第3話 川辺にて
「先ほど庭先におったら聞こえましたぞ。兄君様が『それは野狐ではない』と仰せになったのが」
「そんな事言うておったかのう?」
腕を組み、空を仰いで考える親光を、朧は呆れたように見た。
「さすがは若様じゃ、兄君様の話をなぁんにも聞いておられぬか」
「お、馬鹿にしておるな?」
親光はけらけらと笑う。
「しかしその腕の傷。背中の痣といい、なかなか派手にやられましたなぁ。若様にしては珍しい」
朧に言われて親光は左腕を見た。
「背中の痣とやらはそんなにひどいか?」
朧は親光の背中に回り、小さな手で痣の辺りをぺたぺたと触る。
「ははは、やめろ朧、くすぐったいのう。少し響くような気はするがなぁ」
「皮の下でかなりひどい出血をしておるようじゃがのう。痛くはないのか若様」
親光の左の肩甲骨の広範囲の痣は赤黒く鬱血していて、見るからに痛々しい。背中という事もあり、親光には見えていないが、朧の言う通り痛みがあるのが普通だろう。
「那須に出た鬼が思うておったより厄介でのう。上質な干し柿を貰うたから良かったが」
親光は先ほどの干し柿の甘さを思い出し、含み笑いをした。
「……若様。もし腕でも取られてみなされ。干し柿では割に合いませんぞ」
「そうだのう、その時は干し柿に京の公家衆が食うておるような、極上の甘い菓子を付けて貰おうかのう」
「若様、そういう事ではありませぬぞ」
朧はひょこひょこと親光の前に回り、小さな手で笠を上げると、親光の顔を見上げた。
「まあ確かに、腕は危なかったかも知れぬなぁ」
他人事のように言うと、親光はまた左腕の傷を見た。傷が残るかも知れぬ、とぼんやりと思う。
「それにしても若様、なぜ那須に」
朧の問いに、親光は意識を引き戻した。
「ん? ああ、鬼がうるさくてかなわぬと、野狐に言われてな……」
一月ほど前。
親光の夢にそれは美しい女が現れた。世の中にこれほどの美女がいようとは、と思うほどではあったのだが、親光はあっさりとそれが狐の化けた物である事を見抜いた。
「──さすがは結城殿よの。それでこそ頼み甲斐があるというもの」
美女は広げた檜扇で顔を隠していたが、その上から目をのぞかせると、妖しげな視線を親光に投げかけた。
「俺にそんな目をしても乗らぬぞ」
夢の中の親光はそう言ったが、美女は親光に片手を伸ばし、胸に触れた。
「そのように……、つれない事を言わずとも」
親光は美女の手を優しく取り、身体を引き寄せると、
「俺を誘惑しておるのか? 近頃の野狐には驚くのう」
と、己の顔を美女の顔に近付けて挑発するように言った。
「武勇の誉高き名門の結城殿に、頼みがあるのじゃ……。かなえてくれるならば、何でも望みを聞いてやろうぞ……」
親光の挑発に乗るように、美女は檜扇を落とすと親光の頬に手を置いた。
「ん? 何でも?」
「何でもじゃ」
美女は親光の唇に指を這わせて目を細めた。
「おお、それなら」
「妾が望みであろう?」
「ははは、何を言うておる! お前にはなーんにも興味ないのう」
親光は美女から離れると、けらけらと笑った。
「お前が人であるなら、分からぬでもないが……」
人ではないしのう、と親光は少し残念そうに嘆息した。
「……ほう? ……では何が望みじゃ?」
「唐菓子か、……そうでなくば、極上に甘い物をくれ」
夢の中の親光は、力強くそう言った。
「美しい女子より甘い物とは、さすがは若様」
親光の夢の話を聞き終えた朧は笑った。
「であろう?」
朧にそう答えると、親光も声を上げて笑った。
「俺も驚くわ」
言いながら頭の後ろに手を組んで河原の上で横になる。
「おおおお! 痛むのう!!」
河原のごつごつした石に背中が当たり、親光は叫んだ。
「褥や畳の上でも痛むでしょうに、なぜにその背中でこんな場所で寝転がるのやら」
痛がっているものの、親光は起き上がらない。
「しかしあの野狐、俺に断られた時の顔と言ったらなかったわ。お前にも見せたかったのう」
「──若様のようなお若い武士を誘惑したのに、まさか菓子に負けるとは思うてもおりませんでしたでしょうなぁ、九尾も」
「──ん?」
「ん?」
朧は「言ってしまった」と言う顔をした。
親光がわずかに頭を上げて朧を見ると、朧も笠の下から親光を見返した。
「お前、『九尾』と言うたか?」
「兄君様のお話は聞かぬのになぜにこの朧の話はしっかり聞いておるのでしょうな、若様」
朧はひょこりと座った。
「兄上は恐ろしい上に、小言ばかりではないか。それとな、朧。先ほどお前は『兄上も野狐ではないと言うていた』と言うたが、あんな惚れっぽいのが九尾なわけあるまい」
「……兄君様が小言を仰せなのは、若様が話を聞かぬからですぞ。──それはそうと」
朧は話を戻す。
「その夢の中の女子とは、何もなかったのですか若様」
「……何を言うておる、あるわけないではないか、相手は野狐ぞ」
寝転がったまま親光は朧の顔に手を伸ばし、指で頬を掴むと、むにむにと揉んだ。
「だがなぁ、干し柿を貰うた後もな、夢に出てきたぞ、あの女子」
鬼を討った事、ほんに礼を申し上げる、結城殿。妾は石にされてしもうてから、力が出なくてのう……。あの程度の鬼も煩わしくてならぬのじゃが、お蔭でこれからはよう眠られそうじゃ──。
「……とか言うておったわ。っっ、ててて」
親光は顔をしかめ、背中を庇いながら身体を起こし、川の中で遊んでいる大瑠璃を見た。
そんな親光を見て朧は呆けた顔をした。
──石にされた……? ……それは那須の殺生石であろう。やはり間違いない、若様。それは本当に九尾ですぞ。女子に会うてもおられぬ兄君様は気付かれておるのに、なぜに気付かぬ、若様……。
第3話 <川辺にて> をご覧下さり、ありがとうございます。
朧以外にもあやかしが出て来て、いよいよ「歴史の話というよりちょっと不思議な話」感が出て来たかな?という所でしょうか。
スイーツ男子親光も、自分の身体よりも甘い物への執念が出てますね。余談ですが、もしこの時代にネット環境があったら or 親光が現代にいたら、新作スイーツが出る度にチェックして入手し、写真に収めてネットに上げるくらい好き、そういうイメージでキャラ作りをしました(笑)。
次回 <黒塚の鬼女>
ご覧いただけましたら嬉しいです。
【用語】
■檜扇 薄いひのきの板を何枚も重ねて、美しい紐と組み合わせた扇です。雛人形のお雛様が手にしている扇、あれですね。
■唐菓子 小麦粉などで作られた揚げたお菓子です。見た事はあってもまだ食べた事がない筆者としましては、そのうち食べてみたいなあと思っています。
改めて調べてみると、この時代はお菓子というよりも神仏への供え物に近いみたいです(でも高級品ではあったようです)。この頃には羊羹やまんじゅうなどが伝来してそうな感じでした(笑)。でも、三国志にまんじゅう(饅頭)のエピソードが登場しますが、元々は甘くないので、親光はまんじゅうには興味ないかもですね(羊羹も甘くないはずです)。
■褥 ふとんの事です。と言っても現代のふとんと違って、ちょっと柔らかめの畳のようなもの、ですかね(マットレス的な)。そこに自分が着ていた着物などを掛けて寝ます。一応掛けぶとんのような衾もありますが、やっぱりふとんとは違い、一枚の布なので、着物を掛けて寝るのとあまり変わらないかもです。同衾という言葉はこの衾からきてますね。
■九尾の狐/殺生石 下野国(栃木県)・那須には今も殺生石がありますが、平安時代に鳥羽天皇(もしくは近衛天皇)に取り入った美女(玉藻前)の正体です。討伐されて石になりました。




