【第26話】愛の消去(セラピー)
鏡の向こう側から、ミサキさんが、変わらない優しい声で僕に語りかける。
僕は、震える唇で、かろうじて言葉を紡ぎ出した。
「……どうすればいいんだ……」
「もう、分かっているはずよ」
鏡の中の彼女は、まるで母親が子供に言い聞かせるように、静かに、そして残酷に、僕がすべきことを告げた。
「難しく考えなくていいの。ただ、私とのこと、思い出してくれるだけでいい。そして、それがもう、ここにはないのだと、あなた自身が、認めてくれるだけで……」
それが、僕がやらなければならない、最後の仕事。
僕の心が作り出した、最も愛おしい幻影を、僕自身の手で、殺すこと。
僕は、その場にゆっくりと座り込んだ。冷たい床の感触が、現実を突きつけてくる。僕は、鏡に映る、悲しげに微笑む彼女を見つめながら、最初の記憶を、たぐり寄せた。
二人きりになって、まだ間もない頃。
テラリウムで、僕が初めてこの船で咲かせた深紅の花を、彼女に見せた時のことだ。
『素敵……このお花、名前はなんて言うの?』
彼女は、少女のように目を輝かせて、僕に尋ねた。
『ソラリス・ロゼ、って言うんだ。この船で生まれた、最初の薔薇だよ』
『ソラリス・ロゼ……。太陽の薔薇。綺麗だわ』
彼女は、うっとりとその花びらを眺めていた。あの時の彼女の横顔は、僕の記憶の中で、一枚の絵画のように完璧に保存されている。
僕は、その完璧な記憶を、現実の言葉で、上書きする。
「……あれは、幻だった」
声が、ひどく震えた。涙が、頬を伝っていく。
「僕は、一人で、花に語りかけていただけだ。僕の独り言に、答えてくれる人なんて、どこにも、いなかったんだ」
その言葉を口にした瞬間、鏡の中のミサキさんの足元が、すうっと、透き通り始めた。まるで、水彩絵の具が水に溶けていくように、彼女の輪郭が、背景の壁と同化していく。
彼女は、痛みを堪えるように、しかし静かに、僕を見つめ返していた。
僕は、目を固く閉じ、次の記憶を思い出す。
ジンと口論し、自己嫌悪に陥っていた僕を、彼女が医務室で慰めてくれた時のことだ。彼女は、黙って僕の隣に座り、震える僕の手を、両手で優しく握りしめてくれた。
『大丈夫。私がそばにいるから』
あの温もりは、確かに、本物だと感じた。あれがあったから、僕は、壊れずにいられたんだ。
「……違う」
僕は、嗚咽を漏らしながら、その記憶さえも、否定する。
「誰も、いなかった。あの時、僕の手を握ってくれる温もりなんて、どこにもなかったんだ。僕は、ただ一人で、自分の手を握りしめて、寒さに震えていただけだ……!」
言葉と共に、ミサキさんの体の腰から下が、さらに透き通っていく。彼女の存在が、僕の言葉によって、確実に消去されていく。
これは、単に幻を消す作業ではない。
僕が、この果てしない孤独の中で、生きるために必死に育んできた、他者への信頼、優しさ、そして愛情という感情そのものを、僕自身の手で、殺していく儀式だ。
人間であるために必要なものを、一つ、また一つと、捨て去っていく。
『――そうだ、アキト。感傷は、弱さだ。捨てろ。全て捨てて、空っぽになれ』
頭の奥で、「彼」の冷たい声が響いたような気がした。
僕は、虚ろな目で、鏡を見つめた。
いくつかの記憶を消し去った後、鏡の中のミサキさんの姿は、胸から上だけを残して、ほとんど透き通ってしまっていた。彼女の存在は、まるで風前の灯火のように、儚く揺らめいている。
もう、涙も出なかった。
ただ、心が、すり減っていく感覚だけがあった。
ほとんど消えかけた彼女が、最後の力を振り絞るように、僕に何かを伝えようと、その唇を、わずかに開いた。
その声は、か細く、しかし、僕の心の芯に、はっきりと届いた。
「ありがとう、アキトさん……」
彼女は、僕が今まで見た中で、最も美しい、そして最も悲しい笑顔で、言った。
「でも、忘れないで。私がくれた“愛”の記憶は、あなたの力になるはずよ……」




