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第六話「町の日々と、忍び寄る影」 後編

同じ頃。


町の中に——影が、忍び込んでいた。


国境付近の混乱は、様々な者たちに「機会」を与えていた。


避難民が町に流れ込み、人の出入りが激しくなる。警備の兵士たちは国境方面に意識を向けており、町の中の監視は手薄になる。


そこに紛れ込むのは、容易だった。


町の裏通りにある、古びた酒場。


昼間から薄暗い店内の奥、壁際の席に、三人の男が座っていた。


一見、何の変哲もない旅人に見える。くたびれた外套。埃っぽい靴。疲れた顔。国境付近から避難してきた者と言われれば、誰も疑わないだろう。


だが——その目だけが、違っていた。


旅人の疲労ではない。訓練された者特有の、冷たく、鋭い目。


三人のうち、最も奥に座っている男が、低い声で口を開いた。


「状況を報告しろ」


三十代半ば。短く刈り込んだ茶髪。顎に薄い傷跡。目つきは穏やかだが、その奥に刃物のような鋭さが潜んでいる。


間者のリーダー——コードネーム「鷹」


ヴァレンティア王国の諜報部隊の中でも、最も優秀な工作員の一人だった。


「町の警備状況、把握しました」


左側の男が、小声で報告する。


「エステリアの兵は、主に町の入り口と主要な街道に配置されています。町の内部の巡回は、二人一組で一時間おき。裏通りの監視は、ほぼ皆無です」


「宿屋の状況は」


「元ガルディア王国の大魔導士メルヴィンが、避難民の一家と共に滞在中。毎日、町はずれの草原に出かけて、何やら修行のようなことをしています」


「メルヴィンか……」


鷹は、エールの杯を傾けながら、目を細めた。


大魔導士メルヴィンの名は、ヴァレンティアの諜報部にも記録がある。かつてガルディア王国最強と謳われた魔導士。十五年前に行方をくらまし、以来、消息不明だった男。


厄介な存在だが——今回の任務の直接の標的ではない。


「もう一つ。アレクシス王子が、国境付近の視察のため、近日中にこの町を訪れるとの情報を入手しました」


鷹の目が、かすかに光った。


「情報源は」


「王城の文官を買収しました。視察の日程と経路の概要を入手済みです」


「……よくやった」


鷹は、杯を置いた。


ヴァレンティア王国。大陸の西方に位置する小国。資金力こそあるが、エステリアのような広い国土も、ガルディアのような軍事力も持っていない。


だが——諜報能力だけは、三国で随一だった。


理由は、身も蓋もない。


小国ゆえに警戒されにくい。「ヴァレンティア? ああ、宝石と芸術の国ね」——その程度の認識しか持たれていない。だからこそ、間者が潜り込みやすい。


そして、豊富な資金。金鉱と銀鉱から生まれる莫大な富は、情報を買うための最強の武器だった。文官の一人や二人、買収するのは造作もない。


「本国からの指令を確認する」


鷹が、懐から小さな紙片を取り出した。特殊なインクで書かれた暗号文。


解読した内容は——。


「現在、エステリアとガルディアの間には、国境紛争という火種がある。だが、両国ともまだ本格的な衝突は望んでいない。エステリアは交渉の道筋を探り、ガルディアは示威行動で交渉を有利に運ぼうとしている。ただ、それだけだ」


鷹は、紙片を蝋燭の炎にかざした。紙が燃え、灰になる。


「だが——ここでアレクシス王子が襲撃されれば、状況は一変する」


左右の男たちが、息を呑んだ。


「エステリアは、当然、ガルディアの差し金だと考えるだろう。国境付近に兵を展開しているガルディアが、王子の暗殺を企てた——そう断じるのが自然だ。エステリアとガルディアの亀裂は、決定的になる」


鷹の声は、淡々としていた。感情を排した、純粋な分析。


「両国が本気で潰し合えば、戦争経済によりヴァレンティアは潤う。武器の輸出、物資の供給、戦後復興の支援——すべてがヴァレンティアの利益になる。同時に、両国が疲弊すれば、ヴァレンティアの相対的な存在感は高まる。大陸の勢力均衡において、キャスティングボートを握る立場にすらなれるかもしれない」


それが——ヴァレンティア軍参謀の見立てだった。


「任務は明確だ。アレクシス王子を襲撃する。殺す必要はない。重傷を負わせ、ガルディアの仕業に見せかける。それだけでいい」


鷹は、エールの残りを飲み干した。


「王子の視察日程に合わせて、行動を開始する。——準備にかかれ」


「了解」


二人の男が、静かに席を立った。


酒場の扉が開き、秋の光が一瞬だけ差し込んで、すぐに閉じた。


鷹は、一人残って、空になった杯を見つめていた。


(……フィリップ殿下は、この作戦をご存知なのだろうか)


ふと、そんな考えが過ぎった。


あの芸術家肌の王子。チャラいが、根は悪くない——と、鷹は思っている。舞踏会で出会った美女の絵を描き、銅版画にして配り、純粋に「会いたい」と願っている王子。


その王子の知らないところで、軍の参謀が独自に動いている。


(……まあ、俺の仕事は命令を遂行することだ。それ以上でも、以下でもない)


鷹は、杯を置いて立ち上がった。


酒場を出ると、秋の陽光が目を刺した。


町は、平和だった。市場では売り子が声を張り上げ、子どもたちが路地を走り回り、女たちが井戸端で噂話をしている。


その平和の下で——暗い計画が、静かに動き始めていた。


同じ日の、夕刻。


町の別の場所——宿屋街の外れにある、目立たない旅籠。


そこにも、影が潜んでいた。


三人の男と、一人の女。


彼らの纏う空気は、ヴァレンティアの間者たちとは質が異なっていた。


ヴァレンティアの間者が「影」だとすれば、こちらは「霧」だった。存在感が希薄なのではなく、存在そのものが揺らいでいる。普通の人間が近づけば、なぜか目が滑り、意識から外れてしまう。


魔法による隠蔽。


ガルディア王国の魔導士部隊だった。


「メルヴィンの所在は確認した」


リーダー格の男が、低い声で言った。三十代後半。黒いローブを纏い、腰には短い杖を差している。目つきは鋭く、頬には古い火傷の跡がある。


「毎日、町はずれの草原で、若い娘二人に魔法を教えているらしい。同行している一家は、国境付近の屋敷から避難してきた貴族の未亡人と、その娘たち、そして召使いの少女」


「召使いの少女……」


女の魔導士が、呟いた。二十代半ば。黒髪を短く切り揃え、切れ長の目をしている。


「レオンハルト殿下の命令は明確だ。メルヴィンを追い、舞踏会で殿下が出会った謎の美姫——カボチャの馬車に乗っていた女性——に繋がる情報を得ること」


「カボチャの馬車を出す魔法。あれはメルヴィンの十八番だと、殿下は確信しておられる」


「ならば、メルヴィンに接触して話を聞けばいい。殿下は『力ずくではなく、対話で』と仰せだったが……」


「先遣隊の連中が、すでにメルヴィンと一悶着起こしている。対話に応じてくれるかどうか……」


四人の間に、沈黙が落ちた。


先遣隊の報告は、すでに届いていた。メルヴィンに戦闘を仕掛け、風魔法で吹き飛ばされた、と。大魔導士の力は健在だった。


「……いずれにせよ、まずは情報収集だ。メルヴィンの行動パターン、同行者の素性、そしてカボチャの馬車に繋がる手がかり。慎重に動け。先遣隊の二の舞は御免だ」


「了解」


四人の姿が、霧のように薄れた。


魔法による隠蔽が、再び彼らの存在を覆い隠す。


旅籠の部屋には、誰もいなかったかのように——静寂だけが残った。


夜。


宿屋の、麗良とメルヴィンの部屋。


メルヴィンは、椅子に座ったまま、うとうとと居眠りをしていた。日中の魔法修行で、さすがに疲れたのだろう。白い髭が、寝息に合わせて微かに揺れている。


麗良は、窓辺に座って、夜空を見上げていた。


星が、きれいだった。


前世の東京では、こんなに星は見えなかった。ビルの明かりと、街灯と、ネオンサインに遮られて、夜空はいつもぼんやりと明るかった。


でも、この世界の夜空は——暗い。そして、その暗さの中に、無数の星が瞬いている。


(……王子様も、この星を見ているかな)


ガラスの靴を、膝の上に置いた。


透明な靴が、星明かりを受けて、かすかに輝いている。


(もう片方は、王子様の手の中に)


二つの靴が揃う日は、いつ来るのだろう。


国境紛争が終わったら。メルヴィンの魔法でドレスを纏ったら。王子様に会いに行ったら。


「もう片方は、ここにあります」


そう言って、ガラスの靴を差し出す。


王子様の碧い瞳が、驚きに見開かれて——そして、喜びに輝く。


(……早く、その日が来ますように)


麗良は、ガラスの靴を胸に抱いて、目を閉じた。


祈るように。


願うように。


夜風が、窓から吹き込んで、金色の髪を揺らした。


第六話「町の日々と、忍び寄る影」——了


第七話「灰かぶりの箒と、義姉たちの炎と氷」に続く

町は、眠りについていた。


だが、その眠りの下で——二つの影が、それぞれの思惑を胸に、静かに動き続けていた。


ヴァレンティアの間者。アレクシス王子の襲撃を企てる者たち。


ガルディアの魔導士。メルヴィンとカボチャの馬車の秘密を追う者たち。


そして、何も知らないシンデレラは——ガラスの靴を抱いて、王子様の夢を見ている。


嵐の前の、静けさだった。

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