第八話「三つの国、三つの思惑」 前編
一
エステリア王国、王城。
軍議の間は、怒号に満ちていた。
「ガルディアの仕業に決まっている! 国境に兵を展開しておきながら、王子殿下を襲撃するとは、もはや宣戦布告に等しい!」
軍務大臣が、拳でテーブルを叩いた。地図の上の駒が跳ねる。
「落ち着きなさい。襲撃者がガルディアの者だという確証はまだ——」
外務大臣が宥めようとするが、声はすぐにかき消された。
「確証がなくとも、状況証拠は十分だ! 国境に軍を展開し、先遣隊が領内に侵入し、そして王子殿下が襲撃された! これをガルディアの仕業と見なさずして、何と見なすのだ!」
将軍の一人が、立ち上がって声を張り上げた。
ヴァレンティアの間者の思惑通りだった。
アレクシス王子が町はずれで襲撃されたという報は、王城に衝撃を与えた。王子は左腕に深い切り傷を負い、護衛の兵士二人が重傷。襲撃者は逃走し、身元は不明。
だが、軍議の場では、犯人はほぼ「確定」していた。
ガルディアだ、と。
国境に兵を展開しているガルディアが、交渉を有利に進めるために王子の暗殺を企てた——その解釈が、軍議の大勢を占めていた。
つまり、ガルディアは単に交渉のカードとして軍をちらつかせているだけではない。全面戦争も辞さない覚悟で、エステリアに圧力をかけている。
そういう認識が、急速に広がりつつあった。
「通商条約において大幅な譲歩をすべきです」
穏健派の筆頭——財務大臣が、慎重な声で発言した。
「鉱山の採掘権の一部を譲渡し、関税を引き下げ、ガルディアの要求を受け入れる。その上で、有力貴族との政略結婚などを通じて、両国間の繋がりを盤石にしていく。それが、最も血を流さない道です」
「弱腰だ!」
軍務大臣が、即座に反論した。
「王子殿下に刃を向けられて、そんな腰抜けの対応でどうする! ガルディアに譲歩すれば、次はもっと大きな要求をしてくるぞ! 全面戦争ともなれば、相手も無事ではすまない! エステリアの覚悟を見せてやるべきだ!」
「覚悟を見せた結果、国が焼け野原になっては元も子もないでしょう!」
「焼け野原にならないために、軍備を増強するのだ!」
穏健派と強硬派が、真っ向から対立した。
テーブルを挟んで、怒声が飛び交う。地図の上の駒が、議論の熱気で揺れているように見えた。
本来、この場をまとめるべき人物——アレクシス王子は、不在だった。
左腕の傷は深く、医師から安静を命じられている。大事を取って軍議を欠席していた。
まとめ役を欠いた軍議は、紛糾するばかりだった。
穏健派は譲歩を主張し、強硬派は武力を主張し、中間派は判断を保留し——結論は、出なかった。
セバスチャンは、軍議の間の隅で、その様子を見つめていた。
老臣の顔には、深い憂慮が刻まれていた。
(……殿下がいらっしゃれば、こうはならないものを)
アレクシス王子は、穏健でも強硬でもない。状況を冷静に分析し、最善の道を見極める。それが、この若き王子の最大の強みだった。
だが、今、その王子は——傷ついた体を寝台に横たえ、天井を見つめている。
懐には、ガラスの靴を忍ばせたまま。
二
ガルディア王国、王城。
宰相グスタフ・フォン・ドラッヘンは、執務室の椅子に深く沈み込み、難しい顔で考え込んでいた。
机の上には、複数の報告書が散乱している。国境付近の軍の配置図。エステリアからの外交文書。そして——アレクシス王子襲撃事件の速報。
「……厄介なことになった」
グスタフは、禿げ上がった頭を撫でながら、呟いた。
エステリアのアレクシス王子が襲撃された。
そして、その犯人が——ガルディアの仕業だとされようとしている。
「濡れ衣も甚だしい」
グスタフは、鷲のような目を細めた。
確かに、国境付近に兵を展開したのは自分の策だ。通商条約の交渉を有利に進めるための、軍事的圧力。レオンハルト王子のシンデレラへの恋心を利用して、王子を焚きつけたのも事実だ。
だが——王子の暗殺など、命じていない。
グスタフの計画は、あくまで「圧力」だった。軍をちらつかせ、エステリアに譲歩を迫る。通商条約で有利な条件を呑ませ、あわよくば国境付近の鉱物資源を手に入れる。
せいぜいが、領土を少し刈り取る程度。
エステリアの威信を完全に踏みにじるようなことをすれば、誰も得をしない。面子を潰された相手は、理性を失って泥沼の戦争に突入しかねない。それは、グスタフの望むところではなかった。
なのに——誰かが、アレクシス王子を襲った。
そして、その罪がガルディアに着せられようとしている。
「……一体、誰がやった」
グスタフは、指先で机を叩いた。こつ、こつ、こつ。思考のリズム。
エステリア内部の権力争いか。王子の排除を望む勢力がいるのか。あるいは、第三国の工作か。
ヴァレンティアの名前は——浮かばなかった。
あの小国が、こんな大胆な工作を仕掛けてくるとは、グスタフですら想像していなかった。宝石と芸術の国。チャラい第二王子が舞踏会で踊っていた、あの国。脅威とは、到底思えない。
それが、ヴァレンティアの最大の武器だとも知らずに。
「いずれにせよ、エステリアをこれ以上刺激するのは得策ではない」
グスタフは、結論に達しつつあった。
「国境の兵力は現状維持。追加の展開は行わない。外交ルートを通じて、襲撃事件への関与を否定する声明を出す。慎重に、様子を見る」
それが、最も合理的な判断だった。
濡れ衣を着せられたからといって、感情的に動けば、かえって疑いを深めるだけだ。冷静に、粛々と、無実を主張する。時間が経てば、真相は明らかになるだろう。
グスタフは、報告書をまとめ、決裁の印を押そうとした。
その時——。
執務室の扉が、開いた。
ノックもなしに。
「グスタフ宰相」
低く、硬い声。
レオンハルト王子が、そこに立っていた。
黒い髪を短く刈り込み、浅黒い肌に鋭い黒い瞳。軍服を纏い、腰には愛用の長剣を佩いている。
その背後には、側近のヴォルフが——明らかに困り果てた顔で——控えていた。
「殿下。何か御用でしょうか」
グスタフは、表情を変えずに問うた。
「私自ら、アレクシス王子が襲撃されたという町に出向き、話をしたい」
グスタフの手が、止まった。
「……は?」
宰相の口から、らしくもない間の抜けた声が漏れた。
「我が国の名誉を汚す誤解は、解かねばならん。ガルディアがアレクシス王子の暗殺を企てたなどという汚名を、黙って受け入れるわけにはいかない。私が直接赴き、誠意をもって弁明する」
レオンハルトの声は、いつも通り真っ直ぐだった。
嘘がない。駆け引きがない。思ったことを、そのまま口にする。
それが、この王子の美点であり——グスタフにとっては、最大の頭痛の種だった。
「殿下」
グスタフは、こめかみを押さえた。
「両国が緊張状態にある今、エステリアの領内は事実上の敵地です。王子殿下が単身で乗り込むなど——」
「単身ではない。ヴォルフと、少数の護衛を連れていく」
「少数の護衛で、何ができるとお思いですか。アレクシス王子が襲撃されたばかりなのですよ。殿下まで襲われたら——」
「私は武人だ。襲われたら、斬る」
シンプルだった。あまりにもシンプルだった。
グスタフは、深い深いため息をついた。
「……殿下。本音をお聞かせ願えますか」
「本音?」
「ガルディアの名誉を守るため、というのは建前でしょう。本当の理由は——あの町に、舞踏会で出会った女性がいるかもしれない。それを確かめたい。違いますか」
レオンハルトの表情が、わずかに——ほんのわずかに、揺れた。
だが、すぐに引き締まった。
「……建前も本音も、どちらも真実だ。ガルディアの名誉は守らねばならん。そして——あの方のことも、確かめたい。両方だ」
嘘がない。
本当に、嘘がない男だった。
グスタフは、天井を仰いだ。
(……この殿下を止められる人間が、この国にいるだろうか)
答えは、否だった。
レオンハルト王子は、一度決めたら動かない。山のように。岩のように。
「……わかりました」
グスタフは、諦めたように言った。
「ただし、条件があります。護衛は最低でも二十名。魔導士を二名同行させること。そして——エステリアの領内では、あくまで外交使節としての体裁を整えること。武力行使は、自衛の場合を除き、厳禁です」
「承知した」
レオンハルトは、短く頷いた。
そして、踵を返して執務室を出ていった。
残されたグスタフは、机に突っ伏した。
「……頭が痛い」
文字通りの意味で。
三
レオンハルトが去った後、ヴォルフは廊下で主人に追いついた。
「殿下」
「何だ」
「……本当に、行かれるのですか」
「行く」
「エステリアの領内で、万が一のことがあれば——」
「ない」
「ですが——」
「ヴォルフ」
レオンハルトが、足を止めた。
振り返る。黒い瞳が、側近を真っ直ぐに見つめた。
「私は、あの方にもう一度会いたい。それだけだ」
ヴォルフは、口を閉じた。
十年仕えてきた主人が、こんな目をしているのを、初めて見た。
暇さえあれば武器を振るっていた、あの鉄の王子が。
恋に焼かれている。
建前は、ガルディアの名誉を守るため。誤解を解くため。それは嘘ではないだろう。レオンハルトは嘘をつけない男だ。
だが、本音は——もっと単純で、もっと切実だった。
あの町に、想い人がいるかもしれない。
メルヴィンと行動を共にしているという、あの一家の中に。
自分の目で確かめたい。
そしてもう一度だけでいい、話がしたい。
それだけなのだ。
「……承知いたしました」
ヴォルフは、深く頭を下げた。
「お供いたします。どこまでも」
レオンハルトは、かすかに——本当にかすかに、口元を緩めた。
「すまんな、ヴォルフ」
「いえ。——ただ、殿下」
「何だ」
「もし、あの方にお会いできた時は……もう少し、柔らかい表情をなさった方がよろしいかと。今の殿下のお顔は、少々……怖いです」
「……努力する」
レオンハルトは、真面目な顔で答えた。
ヴォルフは、小さく笑った。




