【第23話】鏡の向こう側
航海日誌、Day 1565。
ミサキさんと二人きりの生活は、不思議なほど穏やかだった。昨夜の、食器の違和感。僕はそれを、自分の疲労が見せた幻だと、無理やり心の隅に押し込めた。彼女がいる。彼女が笑っている。この温かい現実さえあれば、他には何もいらない。そう、自分に言い聞かせながら。
その日も、僕らはテラリウムで、穏やかな時間を過ごしていた。
「アキトさん、このお花、名前はなんて言うの?」
「それは、ソラリス・ロゼ。この船で、僕が初めて咲かせた花なんだ」
「素敵……」
彼女は、うっとりとその深紅の花びらを眺めていた。僕はこの光景が、一日でも長く続くことを祈った。
だが、僕の心に一度宿った疑念の種は、この甘い平穏の中にあってさえ、着実に根を張り、育っていた。
僕は、彼女に気づかれないように、この世界の綻びを探し始めた。
「シャワーを浴びてくるよ」と僕が言い、次に彼女が「じゃあ、私も」とシャワー室へ向かう。その後、僕は機関室のメンテナンス記録をチェックするふりをして、船全体の給水タンクのログを確認した。データが示す使用量は、明らかに一人分だった。
ある時、僕らは普段使わない、貨物区画へと続くメンテナンス用通路を歩いた。床には、薄らと白い粉塵が積もっている。「足元、気をつけてね」と彼女は僕に微笑んだ。
数時間後、僕は一人で、再びその通路を訪れた。
そして、息をのんだ。
薄い粉塵の上に残された足跡は、一往復分。行きと、帰り。重なるようにつけられたその二列の足跡は、全て、僕のブーツの跡と、完全に一致していた。
僕の心臓が、冷たく軋む。
その時、頭の中に、あの声が響いた。僕が最も聞きたくなかった、冷徹な声が。
『――まだ、ままごとを続ける気か、アキト』
「彼」の声だ。
(黙れ……ミサキさんは、いるんだ……!)
『あの女は“物質”に干渉できない。なぜなら、彼女は“情報”でしかないからだ。お前の脳が作り出した、精巧なだけのプログラム。いい加減に認めろ。この船に、人間は、お前しかいない』
やめろ、と心の中で叫ぶ。
だが、もう駄目だった。僕の心は、もう、この甘い嘘に耐えられなくなっていた。
真実を、確認しなければならない。
たとえ、それが僕の心を完全に破壊することになったとしても。
僕は、震える手で、ブリッジのメインコンソールを操作した。
アクセスしたのは、船内の全区画を24時間記録し続ける、膨大な監視カメラのサーバー。僕は、ミサキさんと「二人で」過ごした、ここ数日間の記録を、再生した。
最初に映し出されたのは、食堂の映像だった。
そこには、テーブルの一つの席に座り、虚空に向かって「美味しいよ」と微笑みかけている、僕の姿があった。彼の向かいの席は、空っぽだ。
次に、テラリウムの映像。
僕は、ソラリス・ロゼの花に、優しく触れている。そして、誰もいない空間に向かって、その花の由来を、楽しそうに説明していた。
僕の記憶の中にある、温かな時間。ミサキさんの笑顔、彼女の声、彼女の温もり。その全てが、客観的な記録の中では、狂人の独り言、孤独な男の空虚な身振りに過ぎなかった。
僕は、次々と映像を再生した。そこに映っているのは、常に一人だった。一人で笑い、一人で語りかけ、一人で怯え、一人で安堵する、僕の姿だけ。
ミサキさんは、どの映像にも、一度たりとも、存在していなかった。
「……あ……ああ……」
声にならない声が、喉から漏れた。
僕は、コンソールから転がり落ちるように椅子を離れると、よろめきながら、近くのユニットバスへと駆け込んだ。
蛇口を捻り、冷たい水で、何度も、何度も顔を洗う。悪夢だ。これは、全て、悪い夢なんだ。
僕は、びしょ濡れのまま、顔を上げた。
そして、鏡を見た。
そこに映っていたのは、絶望に打ちひしがれ、正気と狂気の境界線で喘いでいる、僕の顔だった。
そして。
その僕の背後には。
変わらない、優しい笑顔で、僕を心配そうに覗き込んでいる、ミサキさんの姿が、はっきりと、映っていた。
現実には、いない。
だが、鏡の中にだけ、彼女は「存在」していた。
僕の心が作り出した、最後の幻影。
彼女は、鏡の向こう側から、僕に、にっこりと、微笑みかけた。




