぜ、灰だらけの自分を見て、舞踏会の夜の相手だとわかるのか。


「フィリップです。覚えていてくれましたか?」


「は、はい……でも、なぜ、私が……」


「あなたの顔は、忘れようと思っても忘れられない。何枚も絵を描きました。目を閉じれば、いつでもあなたが見える」


さらりと、とんでもないことを言う。


麗良は、差し出された花を——反射的に、受け取ってしまった。


小さな白い花。灰だらけの手の中で、それは不思議なほど美しく見えた。


フィリップが麗良と話している、その時。


宿屋の通りの反対側から、もう一つの足音が近づいていた。


重い。力強い。軍靴の音。


レオンハルトだった。


会談が終わるや否や、随行員のヴォルフに「少し一人にしてくれ」と言い残して、真っ先にこの宿に向かった。


メルヴィンが泊まっているという宿。メルヴィンに同行している女性たちの中に、あの人がいる可能性が高い。


宿屋の前に着いた時——レオンハルトは、二つの人影を見た。


金髪の男と、金髪の少女。


男は、フィリップだった。


そして、少女は——。


レオンハルトの足が、止まった。


灰だらけの顔。ぼろぼろの服。舞踏会の夜とは、まるで別人のような姿。


だが——目を見れば、わかった。


あの瞳。


バルコニーで踊った時、至近距離で見つめた、あの青い瞳。多くを経験し、多くを耐え、それでもなお前を向こうとする者だけが持つ、静かな強さを湛えた瞳。


灰で汚れていても。ぼろぼろの服を着ていても。


あの瞳だけは、変わらない。


「……いた」


レオンハルトは、低く呟いた。


大股で、宿屋の前に歩み寄る。


フィリップが、振り返った。


「おや、レオンハルト殿。奇遇だね」


「奇遇ではなかろう。お主も、同じ目的で来たのだろう」


「……まあ、否定はしないよ」


フィリップが、肩をすくめた。


麗良は、二人の王子を交互に見つめて——完全に固まっていた。


フィリップ王子と、レオンハルト王子が、同時に目の前にいる。


しかも、二人とも、灰だらけの自分を見て——舞踏会の夜の相手だと、気づいている。


(……え? ちょっと待って。なんで? なんでバレてるの?)


魔法のドレスも、ティアラも、何もない。ただの灰かぶりの召使いなのに。


「あ、あの……」


声を出そうとした、その時——。


馬車が一台、通りに入ってきた。


エステリア王国の紋章をつけた、質素だが品のある馬車。


馬車が宿屋の前で止まり、扉が開いた。


降りてきたのは——アレクシス王子だった。


左腕を包帯で吊り、右手には小さな包みを抱えている。


「アナスタシア嬢とドリゼラ嬢に、改めてお礼を——」


言いかけて、アレクシスは足を止めた。


宿屋の前の光景が、目に入ったからだ。


フィリップ王子がいる。レオンハルトがいる。


そして——二人の前に、一人の少女が立っている。


灰だらけの顔。金色の髪。青い瞳。


アレクシスの碧い瞳が、少女を捉えた。


一瞬の沈黙。


そして——アレクシスの表情が、変わった。


驚きではなかった。


確信だった。


あの夜、何時間も手を握り、何曲も踊り、月明かりの下で語り合った相手。その顔を、その瞳を、その佇まいを——忘れるはずがなかった。


灰で汚れていても。ぼろぼろの服を着ていても。


「……あなた、だったのか」


アレクシスの声が、かすかに震えた。


右手に抱えていた包みを、随行員に預けた。


そして、懐から——小さなものを取り出した。


透明で、虹色に輝く、小さな靴。


ガラスの靴。


麗良の心臓が、止まった。


「この靴の持ち主を、ずっと探していた」


アレクシスが、一歩、近づいた。


「国中を回った。何百人もの娘に試させた。誰の足にも合わなかった。——当然だ。この靴は、あなたのためだけに作られたものだから」


もう一歩。


「途中で、国境紛争が起きた。捜索を中断せざるを得なかった。それでも——一日たりとも、あなたのことを忘れなかった」


アレクシスが、麗良の前に——膝をついた。


ガラスの靴を、両手で差し出す。


「履いて、いただけますか」


麗良は——泣きそうだった。


いや、もう泣いていた。


涙が、灰だらけの頬を伝って落ちる。


震える手で、ぼろぼろの靴を脱いだ。裸足の足を、ガラスの靴に——。


すっ、と。


吸い込まれるように、足が靴に収まった。


ぴったりだった。


寸分の狂いもなく。まるで、この足のために作られたかのように。


——いや、この足のために作られた靴なのだ。


ガラスの靴が、夕暮れの光を受けて、虹色に輝いた。


「……合った」


アレクシスの声が、震えた。


碧い瞳に、光が溢れていた。喜びと、安堵と、そして——長い長い捜索の末にようやくたどり着いた者だけが流す、静かな涙。


フィリップが、息を呑んだ。


レオンハルトが、拳を握りしめた。


二人とも、その光景から目を離せなかった。


ガラスの靴が、灰かぶりの少女の足にぴったりと合う。


舞踏会の美姫が、シンデレラであることが——証明された瞬間だった。

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