【第25話】鏡の中の真実
「どうしたの、アキトさん。そんなに青い顔をして」
その声は、静まり返ったブリッジに、あまりにも優しく、そして場違いに響き渡った。
僕は、コンソールに突っ伏したまま、ゆっくりと顔を上げた。振り返ることはしない。振り返る必要がない。そこに誰もいないことを、僕はもう、知ってしまったからだ。
僕の記憶の中では、いつも隣で微笑んでいたはずのミサキさん。
僕の心を、その温もりで救ってくれたはずの、ミサキさん。
彼女は、いなかった。最初から、どこにも。
僕は、壊れた人形のように、ぎこちない動きで立ち上がった。そして、よろめく足取りで、ブリッジに併設されたユニットバスへと向かう。声は、まだ背後から聞こえてくる。
「危ないわ、アキトさん。しっかりして」
その声援が、今はただの、僕自身の脳が作り出した電気信号のこだまにしか聞こえない。
洗面台の前に立ち、僕は顔を上げた。
そして、鏡を見た。
そこに映っていたのは、絶望という言葉さえ生ぬるい、完全な虚無に支配された、僕の顔だった。
そして。
その僕の背後には。
心配そうに、僕の顔を覗き込んでいる、ミサキさんの姿が、はっきりと、そこに映っていた。
現実には存在せず、しかし、僕の心が作り出した鏡の世界にだけ、彼女は変わらずに存在し続けていた。
僕は、鏡の中の彼女に、問いかけた。声は、ひどく乾いていた。
「君は、誰なんだ……?」
鏡の中のミサキさんは、もう驚かなかった。ただ、全てを悟ったように、悲しげに、そして慈しむように、微笑んだ。
『私は、あなたの“心”よ、アキト』
その声は、僕の耳からではなく、頭の中から直接響いてくるようだった。
『あなたが、この果てしない孤独に、たった一人で壊れてしまわないように、あなた自身が生み出した、最後の安全装置。あなたの“優しさ”や“愛情”が、形になっただけの、幻』
鏡の中の彼女は、僕の後ろで、そっと僕の肩に手を置く仕草をした。もちろん、僕の肩に、温もりは感じない。
『イサミ船長は、あなたが求めた“父性”の幻。ジンは、あなたが渇望した“友情”の幻。後藤主任は、あなたが失いかけていた“理性”の幻。彼らは、あなたを守るための、防衛プログラムだったの』
『でも、あなたの精神は、そのプログラムさえも、一つずつ拒絶し、消していった……』
「……」
『だから、最後に残ったのが、私。他の誰よりも強く、誰よりもリアルな、最後の仮想人格。あなたが、最も強く求めていた“愛”の幻よ』
僕は、鏡の中の彼女を見つめた。彼女の瞳は、どこまでも優しく、そして、どこまでも悲しかった。彼女もまた、僕の一部なのだ。僕が、孤独に耐えかねて、生み出してしまった、哀れな幻影。
「ミサキさん……」
僕が、彼女の名前を呼んだ、その時だった。
彼女の、悲しげだった表情が、すっと、能面のように消えた。
そして、そこには、まるで役目を終えた機械のような、冷たい、しかしどこか清々しいような、不思議な表情が浮かんでいた。
『でも、アキトさん。あなたが本当の意味で現実と向き合い、自立するためには、その最後の幻さえも、消えなければならない』
鏡の中の彼女が、はっきりと、僕に告げた。
『私がいる限り、あなたは現実から逃げ続ける。私という優しい夢に、溺れ続ける。だから……』
彼女は、僕の目を、真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。
『私を“消去”する時が来たのよ、アキト』
『あなた自身の手でね』




