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第五話「すれ違うガラスの靴」 後編

宿は、市場から二本裏の通りに見つかった。


小さいが清潔な宿屋で、女将は気のいい中年の女性だった。国境付近から避難してきたと言うと、同情して少し安くしてくれた。


部屋は二つ取った。一つは継母と義姉たち。もう一つは——。


「シンデレラは廊下でいいわよね」


「……いえ、さすがにそれは」


結局、麗良はメルヴィンと同じ部屋の隅に、毛布を敷いて寝ることになった。屋敷の藁のベッドよりはましだ。


夕暮れが近づいていた。


メルヴィンは、宿の椅子に腰掛けて、窓の外を眺めていた。北東の空。ガルディアの方角。


麗良は、荷物の中からガラスの靴を取り出し、膝の上に置いた。布を解くと、透明な靴が、夕日の光を受けて茜色に輝いた。


しばらく、それを見つめていた。


「……魔法使い様」


「ん?」


「図々しいお願いなんですけど」


麗良は、ガラスの靴を両手で包みながら、言った。


「この国境紛争が落ち着いたら……また私に、魔法をかけていただけますか?」


メルヴィンが、ゆっくりと麗良の方を向いた。


「ドレスと、馬車を。あの時と同じように。……そうすれば、このガラスの靴を持って、王子様に会いに行けます」


麗良の声は、少し震えていた。


図々しいお願いだと、自分でもわかっている。二度も魔法をかけてもらった上に、ガルディアの兵士から守ってもらい、避難まで一緒にしてもらっている。これ以上甘えるのは、申し訳ない。


でも——他に方法がなかった。


灰だらけの召使いの姿では、城の門すらくぐれない。ガラスの靴を持っていても、王子に直接会う手段がない。


メルヴィンの魔法だけが、シンデレラを「あの夜の美姫」に変えてくれる。


「……王子様は今、ガラスの靴を持って、私を探してくださっています。でも、私は屋敷を離れてしまった。このままでは、すれ違ったままになってしまう」


麗良は、ガラスの靴をぎゅっと握った。


「国境紛争が終わったら——私の方から、王子様に会いに行きたいんです。このガラスの靴を持って。『もう片方は、ここにあります』って」


メルヴィンは、黙って聞いていた。


星のような目が、麗良を見つめている。


「……お主が王子に会えれば、王子も想い人が見つかって安堵するじゃろうな」


「はい」


「王子が安堵すれば、国政にも身が入る。ガルディアとの交渉にも、腰を据えて臨めるじゃろう」


「……そこまでは考えてませんでしたけど」


「ふぉっふぉっふぉ。まあ、結果としてそうなる」


メルヴィンは、髭を撫でて笑った。


そして——穏やかに、頷いた。


「もちろんじゃ」


「……!」


「お主に魔法をかけるのは、三度目になるかの。一度目はカボチャの馬車とドレス。二度目も同じ。三度目も——喜んで引き受けよう」


「ありがとうございます……!」


麗良の目に、じわりと涙が滲んだ。


「本来、魔法は人を笑顔にするためのものじゃ、と言ったろう。お主と王子が再会して笑顔になるなら、わしの魔法も本望というものよ」


メルヴィンの目が、優しく細められた。


「じゃから——約束じゃ。この騒ぎが収まったら、とびきりのドレスを用意してやる。前の二回よりも、もっと美しいやつをな」


「はい……! 約束です……!」


麗良は、涙を拭いて、笑った。


ガラスの靴を胸に抱いて。


約束。


国境紛争が終わったら、メルヴィンの魔法でドレスを纏い、ガラスの靴を持って、王子に会いに行く。


それは、小さな約束だった。


老いた魔導士と、灰かぶりの少女の、ささやかな約束。


でも——麗良にとっては、何よりも大切な約束だった。


暗闇の中の、一筋の光。


この約束がある限り、どんな困難にも耐えられる気がした。


その頃——エステリア王国、王城。


大広間に設えられた軍議の間に、重い空気が漂っていた。


長い楕円形のテーブルを囲むのは、エステリア王国の重臣たち。軍務大臣、外務大臣、財務大臣、そして各方面の将軍たち。


その上座に、アレクシス王子が座っていた。


白い軍服。青いマント。だが、舞踏会の夜の華やかさはない。今のアレクシスは、一国の指導者の顔をしていた。


「報告いたします」


軍務大臣——白髪の壮年の男が、地図を広げながら立ち上がった。


「ガルディア王国の軍が、国境付近に展開を続けております。現時点で確認されている兵力は、歩兵三個大隊、騎兵一個中隊、および工兵部隊。推定総数、五百から八百」


テーブルの上の地図に、赤い駒が並べられていく。国境線に沿って、ガルディアの軍勢が展開している様子が、一目でわかる。


「名目上は『国境付近の調査および警備強化』とされておりますが——」


軍務大臣が、眼鏡の奥の目を細めた。


「実態は、示威行動であり、軍事的威嚇であると判断いたします」


「根拠は」


アレクシスが、短く問うた。


「まず、展開している兵力の規模です。単なる調査であれば、一個小隊で十分。三個大隊を動かす必要はありません。次に、展開の位置。国境線全体ではなく、鉱山地帯に近い区域に集中しています。これは、鉱物資源を意識した配置と見るべきでしょう」


「さらに」と、軍務大臣は続けた。


「先遣隊と思われる小部隊が、すでに国境を越えて我が国の領内に侵入した形跡があります。国境付近の住民からの報告によれば、完全武装の騎兵六騎が、民家の近くまで来ていたと」


アレクシスの碧い瞳が、わずかに鋭くなった。


「民間人への被害は」


「現時点では報告されておりません。ただし、住民の間に動揺が広がっております」


「……つまり」


アレクシスは、地図の上の赤い駒を見つめた。


「ガルディアは、交渉を優位に進めるためのカードとして、軍をちらつかせている。今すぐに全面侵攻してくるような差し迫った脅威ではないが——必要とあらば軍事行動も辞さない、というメッセージを送っている。そういうことか」


「はい。その認識で間違いないかと」


軍務大臣が頷いた。


沈黙が、軍議の間を満たした。


重臣たちの顔に、緊張が走っている。ガルディアは軍事国家だ。正面からぶつかれば、エステリアに勝ち目は薄い。


だが——アレクシスの表情は、揺るがなかった。


「まずは民に被害が出ぬよう、国境付近地域からの避難を呼びかける」


王子の声が、軍議の間に響いた。静かだが、芯のある声。


「同時に、国境沿いにおける我が軍の配備を手厚くする。防衛線を構築し、ガルディアの侵入を阻止する態勢を整えよ」


「はっ」


将軍たちが、一斉に頷いた。


「また、国境での偶発的衝突が国際問題化しないよう、配備される兵に通達を出せ。挑発に乗るな。先に手を出すな。だが、民を守るためであれば、断固たる対応を取れ。——この二つを、徹底させろ」


「承知いたしました」


「外務大臣」


「はい」


「ガルディアへの外交使節を準備してくれ。対話の窓口は、閉ざさない。武力で脅されたからといって、こちらも武力で応じるだけでは、事態は悪化するだけだ」


「……殿下、しかし、ガルディアの宰相グスタフは、一筋縄ではいかない男です。対話に応じるかどうか——」


「応じなければ、応じるまで粘れ。外交とは、そういうものだ」


アレクシスの声に、迷いはなかった。


重臣たちが、次々と指示を受けて動き始める。軍議の間に、慌ただしい活気が生まれた。


アレクシスは、一人、椅子に座ったまま、地図を見つめていた。


国境線。その向こうに広がるガルディアの領土。そして、国境のこちら側に点在する、小さな村や屋敷。


あの名前も知らぬ想い人も、この国のどこかにいる。


それは間違いない。彼女は、この国の舞踏会に来た。この国のどこかに住んでいる。


だから——国を守ることは、彼女を守ることでもある。


アレクシスは、懐からガラスの靴を取り出した。


小さな、透明な靴。軍議の間の蝋燭の光を受けて、虹色に輝いている。


靴の持ち主の捜索は、中断せざるを得なかった。国防が最優先だ。それは、王族として当然の判断だ。


だが——。


(……待っていてくれ)


心の中で、名前も知らない彼女に語りかけた。


(この国を守り抜く。王子の名において、無辜の民を、一人たりとも傷つけさせない。——お前のことも)


ガラスの靴を、そっと唇に近づけた。


誓いのように。祈りのように。


(そして、必ず会いに行く。この手で、抱きしめてみせる)


ガラスの靴を、再び懐にしまった。


ゆっくりと、立ち上がった。


やるべきことが、山のようにある。


恋に心を捕らわれているだけの王子では、この国は守れない。


だが——恋を知ったからこそ、守りたいものが、より鮮明に見えるようになった。


アレクシスは、軍議の間を出た。


長い廊下を、一人で歩く。


窓の外には、秋の夕暮れが広がっていた。


茜色の空。沈みゆく太陽。


同じ空の下で、彼女も——この夕暮れを見ているだろうか。


第五話「すれ違うガラスの靴」——了


第六話「町の日々と、忍び寄る影」に続く

窓の外に、夕暮れが広がっていた。


茜色の空。沈みゆく太陽。


麗良は、窓辺に座って、その空を見ていた。


胸に抱いたガラスの靴が、夕日を受けて、茜色に輝いている。


もう片方は、王子様の手の中に。


(……同じ空を、見ているかな)


呟いた。


返事はない。


ただ、秋の風が、金色の髪を優しく揺らしただけだった。

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