第八話「三つの国、三つの思惑」 後編
四
ヴァレンティア王国。
翡翠の床を持つ王宮の、一室。
「鷹」は、長い旅路の末に、ようやく本国に戻っていた。
エステリアの町から、馬を乗り継いで三日。途中、傷の痛みに耐えながらの強行軍だった。アレクシス王子との戦闘で負った傷は、まだ完全には癒えていない。
だが、報告は急を要した。
二つの報告がある。
一つは、任務の結果。アレクシス王子の襲撃は成功——とは言い難い。王子を仕留め損ねた。だが、重傷を負わせることには成功し、エステリアとガルディアの間の亀裂は確実に深まっている。任務の目的は、概ね達成された。
そしてもう一つ——。
「鷹」は、懐から一枚の紙を取り出した。
銅版画の刷り物。フィリップ王子が描いた、あの美女の似顔絵。
ヴァレンティアの間者には全員、この似顔絵が配られていた。「この女性を見かけたら報告せよ」という、王子直々の命令と共に。
「鷹」は、エステリアの町で、この女性を——見た。
宿屋の前で、洗濯物を干していた少女。
灰だらけの顔。ぼさぼさの金髪。ぼろぼろのワンピース。
一見、似顔絵の美女とは似ても似つかない。
だが——「鷹」の目は、訓練された観察者の目だった。
顔の骨格。目の形。鼻筋の通り方。顎の輪郭。
化粧を落とし、髪を乱し、粗末な服を着せても——骨格は変わらない。
薄汚れてはいるが、他人の空似と断じるには、あまりにも特徴が一致していた。
フィリップ王子の探していた、想い人。
あの舞踏会の美姫。
「……可能性は、高い」
「鷹」は、呟いた。
急ぎ、王子に報告しなければ。
フィリップ王子の私室。
相変わらず、絵の具の匂いが充満していた。
イーゼルの前に座っていたフィリップは、「鷹」の報告を聞いて、筆を止めた。
「……見つけた?」
「確証はありません。ですが、骨格の特徴が銅版画と高い一致を示しています。エステリア国境付近の町に、大魔導士メルヴィンと共に滞在中。貴族の未亡人の家に身を寄せている召使いの少女、とのことです」
「召使い……」
フィリップは、碧い目を細めた。
舞踏会で、銀のドレスと金のドレスを纏っていた美姫が——召使い。
普通なら、信じがたい話だ。
だが、フィリップには——妙に、腑に落ちるものがあった。
あの夜、彼女と話した時。金銀財宝の話に目を輝かせなかった、あの反応。華やかな場に慣れているようで、どこか場違いな空気を纏っていた、あの佇まい。
そして——午前零時に、魔法のように消えてしまった。
「……シンデレラ、か」
フィリップは、呟いた。
灰かぶりの姫。
「鷹。ご苦労だった。傷を癒せ」
「は。……殿下、今後の指示は」
「俺が直接行く」
「鷹」の目が、わずかに見開かれた。
「殿下自ら、ですか。しかし、エステリアとガルディアの間は一触即発の状態です。今、あの地域に——」
「だからこそ、だよ」
フィリップは、筆を置いて立ち上がった。
軽薄な笑みは、消えていた。
「エステリアとガルディアが本気でぶつかったら、あの町は戦場になる。彼女が、そこにいるなら——」
言葉を切った。
「……まあ、色々と理由はつけられるさ。ヴァレンティアとしても、両国の仲裁に入る名目があれば、国際的な発言力が増す。外交使節として赴けば、不自然じゃない」
チャラい笑みが、戻った。
だが、その碧い瞳の奥には——「鷹」がこれまで見たことのない、静かな決意が灯っていた。
「準備をしてくれ。外交使節団を編成する。——俺が、団長だ」
「……承知いたしました」
「鷹」は、頭を下げた。
(……三人の王子が、一つの町に集まることになるのか)
その予感が、「鷹」の背筋を冷たくした。
五
エステリアの町。
「鷹」が去った後も、町は表面上、平穏だった。
市場は開き、人々は行き交い、子どもたちは路地を走り回っている。国境の緊張は続いているが、町の中にいる限り、日常は保たれていた。
アナスタシアとドリゼラは、あの日以来——街はずれで王子を助けた日以来——上機嫌だった。
それは、もう、見ていてわかるほどに。
朝起きた時から、にこにこしている。朝食の時も、にこにこしている。魔法修行の時も、にこにこしている。夕食の時も、にこにこしている。寝る前も、にこにこしている。
そして——シンデレラへの当たりが、明らかに変わっていた。
「シンデレラ、お茶を淹れてちょうだい」
アナスタシアの声に、棘がない。
以前なら「シンデレラ! お茶はまだなの!? このぐうたら!」だったのが、普通の——本当に普通の、頼み事の口調になっている。
「シンデレラ、洗濯物ありがとう」
ドリゼラが、礼を言った。
麗良は、危うくお茶を零しそうになった。
ドリゼラが。あのドリゼラが。「ありがとう」と言った。
転生してから初めて聞いた言葉だった。
召使い扱いは変わらない。家事をするのは相変わらず麗良の役目だ。だが、きつく当たったり、わざと嫌がらせをしたり、掃除したばかりの床に泥靴で上がったりするようなことは——なくなっていた。
麗良は、その変化の理由を、なんとなく理解していた。
アナスタシアとドリゼラは、ずっと——何かに焦っていたのだと思う。
亡き義父の連れ子であるシンデレラは、母親譲りの美しい容姿を持っている。灰だらけの顔でも、ぼさぼさの髪でも、その骨格の美しさは隠しきれない。
義姉たちは、それを知っていた。
だから、シンデレラを虐げた。灰だらけにして、ぼろぼろの服を着せて、美しさを封じ込めようとした。
自分たちが何者にもなれない焦燥感を、シンデレラをいびることで紛らわせていた。
だが——今は、違う。
メルヴィンに魔法の才能を認められた。修行を重ね、炎と氷を操れるようになった。そして、その力で王子を助けた。王子に感謝された。名前を覚えてもらえた。
自分たちにも、価値がある。
自分たちにも、できることがある。
それを知った二人は——もう、シンデレラを虐げる必要がなくなったのだ。
人間として、一回り大きくなった。
だから今も、シンデレラをいびるよりも——。
「ねえドリゼラ、王子様の剣さばき、かっこよかったわよね!」
「ええ! 怪我をしていたのに、あんなに強いなんて……!」
「お礼を言ってくださった時の笑顔、覚えてる? あの碧い瞳で見つめられた時、心臓が止まるかと思ったわ!」
「私もよ! 『勇気ある人の姿は美しい』って……あんなこと言われたら、死んでもいいわ」
「死んじゃダメよ! また会えるんだから!」
きゃあきゃあと、王子様の話題で盛り上がっている。
麗良は、お茶を淹れながら、その様子を眺めていた。
(……お姉様たち、変わったなぁ)
素直に、そう思った。
意地悪な義姉。シンデレラの物語では、最後まで悪役のまま終わる存在。
でも、この世界の義姉たちは——変わった。
物語の「レール」から外れたからこそ、変われたのかもしれない。
「シンデレラ! 見て!」
アナスタシアが、不意に麗良の方を向いた。
赤毛の義姉が、右手をかざす。
ふわり、と。
金色の光が、麗良を包んだ。
温かい光だった。メルヴィンの魔法に似ているが、もっと若々しく、もっと——不安定で、でも一生懸命な光。
光が収まった時——麗良の胸に、小さなブローチが留められていた。
ルビーのブローチ。アナスタシアの赤毛の色をした、深い赤。繊細な細工で、花の形をしている。
「きれいでしょう!」
アナスタシアが、得意げに胸を張った。
「……まだ魔力が安定しないから、すぐ消えてしまうけどね。でも、前よりずっと長く持つようになったの!」
「わたしはサファイアを作れるようになったのよ!」
ドリゼラも負けじと手をかざし、麗良のもう片方の胸元に、青いサファイアのブローチを留めた。氷のように澄んだ青。こちらは蝶の形をしている。
「どう? 似合うでしょう?」
二人が、期待に満ちた目で麗良を見ている。
麗良は——。
胸元の、赤と青のブローチを見下ろした。
ぼろぼろのワンピースに、ルビーとサファイア。
似合うかどうかは、正直、微妙だ。灰だらけの服に宝石のブローチは、ちぐはぐにもほどがある。
でも——。
「……きれい」
素直に、そう言った。
「ありがとうございます、お姉様」
アナスタシアとドリゼラが、ぱっと笑顔になった。
麗良も、笑った。
ほっこりした。
そう、肉体はシンデレラだけれど、精神は新出麗良、二十七歳。義姉たちより、ちょっとは大人だ。
大人だからこそ、わかる。
人が変わることの難しさと、尊さ。
意地悪だった義姉たちが、魔法を学び、王子を助け、そして——灰かぶりの義妹に、手作りの宝石を贈ってくれる。
それは、どんな高価な宝石よりも——価値のあるものだった。
胸元のルビーとサファイアが、きらりと光った。
数時間で消えてしまう、魔法の宝石。
でも、その温かさは——消えない。
「……ふふ」
麗良は、ブローチに触れながら、小さく笑った。
窓の外では、秋の風が木々の葉を揺らしていた。
冬が、少しずつ近づいている。
そして——三つの国から、三人の王子が、この小さな町に向かって動き始めていることを、麗良はまだ知らない。
第八話「三つの国、三つの思惑」——了
第九話「三人の王子と、灰かぶりの姫」に続く




