第七話「灰かぶりの箒と、義姉たちの炎と氷」 前編
一
その夜は、静かだった。
町の喧騒が遠ざかり、宿屋の廊下には蝋燭の灯りだけが揺れている。
トレメイン夫人の部屋。
アナスタシアとドリゼラは、すでに寝台で眠りについていた。日中の魔法修行で疲れたのだろう、二人とも泥のように深い眠りに落ちている。アナスタシアの枕元では、ルシファーが丸くなって寝息を立てていた。
トレメイン夫人だけが、起きていた。
寝台の端に腰掛け、手の中の小さな杖を見つめている。
白い木の杖。先端の青い石。メルヴィンから渡された、魔法の杖。
「守りたいものを強く思い浮かべろ。それだけで、お主の魔力は応えてくれる」
老魔導士の言葉が、耳に残っている。
娘たちが寝静まった後の、静かな時間。練習するなら、今だ。
トレメイン夫人は、杖を握った。
目を閉じる。
守りたいもの。
アナスタシア。ドリゼラ。二人の娘。
亡き夫が遺してくれた、大切な娘たち。意地悪で、わがままで、見栄っ張りで——それでも、自分の血を分けた、かけがえのない存在。
杖を握る手に、力を込めた。
メルヴィンが教えてくれた通り、意識を集中させる。体の中心に。臍の下に。
「……」
最初は、何も感じなかった。
だが——。
ふ、と。
体の奥底から、何かが湧き上がってきた。
温かい。熱い。体の芯から、溶岩のように湧き上がる、途方もない力。
杖の先端の青い石が、光った。
かすかに、ではなかった。
部屋全体を照らすほどの、強烈な青い光。
「……!」
トレメイン夫人は、自分でも驚いて目を開けた。
杖が、光っている。青い石が、まるで小さな太陽のように輝いている。手の中で、杖が微かに振動している。
これが——魔力。
自分の中に眠っていた、力。
「……こんなものが、私の中に……」
二
同じ頃。
宿屋の外、裏通りの暗がりに、四つの影が潜んでいた。
ガルディアの魔導士部隊。
黒いローブに身を包んだ四人は、宿屋の建物を見上げていた。
「メルヴィンがこの宿に滞在していることは確認済みだ。だが、部屋までは特定できていない」
リーダー格の男——頬に火傷の跡がある男が、低い声で言った。
「今夜、接触する。先遣隊の連中のように力ずくではなく、あくまで穏便に。殿下の命令は『対話で情報を得よ』だ。カボチャの馬車を出す魔法について、話を聞かせてもらうだけでいい」
「しかし、先遣隊を吹き飛ばした相手ですよ。話を聞いてくれますかね」
女の魔導士が、懐疑的な声を出した。
「だからこそ、穏便にだ。寝静まった頃にそっと接触して、敵意がないことを示す。我々はレオンハルト殿下の名代として来た、と。殿下の名前を出せば、少なくとも話くらいは聞いてくれるだろう」
「……だといいですが」
四人は、宿屋の裏口から忍び込んだ。
魔法による隠蔽で気配を消し、廊下を進む。深夜の宿屋は静まり返っていた。女将も従業員も、とうに寝ている。
「メルヴィンの部屋は……」
二階に上がる。廊下に、いくつかの扉が並んでいる。
どの部屋がメルヴィンの部屋か、わからない。
その時——リーダーの男が、足を止めた。
「……魔力を感じる」
他の三人も、同時に気づいた。
廊下の奥、右側の部屋から、魔力が漏れ出している。かなり強い魔力だ。
「間違いない。この魔力の大きさ……メルヴィンだ。まだ起きているらしい」
リーダーが、その部屋の前に立った。
扉には鍵がかかっている。
懐から、細い金属の道具を取り出した。ピッキング用の工具だ。魔導士とはいえ、諜報任務に就く以上、こうした技術も身につけている。
かちり、と小さな音がして、鍵が開いた。
リーダーが、扉をそっと押し開けた。
「メルヴィン殿。起きておられるのはわかっています。突然の訪問をお許しください。ガルディア王国のレオンハルト殿下の名代として、お話がございます。どうか——」
言葉が、途切れた。
部屋の中にいたのは——白髭の老魔導士ではなかった。
寝台の端に座った、痩せぎすの中年女性。手には、青く光る小さな杖。
そして、寝台の上で目を覚ましかけている、二人の若い娘。
リーダーの顔に、困惑が浮かんだ。
「……メルヴィンではない、だと?」
部屋を間違えた。
この宿にメルヴィンが泊まっていることは知っていた。だが、部屋番号までは把握していなかった。強い魔力を感知して、当然メルヴィンだと思い込んだが——この魔力の主は、目の前の女性だった。
まずい、とリーダーは思った。
だが、もう遅かった。
トレメイン夫人が、侵入者を凝視している。アナスタシアが、寝ぼけ眼で黒いローブの男たちを見ている。ドリゼラが、恐怖に目を見開いている。
三人の女性に、顔を見られた。
ガルディアの魔導士部隊は、極秘任務で他国に潜入している。その存在を知られるわけにはいかない。メルヴィンに接触するのは構わない——相手は元ガルディアの魔導士であり、事情を理解できる人間だ。だが、無関係な民間人に姿を見られるのは、まったく別の問題だった。
リーダーの表情が、苦渋に歪んだ。
「……無関係な者に見られたか」
低い声。
自分たちの失態だった。部屋を間違えた。それだけのことだ。だが、その「それだけのこと」が、取り返しのつかない事態を生んでしまった。
「消えてもらうしかない」
男が、腰の短い杖を抜いた。
勝手に部屋に入り込んでおいて、見られたからには消えてもらう。あまりにも理不尽な論理だった。だが、魔導士部隊にとっては、任務の秘匿が最優先。理不尽かどうかは、考慮の対象外だった。
「『闇夜に沈む影の刃よ——』」
詠唱が始まった。
低く、重い声。空気中の魔力が凝縮していく。男の杖の先端に、黒い光——光と呼ぶには矛盾しているが、そうとしか形容できないもの——が集まり始めた。
トレメイン夫人は——動けなかった。
手の中の杖が、まだ光っている。魔力はある。力はある。
だが、体が動かない。
恐怖だ。
純粋な、圧倒的な恐怖。
目の前の男たちは、人を殺すことに躊躇いがない。その目を見ればわかる。訓練された殺意。職業的な冷酷さ。
潜在魔力があろうとなかろうと、戦闘というものに縁のない女性が、突然こんな脅威に晒されれば——対応できるはずがなかった。
アナスタシアも、ドリゼラも、同じだった。
寝台の上で、抱き合うようにして固まっている。顔は蒼白。目は見開かれ、唇は震え、声すら出ない。
日中の魔法修行で、小さな炎を灯せるようになった。小さな氷の結晶を作れるようになった。
だが、それと、目の前の殺意に立ち向かうことは——まったく別の話だった。
「『——その切っ先をもって、眼前の敵を』」
詠唱が、進む。
黒い光が、杖の先端で渦を巻く。
あと数秒で、魔法が完成する。
トレメイン夫人は、娘たちを庇うように、両腕を広げた。杖を握ったまま。魔法は使えない。体は動かない。それでも——娘たちの前に、立った。
母親の、本能だった。
「『——切り裂』」
ごっ。
鈍い音がした。
詠唱が、途切れた。
三
リーダー格の男が、前のめりによろめいた。
背中に、衝撃。
何かが、背後から叩きつけられた。
振り返る。
そこに立っていたのは——灰だらけの少女だった。
金色の髪。青い瞳。ぼろぼろのワンピース。
両手で握っているのは、掃除用の箒。
その柄の先端を、男の背中に——正確には、背骨の脇、腎臓のあたりに——力いっぱい突き立てていた。
シンデレラ。
いや——新出麗良。
「……っ」
男が、苦痛に顔を歪めた。
詠唱が途切れ、杖の先端の黒い光が霧散する。魔法は不発に終わった。
麗良の手は、震えていた。
心臓が、破裂しそうなほど鳴っていた。
怖い。怖い。怖い。
目の前の男たちは、本物の殺し屋だ。魔法を使う、本物の戦闘員だ。箒一本で太刀打ちできる相手ではない。
でも——。
隣の部屋で、扉が蹴破られる音を聞いた。悲鳴を聞いた。詠唱の声を聞いた。
体が、勝手に動いていた。
廊下に立てかけてあった掃除用の箒を掴み、部屋に飛び込み、詠唱している男の背後から、箒の柄を突き立てた。
考える暇はなかった。
社畜時代、トラブルが起きた時に学んだことがある。考えている暇があったら、まず動け。動きながら考えろ。止まったら、終わりだ。
「……小娘が」
男が、振り返った。
黒い目が、麗良を捉えた。
殺意。
純粋な、混じりけのない殺意が、麗良に向けられた。
「この——!」
男の杖が、麗良に向けられる。
他の三人の魔導士も、一斉に麗良に注意を向けた。
四対一。
箒一本の少女に、勝ち目はない。
だが——。
「そこまでじゃ」
声が、響いた。
低く、重く、しかし途方もない力を秘めた声。
部屋の入り口に、紫色のローブの老人が立っていた。
メルヴィン。
星のような目が、四人の魔導士を見据えている。その目には、穏やかさの欠片もなかった。
「ガルディアの魔導士部隊か。……わしの弟子に手を出すとは、いい度胸じゃ」
弟子、という言葉に、麗良は一瞬きょとんとした。
(弟子? 私、弟子になった覚えはないんですけど……)
だが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「メルヴィン……!」
リーダー格の男の顔に、緊張が走った。
「大魔導士殿、我々はあなたに用があって——」
「用があるなら、正面から来い。夜中に女子供の部屋に押し入って、『消えてもらう』とは何事じゃ」
メルヴィンの声が、静かに怒りを帯びた。
「弁解の余地はなかろう。——去れ」
「しかし——」
「去れ、と言っておる」
メルヴィンが、杖を構えた。
あの日と同じだ。ガルディアの兵士を吹き飛ばした、あの時と同じ構え。
魔導士部隊の四人に、動揺が走った。
彼らとて、魔法の使い手だ。メルヴィンの魔力がどれほどのものか、肌で感じ取れる。
勝てない。
四人がかりでも、この老人には勝てない。
「……撤退だ」
リーダー格の男が、苦渋の表情で命じた。
同時に、男の杖が、一瞬だけ光った。
目くらましの閃光。
部屋中が白い光に包まれ、全員が一瞬、視界を奪われた。
その隙を突いて、撤収するつもりらしい。
「逃がさん!」
メルヴィンが杖を振った。
「風よ——!」
閃光が収まった時、四人の魔導士は窓際にいた。窓を破って逃げようとしている。
だが、遅かった。
凄まじい突風が、部屋の中を駆け抜けた。
四人の体が、紙切れのように吹き飛んだ。窓ガラスが砕け散り、木枠が折れ、四つの黒い影が夜空に放り出された。
二階の窓から、外へ。
どすん。どすん。どすん。どすん。
四つの鈍い音が、続けざまに響いた。
メルヴィンが、割れた窓から外を見下ろした。
地面に叩きつけられた四人の魔導士が、うめきながら這いずっている。黒いローブは破れ、杖は手から離れて散乱している。
だが——致命傷ではない。
先遣隊の時と同じだ。風で吹き飛ばすだけ。殺さない。
「……次はないぞ」
メルヴィンが、窓から身を乗り出して、低く告げた。
四人の魔導士は、互いに肩を貸し合いながら、よろよろと立ち上がった。そして、闇の中に——消えていった。
霧のように。
四
嵐が去った後の、静寂。
割れた窓から、夜風が吹き込んでいる。ガラスの破片が床に散らばり、蝋燭の炎が激しく揺れている。
メルヴィンが、ふぅ、と息をついた。
「……皆、怪我はないか」
「だ、大丈夫です……」
麗良が、箒を握ったまま、かろうじて答えた。
膝が笑っている。手が震えている。箒を握る指が、白くなるほど力が入っている。
怖かった。
本当に、怖かった。
あの男の目。あの殺意。あの黒い光。
一歩間違えれば、死んでいた。
「お嬢さん」
メルヴィンが、麗良の肩にそっと手を置いた。
「よくやった」
「……私、ただ箒で突いただけです」
「それが、どれほど勇気のいることか。わかっておるよ」
メルヴィンの声は、温かかった。
麗良の目に、じわりと涙が滲んだ。怖さと、安堵と、色々なものが混ざった涙。
「……シンデレラ」
声がした。
振り返ると——トレメイン夫人が、寝台の端に座ったまま、麗良を見ていた。
手の中の杖は、もう光っていない。顔は蒼白で、唇はまだ震えている。
だが、その目は——いつもの冷たい目とは、少し違っていた。
「……あなた、なぜ」
「え?」
「なぜ、助けに来たの」
トレメイン夫人の声は、かすかに震えていた。
「あなたを……私たちは、ずっと……」
言葉が、途切れた。
虐げてきた。こき使ってきた。灰かぶりと呼んで、召使い以下の扱いをしてきた。
その相手が——命がけで、助けに来た。
箒一本で。
魔法も使えない、何の才能もない、灰だらけの少女が。
「……なぜ」
麗良は、少し考えた。
なぜ。
なぜだろう。
恩があるわけではない。好かれているわけでもない。助ける義理など、どこにもない。
でも——。
「……悲鳴が、聞こえたので」
麗良は、ぽつりと言った。
「聞こえたら、体が勝手に動いてました。……理由は、それだけです」
トレメイン夫人は、しばらく麗良の顔を見つめていた。
そして——視線を逸らした。
「……そう」
それだけ言って、娘たちの方を向いた。
アナスタシアとドリゼラが、まだ寝台の上で抱き合って震えている。
「アナスタシア、ドリゼラ。もう大丈夫よ。……大丈夫だから」
継母が、娘たちを抱き寄せた。
その声は、麗良が初めて聞く——優しい声だった。
麗良は、そっと部屋を出た。
廊下で、箒を壁に立てかけた。
手が、まだ震えていた。
(……怖かった)
でも——。
(動けた。動けたよ、私)
社畜時代は、理不尽に耐えるだけだった。黙って、我慢して、やり過ごすだけだった。
でも今夜は——動いた。
箒一本で。魔法も使えない、何の才能もない体で。
それが、どれほどのことかはわからない。
でも——少しだけ、自分を誇りに思えた。




