第七話「灰かぶりの箒と、義姉たちの炎と氷」 後編
五
翌日。
朝から、町は騒がしかった。
昨夜の騒動——宿屋の窓が破られ、正体不明の人物が放り出された——は、町の噂になっていた。エステリアの兵士たちが調査に来たが、魔導士部隊はすでに姿を消しており、証拠らしい証拠は残っていなかった。
メルヴィンは、兵士たちに「酔っ払いが暴れただけじゃ」と適当なことを言って追い返した。ガルディアの魔導士部隊が潜入していたことを公にすれば、国際問題がさらに複雑になる。今は、余計な火種を増やすべきではない。
朝食の後、メルヴィンはいつものように、アナスタシアとドリゼラを連れて町はずれの草原に向かった。
「昨夜のことがあったからこそ、修行は続けるべきじゃ。自分の身を守る力は、あるに越したことはない」
メルヴィンの言葉に、二人は——昨日までとは違う目で、頷いた。
昨夜、目の前で魔導士に襲われた。何もできなかった。凍りついて、動けなかった。
あの無力感を、二度と味わいたくなかった。
そして——灰かぶりのシンデレラが、箒一本で飛び込んできた姿が、脳裏に焼き付いていた。
魔法も使えない。才能もない。それでも、動いた。
自分たちには、魔法の才能がある。大魔導士が太鼓判を押した才能が。
それなのに、何もできなかった。
悔しかった。
「今日は、少し実戦的な訓練をするぞ。炎と氷を、狙った場所に正確に放つ練習じゃ」
「はい!」
二人の声が、昨日より力強かった。
麗良は、今日も草原の端に座って、義姉たちの修行を眺めていた。
アナスタシアが、掌から炎を放つ。昨日より大きい。昨日より速い。
ドリゼラが、地面に氷の柱を生やす。昨日より高い。昨日より鋭い。
(……お姉様たち、目の色が変わったな)
昨夜の襲撃が、二人を変えたのだろう。
気晴らしの修行から、本気の修行へ。
麗良は、少しだけ——嬉しかった。
六
昼過ぎ。
メルヴィンが、席を外した。
「少し町に用がある。二人は、ここで自主練習をしておれ。基礎の反復じゃ。派手なことはするなよ」
「はーい」
アナスタシアとドリゼラが、気の抜けた返事をした。
メルヴィンの姿が、街道の向こうに消える。
草原には、二人だけが残された。
秋の風が、枯れかけた草を揺らしている。空は高く、雲一つない。遠くで鳥が鳴いている。
「じゃあ、練習しましょうか」
ドリゼラが、掌を前に出した。
「うん。——あ、ちょっと待って」
アナスタシアが、ふと、草原の向こうに目を向けた。
街道から少し外れた、木立の陰。
何か——動いた。
「……ドリゼラ、あれ」
「何?」
「あそこ。木の向こう。……人がいる」
二人が目を凝らした。
木立の陰に、人影が見えた。複数の。
そして——金属がぶつかり合う音が、風に乗って聞こえてきた。
剣戟の音だ。
「……戦ってる?」
アナスタシアが、息を呑んだ。
二人は、恐る恐る、木立の方に近づいた。
木の幹に身を隠しながら、覗き込む。
そこで繰り広げられていた光景に——二人は、凍りついた。
七
木立の中の、小さな空き地。
そこで、一人の男が、五人の男たちに囲まれていた。
一人の男——白い軍服。青いマント。栗色の髪。
アレクシス王子だった。
手には抜き身の剣。マントは切り裂かれ、左腕から血が滲んでいる。息は荒く、額には汗が光っている。
だが、碧い瞳には——まだ、闘志が燃えていた。
王子の足元に、二人の男が倒れていた。エステリアの紋章をつけた兵士——護衛だ。すでに意識がない。
五人の襲撃者は、くたびれた外套を纏っている。一見、旅人のようだが、その動きは明らかに訓練された戦闘員のそれだった。手には短剣や細身の剣。顔の下半分を布で覆い、素性を隠している。
ヴァレンティアの間者たちだった。
「……しぶといな、さすがは王子様だ」
リーダー格の男——鷹が、感心したように呟いた。
アレクシスの剣の腕は、確かだった。王族としての教育の一環で、幼い頃から剣術を学んでいる。護衛が倒された後も、一人で五人を相手に持ちこたえている。
だが——多勢に無勢だった。
五人が連携して攻めてくる。一人が正面から斬りかかり、注意を引いている間に、別の一人が側面から回り込む。王子がそれを捌けば、今度は背後から。
じりじりと、追い詰められていく。
左腕の傷が、動きを鈍らせている。出血は止まっていない。
「殺す必要はない。重傷を負わせろ。それで十分だ」
鷹が、低い声で指示を出した。
アレクシスは、歯を食いしばった。
(……ここで、倒れるわけにはいかない)
国を守らなければ。民を守らなければ。
そして——あの人を、見つけなければ。
名前も知らない、ガラスの靴の持ち主。
まだ、会えていない。
まだ、名前を聞いていない。
ここで倒れるわけには——。
だが、体が限界に近づいていた。
剣を振る腕が重い。足が鈍い。視界の端が、暗くなり始めている。
五人目の男が、横から斬りかかってきた。
辛うじて剣で受ける。だが、衝撃で体勢が崩れた。
膝が、地面についた。
「——今だ!」
鷹の号令。
二人の男が、同時に王子に迫った。
もう、避けられない。
その時——。
「きゃあああああっ!」
甲高い叫び声が、木立に響いた。
全員が、一瞬、動きを止めた。
木立の入り口に、二人の少女が立っていた。
赤毛の少女と、黒髪の少女。
アナスタシアとドリゼラだった。
二人とも、顔面蒼白だった。膝が震えている。目は恐怖に見開かれている。
目の前で繰り広げられている光景——血を流す王子、倒れた護衛、覆面の男たち——は、魔法修行の延長線上にあるものではなかった。
これは、本物の戦闘だ。
本物の暴力だ。
人が、人を傷つけている。
「……逃げ、なきゃ」
ドリゼラが、かすれた声で呟いた。
足が、後ろに下がろうとする。本能が、逃げろと叫んでいる。
アナスタシアも、同じだった。体が震えて、歯がかちかちと鳴っている。
逃げたい。
逃げるべきだ。
こんな場所に、自分たちがいるべきではない。
だが——。
アナスタシアの目が、王子を捉えた。
膝をついた王子。血に染まった左腕。それでも剣を手放さない、碧い瞳。
あの舞踏会の夜、自分と踊ってくれた、憧れの王子様。
その王子が、今、殺されようとしている。
そして——脳裏に、昨夜の光景が蘇った。
箒を握って飛び込んできた、灰だらけの少女。
魔法も使えない。才能もない。それでも——動いた。
「……ドリゼラ」
アナスタシアの声が、変わった。
震えている。まだ震えている。でも、その奥に——何かが、灯った。
「何の才能もない灰かぶりだって、母様を助けたのよ」
「……姉さん」
「わ、わたしたちならできる。王子様を助けられる。……だって、わたしたちには、魔法があるじゃない」
アナスタシアの手が、拳を握った。
震えている。でも、握った。
ドリゼラは、姉の顔を見た。
蒼白で、涙目で、膝はがくがく震えていて——それでも、前を向いている顔。
「……そうね」
ドリゼラが、頷いた。
「灰かぶりにできて、わたしたちにできないわけがないわ」
二人は、前に出た。
八
「何だ、ガキか。——邪魔をするな、怪我をするぞ」
鷹が、二人の少女を一瞥して、吐き捨てるように言った。
眼中にない。当然だ。覆面の戦闘員五人を相手に、少女二人が何をできるというのか。
「ドリゼラ、足元!」
アナスタシアが叫んだ。
ドリゼラが、両手を地面に向けた。
目を閉じる。集中する。体の中心から、魔力を引き出す。昨夜の恐怖を。今朝の決意を。そして——守りたいという、強い想いを。
「氷よ——!」
地面が、凍った。
ドリゼラの足元から、白い霜が放射状に広がっていく。草が凍り、土が凍り、小石が氷に覆われる。
王子を囲んでいた五人の男たちの足元に、氷が到達した。
「なっ——!」
靴底が、地面に張り付いた。氷が靴を包み込み、足首まで凍りつかせる。
「足が——動かない!?」
男たちが、驚愕の声を上げた。
初級魔法だ。範囲も狭い。威力も弱い。訓練された戦闘員なら、すぐに振りほどける程度のもの。
だが——一瞬の隙は、生まれた。
「アナスタシア!」
ドリゼラが叫んだ。
アナスタシアが、両手を前に突き出した。
掌の上に、炎が灯る。昨日より大きい。今朝より大きい。恐怖と勇気が混ざり合った、赤い炎。
「炎よ——行きなさい!」
炎が、掌から放たれた。
火球、と呼ぶには小さい。蝋燭の炎を少し大きくした程度のもの。
だが、それは——王子に最も近い位置にいた男の顔面に向かって、まっすぐに飛んだ。
「うわっ!」
男が、反射的に顔を庇って後ろに跳んだ。
火傷するほどの威力はない。だが、顔に向かって炎が飛んでくれば、誰だって怯む。
その隙に——。
アレクシスが、動いた。
膝をついていた体を、渾身の力で起こす。左腕の痛みを無視して、剣を振り上げる。
足元の氷で動きが鈍った男の剣を弾き飛ばし、柄頭で顎を打ち上げた。
男が、崩れ落ちた。
「くそっ、何だこのガキどもは——!」
鷹が、舌打ちした。
足元の氷を蹴り砕き、自由になる。だが、その間にアレクシスは体勢を立て直していた。
「ドリゼラ、もう一回!」
「わかってる!」
再び、氷が地面を這う。
「アナスタシア!」
「任せて!」
炎が、飛ぶ。
初級魔法。威力は低い。精度も甘い。
だが——二人の連携は、戦闘の素人だからこその、予測不能な動きを生んでいた。
訓練された間者たちは、訓練された敵の動きには対応できる。だが、素人の、恐怖に震えながらの、がむしゃらな魔法攻撃は——パターンがない。予測できない。
氷が足を止め、炎が注意を逸らす。
その隙を、アレクシスが突く。
王子の剣が、閃いた。
一人、また一人と、間者が倒れていく。
「……撤退だ」
鷹が、判断した。
王子を仕留め損ねた。これ以上の戦闘は、リスクが高すぎる。
「覚えておけ、王子」
鷹は、最後に一言だけ残して——木立の中に消えた。
残った間者たちも、倒れた仲間を引きずりながら、姿を消していく。
静寂が、戻った。
九
木立の中に、三人だけが残された。
アレクシス王子。アナスタシア。ドリゼラ。
そして、地面に倒れた護衛の兵士二人。
アレクシスは、剣を鞘に収めた。左腕の傷から、まだ血が滲んでいる。だが、致命傷ではない。
「……大丈夫ですか、王子様!」
アナスタシアが、駆け寄った。
ドリゼラも続く。
二人とも、まだ膝が震えていた。顔は蒼白で、目には涙が浮かんでいる。だが——その目には、恐怖だけではない何かが、確かに灯っていた。
アレクシスは、二人を見た。
碧い瞳に、驚きと——深い感謝が浮かんだ。
「……君たちが、助けてくれたのか」
「は、はい……! あの、大したことはしてなくて、ちょっと氷を出したり炎を出したりしただけで……」
アナスタシアが、しどろもどろに答える。
「大したことではない、だと?」
アレクシスは、かすかに笑った。
疲労と痛みの中の、しかし心からの笑みだった。
「君たちの魔法がなければ、私は今頃、地面に伏していただろう。……命を救われた。心から、礼を言う」
王子が、右手を胸に当てて、深く頭を下げた。
王族の、正式な謝礼の作法だった。
アナスタシアとドリゼラが、目を丸くした。
王子様が。あの、アレクシス王子様が。自分たちに、頭を下げている。
「また改めて、正式にお礼をさせてほしい。君たちの名前を教えてもらえるだろうか」
「あ、アナスタシア・トレメインです……!」
「ド、ドリゼラ・トレメインです……!」
「トレメイン……」
アレクシスが、その名を反芻した。
そして——アナスタシアの顔を、じっと見た。
赤毛。気の強そうな顔立ち。
「……ああ」
王子の碧い瞳に、記憶の光が灯った。
「君は——舞踏会の夜に、私と踊ってくれた方だね」
アナスタシアの目が、限界まで見開かれた。
「覚えて……覚えていらっしゃるんですか……!?」
「もちろん。あの夜、踊ってくださった方のことは、皆覚えている」
あの夜、アレクシスの心はシンデレラに奪われていた。アナスタシアと踊っている間も、上の空だった。それは事実だ。
だが——踊った相手の顔を忘れるほど、アレクシスは不誠実な男ではなかった。
「あの時は、十分なおもてなしができず、申し訳なかった」
「そ、そんな……! 王子様と踊れただけで、私、一生の思い出で……」
アナスタシアの声が、震えた。
目に、涙が溢れた。
感動の涙だった。
「こ、こんな格好でお会いするなんて……メイクもしていない、ドレスアップもしていない、汗だくで、髪もぼさぼさで……恥ずかしいです……」
アナスタシアが、慌てて髪を手で整えようとする。だが、魔法修行で乱れた赤毛は、どうにもならなかった。
「構わないよ」
アレクシスが、穏やかに言った。
「今の君たちの姿は、どんなドレスよりも美しい。——勇気ある人の姿は、いつだって美しいものだ」
アナスタシアが、ついに泣き出した。
ドリゼラも、目を赤くしている。
二人は、王子様を助けた。
魔法で。自分たちの力で。
さらには、お礼の言葉までもらった。
舞踏会のことも覚えていてもらえた。
「……ドリゼラ」
帰り道、アナスタシアが、涙を拭きながら言った。
「私たち、王子様を助けたのよ」
「……うん」
「王子様が、お礼を言ってくれたのよ」
「……うん」
「舞踏会のことも、覚えていてくれたのよ」
「……うん」
二人は、顔を見合わせた。
そして——満面の笑みを浮かべた。
「最高の日だわ!」
「最高ね!」
有頂天だった。
完全なる有頂天だった。
国境紛争も、昨夜の襲撃も、避難生活の不便さも——すべてが吹き飛ぶほどの、圧倒的な幸福感。
王子様との繋がりができた。
それは、二人にとって——舞踏会のドレスよりも、宝石よりも、何よりも輝かしい宝物だった。
十
その頃、麗良は——。
宿屋で、洗濯物を干していた。
義姉たちの下着と、継母のハンカチと、自分のぼろぼろのワンピースの替え。
「……はぁ」
ため息をつく。
避難先でも、結局、家事をしているのは自分だ。
義姉たちは魔法修行。継母は町の有力者との交渉。メルヴィンは何やら調査。
そして麗良は——洗濯。
「……シンデレラだもんね。灰かぶりだもんね。家事が本業だもんね」
自嘲気味に呟いて、洗濯物を干す。
胸の中には、メルヴィンとの約束がある。
国境紛争が終わったら、魔法のドレスを纏って、ガラスの靴を持って、王子様に会いに行く。
それまでは——待つ。耐える。洗濯物を干す。
「……社畜根性だけは、チートスキル並みなんだけどなぁ」
秋の風が、洗濯物を揺らした。
義姉たちが、きゃあきゃあと騒ぎながら帰ってきたのは、それから少し後のことだった。
「シンデレラ! 聞いて聞いて! 王子様を助けたの!」
「王子様がお礼を言ってくれたのよ!」
「舞踏会のことも覚えていてくれたの!」
二人の興奮した報告を、麗良は最初、ぼんやりと聞いていた。
だが——ある単語が耳に入った瞬間、手が止まった。
「……え? 王子様? アレクシス王子様が?」
「そうよ! 町はずれで刺客に襲われていたの!」
「私たちが魔法で助けたのよ!」
心臓が、跳ねた。
アレクシス王子が、この町にいる。
すぐ近くに。
「それで今、王子様はどちらに!?」
麗良は、洗濯物を放り出して義姉たちに詰め寄った。
灰だらけの姿だろうと構わない。ガラスの靴を持って行けば、王子様は気づいてくれるかもしれない。あの夜、一緒に踊った相手だと。もう片方の靴の持ち主だと。
「どちらって……」
アナスタシアが、少し面食らった顔をした。
「刺客との戦いでお怪我をされていて、護衛の兵士たちが駆けつけた後、お城にお帰りになったわ」
「左腕から血が出ていたの。かなり深い傷みたいだった」
ドリゼラが付け加えた。
麗良の足が、止まった。
「……お怪我」
「ええ。でも、命に別状はないと思うわ。ご自分で歩いていらしたし」
「……そう、ですか」
麗良は、ゆっくりと、干しかけの洗濯物の前に戻った。
もう、いない。
王子様は、もうこの町にはいない。
城に帰ってしまった。
ニアミス。
すぐ近くにいたのに。同じ町にいたのに。
義姉たちは会えたのに——自分は、会えなかった。
「……っ」
胸が、きゅっと締まった。
切ない。
でも、それ以上に——。
「……怪我、大丈夫かな」
呟いた。
声が、小さく震えていた。
刺客。怪我。血。
シンデレラの物語に、そんなものは出てこない。王子様が剣を振るって戦う場面など、どの絵本にも描かれていなかった。
王子様は、舞踏会で優雅に踊り、ガラスの靴を持って国中を回り、シンデレラを見つけて、ハッピーエンド。それが、シンデレラの王子様だ。
なのに——この世界の王子様は、刺客に襲われて血を流している。
(王子様……)
あの温かい手。あの優しい声。あの碧い瞳。
その手が剣を握り、その体が傷つけられている。
怖い。
王子様が傷つくのが、怖い。
会えないことよりも、王子様が無事でいてくれることの方が——ずっと、大事だ。
「……王子様、どうかご無事で」
麗良は、洗濯物を干しながら、祈った。
灰だらけの手を合わせて。
ガラスの靴は、荷物の中で、静かに光っている。
もう片方の靴の持ち主は、今頃、城で傷の手当てを受けているのだろう。
二つの靴が揃う日は——まだ、来ない。
「……でも、必ず」
麗良は、秋の空を見上げた。
「必ず、会いに行くから」
風が、金色の髪を揺らした。
冷たい風だった。
第七話「灰かぶりの箒と、義姉たちの炎と氷」——了
第八話「三つの国、三つの思惑」に続く




