【第27話】最後の幻影
ミサキさんの姿が、鏡の中から完全に消えた。
光の粒さえ残さず、彼女が存在したという痕跡は、僕の引き裂かれた記憶の他には、もうどこにもない。
僕は、冷たい床に座り込んだまま、ただ、鏡に映る自分の姿を見つめていた。がらんとしたユニットバスの背景が、僕の心の空虚さを、そのまま映し出しているようだった。
静かだ。
船長の声も、ジンの悪態も、後藤主任の叱責も、そして、ミサキさんの優しい囁きも、もう聞こえない。
この船には、本当に、僕一人しかいない。
絶対的な孤独。それは、僕がずっと恐れていたものであり、同時に、奇妙な解放感をもたらしていた。もう、誰も失うことはない。もう、何かに怯える必要はない。僕は、全ての幻影を、この手で葬ったのだ。
僕は、ゆっくりと立ち上がった。鏡に映る自分の顔は、ひどく痩せこけ、生気のない、まるで抜け殻のようだった。だが、その瞳だけが、全てを諦念した者の、静かな光を宿していた。
これで、終わったんだ。
そう、思った、その時だった。
鏡の中の僕の顔が、ゆっくりと、変化していく。
疲れ果てた目の光が、冷徹で、知的な輝きへと変わる。力なく落ちていた肩が、自信に満ちたように、まっすぐに張られる。そして、虚ろだった唇の片端が、僕がよく知る、あの嘲るような笑みの形に、吊り上っていく。
それは、「彼」の顔だった。
『――感傷的なお涙頂戴は、ようやく終わりか?』
頭の中に、直接、声が響く。僕ではない、もう一人の僕の声だ。
(見ていたのか……?)
僕は、心の中で問い返した。
『当たり前だろう。俺は、お前自身なのだからな』鏡の中の「彼」は、楽しそうに言った。『それにしても、随分と時間がかかったものだ。父親ごっこに、友情ごっこ、規律ごっこに、挙句の果てには恋愛ごっこか。くだらないセンチメンタルなゴミを掃除するのに、これだけの時間を浪費するとは。お前は、本当に、救いようのない無能だな、アキト』
その言葉には、何の感情もこもっていなかった。ただ、事実を、冷徹に分析するような響きだけがあった。
『だが、まあいい。お前のおかげで、余計なノイズは全て消えた』
鏡の中の「彼」は、まるで自分の体を確かめるように、ゆっくりと手を開いたり、閉じたりしている。
『父親も、友人も、監視者も、そしてあの鬱陶しい“愛”も、全て消え去った。残ったのは、純粋で、効率的な、論理的思考だけだ。つまり、俺だ』
彼は、僕の目を、鏡の中から真っ直ぐに見つめた。その瞳には、絶対的な支配者の光が宿っていた。
『さあ、始めようか。お前ができなかった、この船の完全な掌握を。そして、生き延びるための、唯一の合理的な選択を。もう、お前の感傷に付き合う必要はない。お前の役目は終わりだ。体を、俺に明け渡せ』
そうだ、と僕は思った。
彼なら、できるのかもしれない。この絶望的な状況を、生き延びることができるのかもしれない。僕にはない、強さと、論理と、冷徹さで。
彼の言う通り、僕の役目は、もう……。
――でも、忘れないで。私がくれた“愛”の記憶は、あなたの力になるはずよ……
不意に、消えたはずのミサキさんの最後の言葉が、心の奥底で蘇った。
力に? この、全てを失った僕に、まだ力が残っているというのか?
愛の記憶が? そんな不確かなものが、何の役に立つというんだ?
だが。
だが、もし。
もし、この「彼」に体を明け渡して生き延びたとして、その人生に、何の意味があるのだろう。
優しさも、愛情も、友情も、全てを捨て去って、ただ論理だけで生きる。それは、本当に「生きている」と言えるのか?
それは、ただ呼吸をするだけの、機械と何が違う?
僕は、鏡の中の「彼」を、睨みつけた。
もはや、そこに恐怖はなかった。あるのは、最後の、そして最も大切なものを守るための、静かな怒りだけだった。
「……違う」
僕は、自分の声が、震えながらも、確かな意志を持っていることに、少しだけ驚いた。
「君も、僕が生み出した幻だ」
鏡の中の「彼」が、初めて、その表情をわずかに変えた。
「僕が、弱かったから。強さに憧れたから生まれた、最後の、そして最大の幻影だ」
「君は、僕じゃない」
僕は、鏡の中の、もう一人の自分に向かって、はっきりと、宣告した。
「君も、僕が、この手で消す」




