【第22話】二人きりの箱舟
意識は、ゆっくりと、そしてひどく躊躇いながら、現実へと浮上してきた。
最初に感じたのは、消毒液のかすかな匂い。次に、背中に触れる、清潔で、少し硬いシーツの感触。ゆっくりと目を開けると、視界に映ったのは、見慣れた医務室の白い天井だった。
最後の記憶は、どこだ……?
頭の中に、濃い霧がかかっている。機関室の、耳をつんざくような騒音。後藤主任の、恐怖に歪んだ顔。そして、彼の背後で揺らめいていた、あの黒い影……。
「……夢、だったのか……?」
僕の口から、掠れた声が漏れた。そうだ、きっと悪夢を見ていたんだ。あまりにもリアルで、恐ろしい悪夢を。そう思った瞬間、僕の視界の端に、動く影があった。
「アキトさん!」
ミサキさんだった。彼女は、僕が目覚めたことに気づくと、椅子から立ち上がり、駆け寄ってきた。その目には涙が浮かんでいる。
「よかった……! 本当に、よかった……!」
彼女は、僕の手を両手で固く握りしめた。その温もりが、彼女の流す涙の熱さが、僕の曖昧だった意識を、はっきりと現実へと引き戻した。
「ミサキさん……僕は……」
「機関室で倒れていたのよ。私が様子を見に行ったら、アキトさんだけが……」
彼女は、そこで言葉を詰まらせた。そして、僕が最も恐れていた問いを、僕の代わりに口にした。
「主任の姿は、どこにも、なかったの。まるで、最初からいなかったみたいに……」
彼女の言葉が、僕の淡い希望を打ち砕いた。
夢じゃ、なかった。
後藤主任は、消えたんだ。あの、黒い影に、飲み込まれて。
その事実を突きつけられた瞬間、僕の心は、絶望の淵へと沈んでいくはずだった。
だが、奇妙なことに、僕の心の一部は、別の感情を抱いていた。
二人きり。
この広大な宇宙船『アルゴ・ノヴァ』の乗組員は、ついに、僕とミサキさんの、二人だけになった。
もう、誰もいなくなることはない。もう、誰も疑う必要はない。僕の隣には、ミサキさんがいる。彼女さえいてくれれば、きっと大丈夫だ。
その依存的な安堵感と、無限の宇宙にたった二人きりで取り残されたという、途方もない恐怖が、僕の中でない交ぜになって渦を巻いていた。
「大丈夫よ、アキトさん」
僕の心の揺らぎを見透かしたかのように、ミサキさんは力強く言った。
「これからは、私がそばにいるから。ずっと、一緒よ」
その言葉は、僕にとって、この宇宙で唯一の、確かな光のように思えた。
***
二人きりの生活が始まってから、数日が過ぎた。
不思議なことに、あれほど船を苛んでいた原因不明の異常や、僕を苛んでいた不気味な物音は、ぴたりと止んでいた。まるで、悪夢を引き起こしていた元凶が、後藤主任と共に消え去ってしまったかのようだった。
船内には、穏やかな、そして不気味なほどの平穏が満ちていた。
僕らは、テラリウムで、二人で植物の世話をした。彼女は、僕が名付けた植物の名前を、一つひとつ、楽しそうに覚えてくれた。食堂では、他愛ない昔話をしながら、食事をとった。それは、この船に来てから、初めて感じる、心からの安らぎだった。
この平穏は、ミサキさんがもたらしてくれたものだ。
僕は、そう信じようとしていた。彼女がいるから、船も、僕の心も、ようやく安定を取り戻したのだ、と。
この甘い時間が、永遠に続けばいい。僕は、心の底からそう願っていた。
その夜も、僕らは食堂で、二人きりの夕食をとっていた。ミサキさんが、備蓄食料をアレンジして作ってくれた、温かいスープ。その優しい味が、僕の冷え切った体に染み渡っていく。
「美味しいよ、ミサキさん」
「よかった」
彼女は、花が咲くように、にっこりと微笑んだ。
食事を終え、僕が「僕が片付けるよ」と、食器を手に立ち上がった時だった。
ふと、僕はテーブルの上に、奇妙な違和感を覚えた。
空になった食器が、一つしかない。
僕が使った、スープ皿とスプーンが、一つだけ。
「あれ……?」
僕は、思わずミサキさんに問いかけた。
「ミサキさんの食器は?」
彼女は、少しも動揺する様子なく、完璧な笑顔で答えた。
「あら、もう私が片付けておいたわよ。気が利くでしょう?」
その完璧な笑顔に、僕は「あ、そうなんだ……」と頷くしかなかった。
だが、僕の心の奥底に、冷たく、そして消えない、小さな棘が刺さった。
なぜだろう。
僕は、彼女が席を立ち、食器を片付けるのを、全く見ていなかった。
この、ほんの些細な違和感は、一体何だ?
この完璧な平穏は、本当に、本物なのだろうか?




