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第七話「灰かぶりの箒と、義姉たちの炎と氷」 後編

翌日。


朝から、町は騒がしかった。


昨夜の騒動——宿屋の窓が破られ、正体不明の人物が放り出された——は、町の噂になっていた。エステリアの兵士たちが調査に来たが、魔導士部隊はすでに姿を消しており、証拠らしい証拠は残っていなかった。


メルヴィンは、兵士たちに「酔っ払いが暴れただけじゃ」と適当なことを言って追い返した。ガルディアの魔導士部隊が潜入していたことを公にすれば、国際問題がさらに複雑になる。今は、余計な火種を増やすべきではない。


朝食の後、メルヴィンはいつものように、アナスタシアとドリゼラを連れて町はずれの草原に向かった。


「昨夜のことがあったからこそ、修行は続けるべきじゃ。自分の身を守る力は、あるに越したことはない」


メルヴィンの言葉に、二人は——昨日までとは違う目で、頷いた。


昨夜、目の前で魔導士に襲われた。何もできなかった。凍りついて、動けなかった。


あの無力感を、二度と味わいたくなかった。


そして——灰かぶりのシンデレラが、箒一本で飛び込んできた姿が、脳裏に焼き付いていた。


魔法も使えない。才能もない。それでも、動いた。


自分たちには、魔法の才能がある。大魔導士が太鼓判を押した才能が。


それなのに、何もできなかった。


悔しかった。


「今日は、少し実戦的な訓練をするぞ。炎と氷を、狙った場所に正確に放つ練習じゃ」


「はい!」


二人の声が、昨日より力強かった。


麗良は、今日も草原の端に座って、義姉たちの修行を眺めていた。


アナスタシアが、掌から炎を放つ。昨日より大きい。昨日より速い。


ドリゼラが、地面に氷の柱を生やす。昨日より高い。昨日より鋭い。


(……お姉様たち、目の色が変わったな)


昨夜の襲撃が、二人を変えたのだろう。


気晴らしの修行から、本気の修行へ。


麗良は、少しだけ——嬉しかった。


昼過ぎ。


メルヴィンが、席を外した。


「少し町に用がある。二人は、ここで自主練習をしておれ。基礎の反復じゃ。派手なことはするなよ」


「はーい」


アナスタシアとドリゼラが、気の抜けた返事をした。


メルヴィンの姿が、街道の向こうに消える。


草原には、二人だけが残された。


秋の風が、枯れかけた草を揺らしている。空は高く、雲一つない。遠くで鳥が鳴いている。


「じゃあ、練習しましょうか」


ドリゼラが、掌を前に出した。


「うん。——あ、ちょっと待って」


アナスタシアが、ふと、草原の向こうに目を向けた。


街道から少し外れた、木立の陰。


何か——動いた。


「……ドリゼラ、あれ」


「何?」


「あそこ。木の向こう。……人がいる」


二人が目を凝らした。


木立の陰に、人影が見えた。複数の。


そして——金属がぶつかり合う音が、風に乗って聞こえてきた。


剣戟の音だ。


「……戦ってる?」


アナスタシアが、息を呑んだ。


二人は、恐る恐る、木立の方に近づいた。


木の幹に身を隠しながら、覗き込む。


そこで繰り広げられていた光景に——二人は、凍りついた。


木立の中の、小さな空き地。


そこで、一人の男が、五人の男たちに囲まれていた。


一人の男——白い軍服。青いマント。栗色の髪。


アレクシス王子だった。


手には抜き身の剣。マントは切り裂かれ、左腕から血が滲んでいる。息は荒く、額には汗が光っている。


だが、碧い瞳には——まだ、闘志が燃えていた。


王子の足元に、二人の男が倒れていた。エステリアの紋章をつけた兵士——護衛だ。すでに意識がない。


五人の襲撃者は、くたびれた外套を纏っている。一見、旅人のようだが、その動きは明らかに訓練された戦闘員のそれだった。手には短剣や細身の剣。顔の下半分を布で覆い、素性を隠している。


ヴァレンティアの間者たちだった。


「……しぶといな、さすがは王子様だ」


リーダー格の男——鷹が、感心したように呟いた。


アレクシスの剣の腕は、確かだった。王族としての教育の一環で、幼い頃から剣術を学んでいる。護衛が倒された後も、一人で五人を相手に持ちこたえている。


だが——多勢に無勢だった。


五人が連携して攻めてくる。一人が正面から斬りかかり、注意を引いている間に、別の一人が側面から回り込む。王子がそれを捌けば、今度は背後から。


じりじりと、追い詰められていく。


左腕の傷が、動きを鈍らせている。出血は止まっていない。


「殺す必要はない。重傷を負わせろ。それで十分だ」


鷹が、低い声で指示を出した。


アレクシスは、歯を食いしばった。


(……ここで、倒れるわけにはいかない)


国を守らなければ。民を守らなければ。


そして——あの人を、見つけなければ。


名前も知らない、ガラスの靴の持ち主。


まだ、会えていない。


まだ、名前を聞いていない。


ここで倒れるわけには——。


だが、体が限界に近づいていた。


剣を振る腕が重い。足が鈍い。視界の端が、暗くなり始めている。


五人目の男が、横から斬りかかってきた。


辛うじて剣で受ける。だが、衝撃で体勢が崩れた。


膝が、地面についた。


「——今だ!」


鷹の号令。


二人の男が、同時に王子に迫った。


もう、避けられない。


その時——。


「きゃあああああっ!」


甲高い叫び声が、木立に響いた。


全員が、一瞬、動きを止めた。


木立の入り口に、二人の少女が立っていた。


赤毛の少女と、黒髪の少女。


アナスタシアとドリゼラだった。


二人とも、顔面蒼白だった。膝が震えている。目は恐怖に見開かれている。


目の前で繰り広げられている光景——血を流す王子、倒れた護衛、覆面の男たち——は、魔法修行の延長線上にあるものではなかった。


これは、本物の戦闘だ。


本物の暴力だ。


人が、人を傷つけている。


「……逃げ、なきゃ」


ドリゼラが、かすれた声で呟いた。


足が、後ろに下がろうとする。本能が、逃げろと叫んでいる。


アナスタシアも、同じだった。体が震えて、歯がかちかちと鳴っている。


逃げたい。


逃げるべきだ。


こんな場所に、自分たちがいるべきではない。


だが——。


アナスタシアの目が、王子を捉えた。


膝をついた王子。血に染まった左腕。それでも剣を手放さない、碧い瞳。


あの舞踏会の夜、自分と踊ってくれた、憧れの王子様。


その王子が、今、殺されようとしている。


そして——脳裏に、昨夜の光景が蘇った。


箒を握って飛び込んできた、灰だらけの少女。


魔法も使えない。才能もない。それでも——動いた。


「……ドリゼラ」


アナスタシアの声が、変わった。


震えている。まだ震えている。でも、その奥に——何かが、灯った。


「何の才能もない灰かぶりだって、母様を助けたのよ」


「……姉さん」


「わ、わたしたちならできる。王子様を助けられる。……だって、わたしたちには、魔法があるじゃない」


アナスタシアの手が、拳を握った。


震えている。でも、握った。


ドリゼラは、姉の顔を見た。


蒼白で、涙目で、膝はがくがく震えていて——それでも、前を向いている顔。


「……そうね」


ドリゼラが、頷いた。


「灰かぶりにできて、わたしたちにできないわけがないわ」


二人は、前に出た。


「何だ、ガキか。——邪魔をするな、怪我をするぞ」


鷹が、二人の少女を一瞥して、吐き捨てるように言った。


眼中にない。当然だ。覆面の戦闘員五人を相手に、少女二人が何をできるというのか。


「ドリゼラ、足元!」


アナスタシアが叫んだ。


ドリゼラが、両手を地面に向けた。


目を閉じる。集中する。体の中心から、魔力を引き出す。昨夜の恐怖を。今朝の決意を。そして——守りたいという、強い想いを。


「氷よ——!」


地面が、凍った。


ドリゼラの足元から、白い霜が放射状に広がっていく。草が凍り、土が凍り、小石が氷に覆われる。


王子を囲んでいた五人の男たちの足元に、氷が到達した。


「なっ——!」


靴底が、地面に張り付いた。氷が靴を包み込み、足首まで凍りつかせる。


「足が——動かない!?」


男たちが、驚愕の声を上げた。


初級魔法だ。範囲も狭い。威力も弱い。訓練された戦闘員なら、すぐに振りほどける程度のもの。


だが——一瞬の隙は、生まれた。


「アナスタシア!」


ドリゼラが叫んだ。


アナスタシアが、両手を前に突き出した。


掌の上に、炎が灯る。昨日より大きい。今朝より大きい。恐怖と勇気が混ざり合った、赤い炎。


「炎よ——行きなさい!」


炎が、掌から放たれた。


火球、と呼ぶには小さい。蝋燭の炎を少し大きくした程度のもの。


だが、それは——王子に最も近い位置にいた男の顔面に向かって、まっすぐに飛んだ。


「うわっ!」


男が、反射的に顔を庇って後ろに跳んだ。


火傷するほどの威力はない。だが、顔に向かって炎が飛んでくれば、誰だって怯む。


その隙に——。


アレクシスが、動いた。


膝をついていた体を、渾身の力で起こす。左腕の痛みを無視して、剣を振り上げる。


足元の氷で動きが鈍った男の剣を弾き飛ばし、柄頭で顎を打ち上げた。


男が、崩れ落ちた。


「くそっ、何だこのガキどもは——!」


鷹が、舌打ちした。


足元の氷を蹴り砕き、自由になる。だが、その間にアレクシスは体勢を立て直していた。


「ドリゼラ、もう一回!」


「わかってる!」


再び、氷が地面を這う。


「アナスタシア!」


「任せて!」


炎が、飛ぶ。


初級魔法。威力は低い。精度も甘い。


だが——二人の連携は、戦闘の素人だからこその、予測不能な動きを生んでいた。


訓練された間者たちは、訓練された敵の動きには対応できる。だが、素人の、恐怖に震えながらの、がむしゃらな魔法攻撃は——パターンがない。予測できない。


氷が足を止め、炎が注意を逸らす。


その隙を、アレクシスが突く。


王子の剣が、閃いた。


一人、また一人と、間者が倒れていく。


「……撤退だ」


鷹が、判断した。


王子を仕留め損ねた。これ以上の戦闘は、リスクが高すぎる。


「覚えておけ、王子」


鷹は、最後に一言だけ残して——木立の中に消えた。


残った間者たちも、倒れた仲間を引きずりながら、姿を消していく。


静寂が、戻った。


木立の中に、三人だけが残された。


アレクシス王子。アナスタシア。ドリゼラ。


そして、地面に倒れた護衛の兵士二人。


アレクシスは、剣を鞘に収めた。左腕の傷から、まだ血が滲んでいる。だが、致命傷ではない。


「……大丈夫ですか、王子様!」


アナスタシアが、駆け寄った。


ドリゼラも続く。


二人とも、まだ膝が震えていた。顔は蒼白で、目には涙が浮かんでいる。だが——その目には、恐怖だけではない何かが、確かに灯っていた。


アレクシスは、二人を見た。


碧い瞳に、驚きと——深い感謝が浮かんだ。


「……君たちが、助けてくれたのか」


「は、はい……! あの、大したことはしてなくて、ちょっと氷を出したり炎を出したりしただけで……」


アナスタシアが、しどろもどろに答える。


「大したことではない、だと?」


アレクシスは、かすかに笑った。


疲労と痛みの中の、しかし心からの笑みだった。


「君たちの魔法がなければ、私は今頃、地面に伏していただろう。……命を救われた。心から、礼を言う」


王子が、右手を胸に当てて、深く頭を下げた。


王族の、正式な謝礼の作法だった。


アナスタシアとドリゼラが、目を丸くした。


王子様が。あの、アレクシス王子様が。自分たちに、頭を下げている。


「また改めて、正式にお礼をさせてほしい。君たちの名前を教えてもらえるだろうか」


「あ、アナスタシア・トレメインです……!」


「ド、ドリゼラ・トレメインです……!」


「トレメイン……」


アレクシスが、その名を反芻した。


そして——アナスタシアの顔を、じっと見た。


赤毛。気の強そうな顔立ち。


「……ああ」


王子の碧い瞳に、記憶の光が灯った。


「君は——舞踏会の夜に、私と踊ってくれた方だね」


アナスタシアの目が、限界まで見開かれた。


「覚えて……覚えていらっしゃるんですか……!?」


「もちろん。あの夜、踊ってくださった方のことは、皆覚えている」


あの夜、アレクシスの心はシンデレラに奪われていた。アナスタシアと踊っている間も、上の空だった。それは事実だ。


だが——踊った相手の顔を忘れるほど、アレクシスは不誠実な男ではなかった。


「あの時は、十分なおもてなしができず、申し訳なかった」


「そ、そんな……! 王子様と踊れただけで、私、一生の思い出で……」


アナスタシアの声が、震えた。


目に、涙が溢れた。


感動の涙だった。


「こ、こんな格好でお会いするなんて……メイクもしていない、ドレスアップもしていない、汗だくで、髪もぼさぼさで……恥ずかしいです……」


アナスタシアが、慌てて髪を手で整えようとする。だが、魔法修行で乱れた赤毛は、どうにもならなかった。


「構わないよ」


アレクシスが、穏やかに言った。


「今の君たちの姿は、どんなドレスよりも美しい。——勇気ある人の姿は、いつだって美しいものだ」


アナスタシアが、ついに泣き出した。


ドリゼラも、目を赤くしている。


二人は、王子様を助けた。


魔法で。自分たちの力で。


さらには、お礼の言葉までもらった。


舞踏会のことも覚えていてもらえた。


「……ドリゼラ」


帰り道、アナスタシアが、涙を拭きながら言った。


「私たち、王子様を助けたのよ」


「……うん」


「王子様が、お礼を言ってくれたのよ」


「……うん」


「舞踏会のことも、覚えていてくれたのよ」


「……うん」


二人は、顔を見合わせた。


そして——満面の笑みを浮かべた。


「最高の日だわ!」


「最高ね!」


有頂天だった。


完全なる有頂天だった。


国境紛争も、昨夜の襲撃も、避難生活の不便さも——すべてが吹き飛ぶほどの、圧倒的な幸福感。


王子様との繋がりができた。


それは、二人にとって——舞踏会のドレスよりも、宝石よりも、何よりも輝かしい宝物だった。


その頃、麗良は——。


宿屋で、洗濯物を干していた。


義姉たちの下着と、継母のハンカチと、自分のぼろぼろのワンピースの替え。


「……はぁ」


ため息をつく。


避難先でも、結局、家事をしているのは自分だ。


義姉たちは魔法修行。継母は町の有力者との交渉。メルヴィンは何やら調査。


そして麗良は——洗濯。


「……シンデレラだもんね。灰かぶりだもんね。家事が本業だもんね」


自嘲気味に呟いて、洗濯物を干す。


胸の中には、メルヴィンとの約束がある。


国境紛争が終わったら、魔法のドレスを纏って、ガラスの靴を持って、王子様に会いに行く。


それまでは——待つ。耐える。洗濯物を干す。


「……社畜根性だけは、チートスキル並みなんだけどなぁ」


秋の風が、洗濯物を揺らした。


義姉たちが、きゃあきゃあと騒ぎながら帰ってきたのは、それから少し後のことだった。


「シンデレラ! 聞いて聞いて! 王子様を助けたの!」


「王子様がお礼を言ってくれたのよ!」


「舞踏会のことも覚えていてくれたの!」


二人の興奮した報告を、麗良は最初、ぼんやりと聞いていた。


だが——ある単語が耳に入った瞬間、手が止まった。


「……え? 王子様? アレクシス王子様が?」


「そうよ! 町はずれで刺客に襲われていたの!」


「私たちが魔法で助けたのよ!」


心臓が、跳ねた。


アレクシス王子が、この町にいる。


すぐ近くに。


「それで今、王子様はどちらに!?」


麗良は、洗濯物を放り出して義姉たちに詰め寄った。


灰だらけの姿だろうと構わない。ガラスの靴を持って行けば、王子様は気づいてくれるかもしれない。あの夜、一緒に踊った相手だと。もう片方の靴の持ち主だと。


「どちらって……」


アナスタシアが、少し面食らった顔をした。


「刺客との戦いでお怪我をされていて、護衛の兵士たちが駆けつけた後、お城にお帰りになったわ」


「左腕から血が出ていたの。かなり深い傷みたいだった」


ドリゼラが付け加えた。


麗良の足が、止まった。


「……お怪我」


「ええ。でも、命に別状はないと思うわ。ご自分で歩いていらしたし」


「……そう、ですか」


麗良は、ゆっくりと、干しかけの洗濯物の前に戻った。


もう、いない。


王子様は、もうこの町にはいない。


城に帰ってしまった。


ニアミス。


すぐ近くにいたのに。同じ町にいたのに。


義姉たちは会えたのに——自分は、会えなかった。


「……っ」


胸が、きゅっと締まった。


切ない。


でも、それ以上に——。


「……怪我、大丈夫かな」


呟いた。


声が、小さく震えていた。


刺客。怪我。血。


シンデレラの物語に、そんなものは出てこない。王子様が剣を振るって戦う場面など、どの絵本にも描かれていなかった。


王子様は、舞踏会で優雅に踊り、ガラスの靴を持って国中を回り、シンデレラを見つけて、ハッピーエンド。それが、シンデレラの王子様だ。


なのに——この世界の王子様は、刺客に襲われて血を流している。


(王子様……)


あの温かい手。あの優しい声。あの碧い瞳。


その手が剣を握り、その体が傷つけられている。


怖い。


王子様が傷つくのが、怖い。


会えないことよりも、王子様が無事でいてくれることの方が——ずっと、大事だ。


「……王子様、どうかご無事で」


麗良は、洗濯物を干しながら、祈った。


灰だらけの手を合わせて。


ガラスの靴は、荷物の中で、静かに光っている。


もう片方の靴の持ち主は、今頃、城で傷の手当てを受けているのだろう。


二つの靴が揃う日は——まだ、来ない。


「……でも、必ず」


麗良は、秋の空を見上げた。


「必ず、会いに行くから」


風が、金色の髪を揺らした。


冷たい風だった。


第七話「灰かぶりの箒と、義姉たちの炎と氷」——了


第八話「三つの国、三つの思惑」に続く

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