【第19話】鏡の中の解決策
意識が、遠のいていく。
床に突っ伏したまま動かない後藤主任の背中が、白い光の中に霞んでいく。耳鳴りがひどい。けたたましい警告音も、機械の唸り声も、まるで分厚い水の中にいるかのように、くぐもって聞こえる。
ああ、これが死か。
意外と、静かなものなんだな。
僕の脳裏に、これまでの出来事が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
中央テラリウムの、瑞々しい植物の匂い。
ミサキさんの、優しい笑顔。
ジンが、怒りに顔を歪めて僕を睨みつけた、最後の顔。
船長が、展望デッキで僕にだけ見せた、あの深い憂いの瞳。
そして、最後に、ひときわ鮮明に思い浮かんだのは、自室の洗面所の、あの鏡だった。
鏡の中で、僕の顔をした「他人」が、全てを見透かしたように、冷たく、自信に満ちた笑みを浮かべていた、あの顔が。
その時だった。
僕の頭の中に、直接、声が響いた。それは、僕自身の声ではなかった。もっと低く、落ち着いていて、そして、絶対的な自信に満ちた声だった。
『――無能だな、アキト』
その声は、僕の混乱と絶望を、せせら笑うかのように言った。
『死ぬのか? こんな詰まらないことで。呆れた男だ』
(誰だ……お前は……)
僕は、薄れゆく意識の中で、心の中だけで問いかけた。
『見てみろ、あのロックを』声は続けた。『あんな旧式の電磁ロック、こじ開けるまでもないだろうに。緊急時用のオーバーライド・コマンドが、システムのメンテナンス用サブ・ルーチンに隠されている。まあ、お前のような凡人では、逆立ちしたって見つけられないだろうがな』
(助けて……くれるのか……?)
僕は、最後の望みを託して、その声に懇願した。僕にはもう、何もできない。このままでは、後藤主任も、僕も、ここで死ぬだけだ。
声は、冷ややかに笑った。
『助けるんじゃない。俺が“やる”だけだ』
『お前は、そこで見ていればいい。お前が“なれなかった”ほうの男が、どうやってこの窮地を切り抜けるのかをな。そして、思い出せ。お前がいかに無力で、愚かで、そして――』
声が、途切れる。
『――さあ、体を貸せ』
その言葉を最後に、僕の意識は、ぷつりと、深い闇の中へと沈んでいった。
***
僕の目が、カッと見開かれた。
先ほどまでの、視界を覆っていた白い霧は、完全に晴れている。耳鳴りも、体の重さも、嘘のように消えていた。
代わりに、世界が驚くほど鮮明に、クリアに見えた。
渦巻く蒸気、飛び散る火花、壁の計器パネルが示す無数の数値。その全てが、膨大な情報として、僕の脳に流れ込んでくる。恐怖はない。焦りもない。あるのは、ただ、目の前の問題を解決するという、冷徹な目的意識だけだった。
僕は、ゆっくりと立ち上がった。
床に突っ伏していた後藤主任が、僕の動きに気づいて、驚いたように顔を上げた。
「星島……? お前、どうした……」
彼の声が、ひどく間の抜けたものに聞こえた。
僕は、彼の問いには答えなかった。答える必要がない。
僕は、先ほどまで見向きもしなかった、壁際の小さなメンテナンス用のサブ・コンソールへと、淀みない足取りで向かった。パネルを開き、剥き出しになったキーボードに指を置く。
僕の指が、まるで熟練のピアニストのように、猛烈な速さでキーを叩き始めた。
後藤主任も、ジンも知らなかったであろう、システムの深層部に隠された裏コマンドを、次々と打ち込んでいく。複雑なコードが、僕の思考と完全に同期して、滑らかに紡ぎ出されていく。
そうだ、思い出した。
僕は、この船の全てを知っている。
僕が、この船の、本当の――
「星島……?」
後藤主任が、信じられないものを見るような目で、僕の名前を呼んだ。彼の声には、先ほどまでの絶望ではなく、新たな、そしてより根源的な恐怖の色が浮かんでいた。
彼は、気づいたのだ。
今、彼の目の前に立っているのが、彼が知っている、あの気弱な植物学者ではないということに。
僕は、キーボードを叩く手を止めずに、ゆっくりと彼の方へ顔を向けた。
そして、かつて鏡の中で見せた、あの笑みを、浮かべた。




