第六話「町の日々と、忍び寄る影」 前編
一
町での生活が始まった。
宿屋の女将——マルタという名の恰幅のいい女性——は、避難してきた一家を温かく迎え入れてくれた。国境付近から逃れてきた人々は他にもいて、町の宿はどこもそれなりに埋まっていたが、マルタの宿にはまだ空きがあった。
「お気の毒にねぇ。国境がきな臭いって話は聞いてたけど、まさか本当に兵隊が来るなんて。——まあ、ゆっくりしていきなさいな」
幸い、トレメイン家は舞踏会の招待状が届くくらいの家柄である。没落貴族とはいえ、先代の遺産はそれなりにあった。少しくらい町に滞在したところで、すぐに金に困るということはない。
継母のトレメイン夫人は、さすがの適応力を見せた。
到着した翌日には、宿の女将と交渉して宿泊費を値切り、市場で食材を安く仕入れるルートを確保し、義姉たちの着替えを手配し、町の有力者に挨拶を済ませていた。
(……お義母様、こういう時の行動力はすごいんだよなぁ)
麗良は、感心半分、呆れ半分で継母の手際を眺めていた。
意地悪で冷酷な継母だが、一家の長としての能力は確かだ。夫を亡くした後、屋敷を維持し、娘二人を育て、社交界での体面を保ってきた。それは、並大抵のことではない。
(前の会社の課長も、パワハラはひどかったけど、仕事の段取りだけは天才的だったっけ……)
嫌な記憶が蘇りかけて、慌てて振り払った。
二
町に着いた翌日の朝。
メルヴィンが、トレメイン夫人を訪ねた。
「マダム。少し、二人きりで話がしたい」
継母は、怪訝そうな顔をした。
「……何の話でしょう」
「お主自身のことじゃ」
メルヴィンの目が、真剣だった。あの星のような瞳が、冗談を言っている時の輝きではなく、深い洞察の光を帯びている。
トレメイン夫人は、しばらくメルヴィンの顔を見つめていた。そして、小さく頷いた。
「……わかりました。娘たちには席を外させます」
アナスタシアとドリゼラ、そして麗良が部屋を出た後、メルヴィンとトレメイン夫人は、宿の一室で向かい合った。
窓から差し込む朝日が、二人の間に落ちている。
「単刀直入に言おう、マダム」
メルヴィンは、杖を膝の上に置いて、静かに切り出した。
「お主には、すさまじい潜在魔力がある」
沈黙。
トレメイン夫人の鷲鼻が、わずかに動いた。
「……何を、おっしゃっているのか」
「言葉の通りじゃ。お主の体内に眠っている魔力は、並の魔導士の比ではない。わしが市場でお主を見た時、一瞬、目を疑ったほどじゃ」
トレメイン夫人の冷たい目が、かすかに揺れた。
「私に、魔力……? 馬鹿な。私は魔法など使ったこともありませんし、そのような教育も受けておりません」
「潜在魔力じゃ。使ったことがないのは当然じゃろう。気づかぬまま一生を終える者も多い。だが、お主の場合は——眠らせておくには、あまりにも惜しい」
メルヴィンは、一拍置いて続けた。
「そして——アナスタシアとドリゼラにも、かなりの魔法の才能がある。昨日、街道で二人に伝えた。マダムのとてつもない潜在魔力を見て、納得がいきました。間違いなく、遺伝でしょう」
「遺伝……」
トレメイン夫人は、自分の手を見つめた。
細く、白い手。この手で、家計を管理し、使用人を指揮し、娘たちを育ててきた。魔法など、一度も使ったことのない手。
「……にわかには、信じがたい話ですわ」
「じゃろうな。魔法などというものに関わらずに日常を生きてきたお主にとっては、晴天の霹靂じゃろう」
「ですが……」
トレメイン夫人は、メルヴィンの目を見た。
あの日、屋敷の前で、ガルディアの兵士六人を一人で吹き飛ばした大魔導士。娘たちの興奮した報告を聞いた時は半信半疑だったが、町の人々も噂していた。国境付近で凄まじい魔法が使われた、と。
この大魔導士が言うからには——間違いはないのだろう。
「……そう、納得するしかないのでしょうね」
トレメイン夫人は、静かに目を閉じた。
メルヴィンは、ローブの内側から、小さなものを取り出した。
杖だった。
メルヴィンの持つ大きな杖とは違う、手のひらに収まるほどの小さな杖。白い木で作られ、先端に小さな青い石が嵌め込まれている。素朴だが、どこか温かみのある造りだった。
「これを」
メルヴィンが、杖をトレメイン夫人に差し出した。
「魔法の杖じゃ。お主の潜在魔力があれば、少しの訓練で使えるようになる」
トレメイン夫人が、おそるおそる杖を受け取った。指先が杖に触れた瞬間、かすかに——本当にかすかに、青い石が光った。
「……!」
「ほれ、反応しておる。やはり、相当な魔力じゃ」
メルヴィンは、杖の基本的な使い方を教えた。
魔力の込め方。意識の集中の仕方。杖を媒介にして、魔力を外に放出する方法。
「難しいことは覚えなくてよい。ただ、杖を握り、守りたいものを強く思い浮かべろ。それだけで、お主の魔力は応えてくれるはずじゃ」
「守りたいもの……」
「もし何かあったら、それで娘たちを守ってやってほしい」
メルヴィンの声が、少しだけ真剣さを増した。
「……もちろん、シンデレラもな」
トレメイン夫人の眉が、ぴくりと動いた。
「あの子も、ですか」
「あの子も、じゃ。あの娘は、お主の家族じゃろう」
「……召使いですわ」
「家族じゃ」
メルヴィンの声は、穏やかだったが、有無を言わせぬ響きがあった。
トレメイン夫人は、しばらく黙っていた。
不服そうだった。明らかに不服そうだった。唇がきゅっと結ばれ、鷲鼻の先がいつもより尖っている。
だが——。
「……わかりました」
渋々、という言葉がこれほど似合う返事もなかった。
メルヴィンは、それ以上は何も言わなかった。
ただ、少しだけ——満足そうに、頷いた。
三
町での日々が、始まった。
アナスタシアとドリゼラは、毎日、メルヴィンと一緒に町はずれの草原に出かけていった。
魔法の修行だ。
「まずは、魔力を練ることから始める」
メルヴィンが、草原の真ん中に立って、二人に向き合った。秋の風が、白い髭と紫のローブを揺らしている。
「魔力とは、体内に流れる力じゃ。血液のように、常に循環しておる。だが、普段は眠っておる。それを意識的に呼び覚まし、練り上げ、外に放出する——それが魔法の基本じゃ」
「練る……って、どうやるの?」
アナスタシアが、首を傾げた。
「目を閉じろ。深く息を吸え。そして、自分の体の中心——臍の下あたりに意識を集中させるんじゃ」
二人が目を閉じた。
秋の草原に、静寂が降りる。風の音。虫の声。遠くで鳥が鳴いている。
「……何も感じないんだけど」
アナスタシアが、片目を開けた。
「黙って集中せい。すぐにできるものではない」
「……」
再び目を閉じる。
一分。二分。五分。
「……あ」
最初に声を上げたのは、ドリゼラだった。
「何か……温かいものが、お腹の中にある気がする……」
「それじゃ。それが魔力じゃ。その温かさを、ゆっくりと全身に広げてみろ」
ドリゼラの体から、かすかに——本当にかすかに、淡い光が漏れた。
「えっ、ドリゼラ、光ってる……!」
アナスタシアが目を丸くした。
「ずるい! 私だって——」
アナスタシアが、必死に集中する。額に汗が浮かぶ。
「力むな。力むと逆効果じゃ。水が流れるように、自然に——」
「自然に、自然に……」
アナスタシアの体からも、赤みがかった淡い光が漏れ始めた。
「おお……二人とも、筋がいいぞ」
メルヴィンが、感心したように頷いた。
「では、次じゃ。魔力を練れるようになったら、それを属性に変換する。アナスタシア、お主は炎の適性が高い。ドリゼラ、お主は氷じゃ」
「炎……!」
「氷……!」
二人の目が、きらりと光った。
「まずは初級魔法から。アナスタシア、掌の上に小さな炎を灯してみろ。ドリゼラ、掌の上に小さな氷の結晶を作ってみろ」
「やってみる!」
アナスタシアが、両手を前に出した。目を閉じ、集中する。
「炎よ……炎よ……来なさい……!」
掌の上に、ぽっ、と小さな火が灯った。蝋燭の炎ほどの、小さな小さな火。
「できた! できたわ!」
アナスタシアが歓声を上げた。興奮で集中が途切れ、炎がふっと消える。
「あっ、消えちゃった……」
「最初はそんなものじゃ。繰り返し練習すれば、安定するようになる」
ドリゼラも、掌の上に小さな氷の結晶を作ることに成功した。透明な、雪の結晶のような美しい形。
「きれい……」
ドリゼラが、自分の作った氷を見つめて、うっとりと呟いた。
「よし、よし。二人とも、初日にしては上出来じゃ」
メルヴィンが、満足そうに頷いた。
それから、二人は毎日、町はずれの草原で修行に励んだ。
炎を灯す。消す。また灯す。少しずつ大きくする。
氷を作る。溶かす。また作る。少しずつ形を変える。
地味な反復練習だった。華やかさはない。メルヴィンが見せたような、兵士を吹き飛ばす大魔法とは程遠い。
だが、二人は——意外なほど、真剣だった。
「もう一回! さっきより大きくできた気がする!」
「私だって! 見て、結晶の形がきれいになったわ!」
国境紛争のことを考えていても、気が滅入るばかりだ。いつ兵が来るかわからない不安。屋敷に戻れるかどうかもわからない不安。王子様との縁がどうなるかもわからない不安。
魔法の修行は、そんな不安から気を逸らしてくれる、いい気晴らしになっていた。
麗良は、時折、草原の端に座って、義姉たちの修行を眺めていた。
掌の上に炎を灯すアナスタシア。氷の結晶を作るドリゼラ。二人の顔は、屋敷にいた頃とは別人のように生き生きとしていた。
(……お姉様たち、楽しそうだな)
羨ましくないと言えば、嘘になる。
でも——。
(私には私の、やるべきことがある)
胸の中の、メルヴィンとの約束。
国境紛争が終わったら、魔法のドレスを纏って、ガラスの靴を持って、王子様に会いに行く。
それまでは——待つ。耐える。生き延びる。
社畜の得意技だ。




