【第18話】二人の背中
後藤主任の指さした先は、もはや機関室というより、機械が作り出した地獄そのものだった。
渦巻く蒸気が視界を奪い、剥き出しになった電線が青白い火花を散らしている。酸素の薄い頭では、ただそこに立っているだけで、意識が焼かれていくようだった。諦めろ、と、僕の中の何かが囁いていた。もう、楽になれ、と。
僕がその場に膝から崩れ落ちそうになった、その時だった。
「星島!」
後藤主任の力強い腕が、僕の肩を掴んだ。彼は、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。その瞳には、もはや僕への疑いの色はなく、ただ、同じ地獄を共有する者への、必死の叱咤だけがあった。
「行くぞ。俺が前を行く。お前は俺の背後から、計器の異常や周囲の危険を知らせろ。生き延びたければ、俺の背中だけを見ていろ」
それは、もはや監視者から容疑者への命令ではなかった。
絶望的な戦場に立つ、一人の兵士から、もう一人の兵士への、簡潔な指示だった。
僕は、何も言わずに頷いた。
僕らは、蒸気が渦巻くエリアへと、一歩踏み出した。後藤主任が先導し、僕は彼のすぐ後ろに続く。熱い蒸気が容赦なく僕らのバイザーを曇らせ、足元では、いつ爆発するとも分からないケーブルが、蛇のようにのたうっていた。
「右、三時の方向! パイプから火花!」
僕が叫ぶと、後藤主任は即座に身を屈め、危険を回避する。
「前方の床が抜けている! 左へ迂回するぞ!」
彼の指示に、僕は食らいつくように従った。
言葉を交わさずとも、僕らは互いの動きを読み、呼吸を合わせ、この機械の地獄を進んでいった。これまで憎しみと疑念で隔てられていた僕らの背中は、今、生き延びるというただ一つの目的のために、互いを守る盾となっていた。
僕らが、最も危険なエリアを通過しようとしていた、その時だった。
ヘルメットの通信機から、激しいノイズと共に、ミサキさんの声が飛び込んできた。
『主任! アキトさん! 聞こえますか!?』
その声は、ひどく怯え、切羽詰まっていた。
『二人とも、何をしているの!? そっちは危険よ! 早く戻ってきて! こっちも、また別のシステムに異常が発生して……! お願い、戻ってきて!』
ミサキさん!
彼女の無事を知らせる声に、僕は安堵しかけた。だが、同時に、僕の心の片隅で、冷たい何かが囁いた。
なぜ、今なんだ? なぜ、僕らの足を止めようとする?
彼女の声は、僕らの身を案じているように聞こえる。だが、その必死さが、どこか芝居がかっているようにも聞こえてしまう。これは本当に彼女の言葉なのか、それとも、彼女に寄生した「何か」が、僕らをここに閉じ込めておきたいという、巧妙な罠なのか?
後藤主任が、荒い息の中、通信機に向かって叫んだ。
「天野! こちらで問題が発生している! メインバルブの復旧を最優先する! そちらは、何があっても持ちこたえろ!」
彼がそう言い切った、直後だった。
『ザザッ……! ザザザザッ……!』
通信機が、耳を劈くような激しいノイズを発した。そして、まるでナイフで断ち切られたかのように、一方的に沈黙した。
「ミサキさん!? 聞こえるか、ミサキさん!」
僕が何度呼びかけても、返ってきたのは、虚しいノイズだけだった。
僕と後藤主任は、顔を見合わせた。単なる故障か? それとも、彼女が、あるいは「何か」が、意図的に通信を切断したのか?
確かなのは、もう僕らに助けは来ないということ。僕らは、この機械の地獄に、完全に孤立したのだ。
僕らは、無言で突き進んだ。そしてついに、全ての騒音と熱気の発生源である、巨大な円形のメインバルブまでたどり着いた。
希望は、しかし、そこで完全に打ち砕かれた。
その巨大なバルブは、通常のロックに加え、分厚いチタン合金製の、特殊な緊急ロックで物理的に固定されていたのだ。それは、外部からのテロ対策用に設計された、内部からの破壊を一切想定していない、絶対的な物理ロックだった。
後藤主任は、そのロックを見て、力なく膝から崩れ落ちた。
「……ダメだ。終わった……」
その声は、絶望そのものだった。
「これは、意図的にロックされている。テロ対策用の物理ロックだ……。これを破壊するには、ドックにあるプラズマカッターでもなければ不可能だ。だが、ここを離れる時間も、そこまでたどり着く酸素も、もう……残ってはいない……」
彼は、憎しみを込めて、その冷たい金属の塊を殴りつけた。ガツン、という鈍い音が響くだけだった。
完全な、手詰まり。
僕の意識が、酸素欠乏で急速に遠のき始める。視界が、ゆっくりと白んでいく。薄れゆく視界の中で、床に突っ伏し、肩を震わせる後藤主任の絶望した背中が、僕の見た、最後の光景になった。




