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第八話「三つの国、三つの思惑」 後編

ヴァレンティア王国。


翡翠の床を持つ王宮の、一室。


「鷹」は、長い旅路の末に、ようやく本国に戻っていた。


エステリアの町から、馬を乗り継いで三日。途中、傷の痛みに耐えながらの強行軍だった。アレクシス王子との戦闘で負った傷は、まだ完全には癒えていない。


だが、報告は急を要した。


二つの報告がある。


一つは、任務の結果。アレクシス王子の襲撃は成功——とは言い難い。王子を仕留め損ねた。だが、重傷を負わせることには成功し、エステリアとガルディアの間の亀裂は確実に深まっている。任務の目的は、概ね達成された。


そしてもう一つ——。


「鷹」は、懐から一枚の紙を取り出した。


銅版画の刷り物。フィリップ王子が描いた、あの美女の似顔絵。


ヴァレンティアの間者には全員、この似顔絵が配られていた。「この女性を見かけたら報告せよ」という、王子直々の命令と共に。


「鷹」は、エステリアの町で、この女性を——見た。


宿屋の前で、洗濯物を干していた少女。


灰だらけの顔。ぼさぼさの金髪。ぼろぼろのワンピース。


一見、似顔絵の美女とは似ても似つかない。


だが——「鷹」の目は、訓練された観察者の目だった。


顔の骨格。目の形。鼻筋の通り方。顎の輪郭。


化粧を落とし、髪を乱し、粗末な服を着せても——骨格は変わらない。


薄汚れてはいるが、他人の空似と断じるには、あまりにも特徴が一致していた。


フィリップ王子の探していた、想い人。


あの舞踏会の美姫。


「……可能性は、高い」


「鷹」は、呟いた。


急ぎ、王子に報告しなければ。


フィリップ王子の私室。


相変わらず、絵の具の匂いが充満していた。


イーゼルの前に座っていたフィリップは、「鷹」の報告を聞いて、筆を止めた。


「……見つけた?」


「確証はありません。ですが、骨格の特徴が銅版画と高い一致を示しています。エステリア国境付近の町に、大魔導士メルヴィンと共に滞在中。貴族の未亡人の家に身を寄せている召使いの少女、とのことです」


「召使い……」


フィリップは、碧い目を細めた。


舞踏会で、銀のドレスと金のドレスを纏っていた美姫が——召使い。


普通なら、信じがたい話だ。


だが、フィリップには——妙に、腑に落ちるものがあった。


あの夜、彼女と話した時。金銀財宝の話に目を輝かせなかった、あの反応。華やかな場に慣れているようで、どこか場違いな空気を纏っていた、あの佇まい。


そして——午前零時に、魔法のように消えてしまった。


「……シンデレラ、か」


フィリップは、呟いた。


灰かぶりの姫。


「鷹。ご苦労だった。傷を癒せ」


「は。……殿下、今後の指示は」


「俺が直接行く」


「鷹」の目が、わずかに見開かれた。


「殿下自ら、ですか。しかし、エステリアとガルディアの間は一触即発の状態です。今、あの地域に——」


「だからこそ、だよ」


フィリップは、筆を置いて立ち上がった。


軽薄な笑みは、消えていた。


「エステリアとガルディアが本気でぶつかったら、あの町は戦場になる。彼女が、そこにいるなら——」


言葉を切った。


「……まあ、色々と理由はつけられるさ。ヴァレンティアとしても、両国の仲裁に入る名目があれば、国際的な発言力が増す。外交使節として赴けば、不自然じゃない」


チャラい笑みが、戻った。


だが、その碧い瞳の奥には——「鷹」がこれまで見たことのない、静かな決意が灯っていた。


「準備をしてくれ。外交使節団を編成する。——俺が、団長だ」


「……承知いたしました」


「鷹」は、頭を下げた。


(……三人の王子が、一つの町に集まることになるのか)


その予感が、「鷹」の背筋を冷たくした。


エステリアの町。


「鷹」が去った後も、町は表面上、平穏だった。


市場は開き、人々は行き交い、子どもたちは路地を走り回っている。国境の緊張は続いているが、町の中にいる限り、日常は保たれていた。


アナスタシアとドリゼラは、あの日以来——街はずれで王子を助けた日以来——上機嫌だった。


それは、もう、見ていてわかるほどに。


朝起きた時から、にこにこしている。朝食の時も、にこにこしている。魔法修行の時も、にこにこしている。夕食の時も、にこにこしている。寝る前も、にこにこしている。


そして——シンデレラへの当たりが、明らかに変わっていた。


「シンデレラ、お茶を淹れてちょうだい」


アナスタシアの声に、棘がない。


以前なら「シンデレラ! お茶はまだなの!? このぐうたら!」だったのが、普通の——本当に普通の、頼み事の口調になっている。


「シンデレラ、洗濯物ありがとう」


ドリゼラが、礼を言った。


麗良は、危うくお茶を零しそうになった。


ドリゼラが。あのドリゼラが。「ありがとう」と言った。


転生してから初めて聞いた言葉だった。


召使い扱いは変わらない。家事をするのは相変わらず麗良の役目だ。だが、きつく当たったり、わざと嫌がらせをしたり、掃除したばかりの床に泥靴で上がったりするようなことは——なくなっていた。


麗良は、その変化の理由を、なんとなく理解していた。


アナスタシアとドリゼラは、ずっと——何かに焦っていたのだと思う。


亡き義父の連れ子であるシンデレラは、母親譲りの美しい容姿を持っている。灰だらけの顔でも、ぼさぼさの髪でも、その骨格の美しさは隠しきれない。


義姉たちは、それを知っていた。


だから、シンデレラを虐げた。灰だらけにして、ぼろぼろの服を着せて、美しさを封じ込めようとした。


自分たちが何者にもなれない焦燥感を、シンデレラをいびることで紛らわせていた。


だが——今は、違う。


メルヴィンに魔法の才能を認められた。修行を重ね、炎と氷を操れるようになった。そして、その力で王子を助けた。王子に感謝された。名前を覚えてもらえた。


自分たちにも、価値がある。


自分たちにも、できることがある。


それを知った二人は——もう、シンデレラを虐げる必要がなくなったのだ。


人間として、一回り大きくなった。


だから今も、シンデレラをいびるよりも——。


「ねえドリゼラ、王子様の剣さばき、かっこよかったわよね!」


「ええ! 怪我をしていたのに、あんなに強いなんて……!」


「お礼を言ってくださった時の笑顔、覚えてる? あの碧い瞳で見つめられた時、心臓が止まるかと思ったわ!」


「私もよ! 『勇気ある人の姿は美しい』って……あんなこと言われたら、死んでもいいわ」


「死んじゃダメよ! また会えるんだから!」


きゃあきゃあと、王子様の話題で盛り上がっている。


麗良は、お茶を淹れながら、その様子を眺めていた。


(……お姉様たち、変わったなぁ)


素直に、そう思った。


意地悪な義姉。シンデレラの物語では、最後まで悪役のまま終わる存在。


でも、この世界の義姉たちは——変わった。


物語の「レール」から外れたからこそ、変われたのかもしれない。


「シンデレラ! 見て!」


アナスタシアが、不意に麗良の方を向いた。


赤毛の義姉が、右手をかざす。


ふわり、と。


金色の光が、麗良を包んだ。


温かい光だった。メルヴィンの魔法に似ているが、もっと若々しく、もっと——不安定で、でも一生懸命な光。


光が収まった時——麗良の胸に、小さなブローチが留められていた。


ルビーのブローチ。アナスタシアの赤毛の色をした、深い赤。繊細な細工で、花の形をしている。


「きれいでしょう!」


アナスタシアが、得意げに胸を張った。


「……まだ魔力が安定しないから、すぐ消えてしまうけどね。でも、前よりずっと長く持つようになったの!」


「わたしはサファイアを作れるようになったのよ!」


ドリゼラも負けじと手をかざし、麗良のもう片方の胸元に、青いサファイアのブローチを留めた。氷のように澄んだ青。こちらは蝶の形をしている。


「どう? 似合うでしょう?」


二人が、期待に満ちた目で麗良を見ている。


麗良は——。


胸元の、赤と青のブローチを見下ろした。


ぼろぼろのワンピースに、ルビーとサファイア。


似合うかどうかは、正直、微妙だ。灰だらけの服に宝石のブローチは、ちぐはぐにもほどがある。


でも——。


「……きれい」


素直に、そう言った。


「ありがとうございます、お姉様」


アナスタシアとドリゼラが、ぱっと笑顔になった。


麗良も、笑った。


ほっこりした。


そう、肉体はシンデレラだけれど、精神は新出麗良、二十七歳。義姉たちより、ちょっとは大人だ。


大人だからこそ、わかる。


人が変わることの難しさと、尊さ。


意地悪だった義姉たちが、魔法を学び、王子を助け、そして——灰かぶりの義妹に、手作りの宝石を贈ってくれる。


それは、どんな高価な宝石よりも——価値のあるものだった。


胸元のルビーとサファイアが、きらりと光った。


数時間で消えてしまう、魔法の宝石。


でも、その温かさは——消えない。


「……ふふ」


麗良は、ブローチに触れながら、小さく笑った。


窓の外では、秋の風が木々の葉を揺らしていた。


冬が、少しずつ近づいている。


そして——三つの国から、三人の王子が、この小さな町に向かって動き始めていることを、麗良はまだ知らない。


第八話「三つの国、三つの思惑」——了


第九話「三人の王子と、灰かぶりの姫」に続く

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