第2話 朧
「待たせたのう、大瑠璃!」
部屋に戻り、干し柿の包みを置いてきた親光は、遠くから声をかけた。手には束ねた藁を持っている。腰に佩いた太刀の装飾が太陽の光をきらきらと反射した。
親光の声に一頭の青粕毛の馬が嘶き、前脚を二度三度踏み鳴らす。まるで『遅い』と言っているようだった。
「すまぬすまぬ、ほらこれをやるから許せ。兄上がうるさくてのう」
親光は懐から先ほどの干し柿を取り出して、大瑠璃と呼ぶ馬の鼻先に差し伸べた。
大瑠璃はそれを吸うように食べると、親光の顔をじっと見つめる。
──足りぬ。
親光にはそう言っているように感じた。
「困ったやつだのう、俺が食う分が無くなるではないか」
笑いながら大瑠璃の顔を両手で掴むと、もみくしゃにする。
直垂を左側だけ肩脱ぎした親光は、大瑠璃の背に乗る馬具を外して綱を引き、近くの川へと向かった。
「だいぶ汚れてしもうたのう、大瑠璃」
川へ行く道々、親光は大瑠璃の体や毛並みを見ながら話しかける。大瑠璃は綱を引かれながら、親光の後ろを静かについていく。
やがて川に着くと、親光は大瑠璃の面懸を外した。自由になった大瑠璃は嬉しそうにざぶざぶと音を立てながら川の中に入っていく。
親光は手に持っていた藁束を下に置き、腰の太刀緒を解くと、傍の木の枝にしっかりと太刀を括りつけた。
まだ線は細いが、肩脱ぎによって露わになった左肩から胸にかけての引き締まった親光の身体が、昼の光を受けている。左の肩甲骨の辺りには痛々しく鬱血した大きな痣。左腕には先ほど兄に見せた白布がきつく巻かれ、少し血がにじんでいた。
親光はその左腕で右袖を上まで引き、袖括を絞って留めると、袴の裾も同様に上に引き上げ、括緒を絞った。
「大瑠璃、こっちへ来い、体を洗うぞ!」
と、足下の藁束を持ちながら愛馬を呼んだが、大瑠璃は夢中になって水遊びをしている。
「こら大瑠璃!」
川に入りながら再び呼ぶと、大瑠璃は親光の方を見て歯を見せた。
「何を笑うておる大瑠璃! 早う来ぬか!」
親光が藁束を足下の水に浸けそれを振り上げると、愛馬は水音を立てながら近付いてきた。
鼻先を親光の顔に寄せる。
「よしよし、汚れを落とそうかのう」
親光は笑い、再び藁束を川に浸けると、たっぷりと水を含ませ大瑠璃の背中をゴシゴシとこすり始めた。汚れが落ちてくると、青みがかった美しい毛色が蘇る。
「おお、相変わらず美しいのう、大瑠璃。お前のように美しい馬は鎌倉の得宗家にもおるまい」
藁束に水を含ませてはその体をこすり、こすってはまた水を含ませる。
それを繰り返すうちに左腕の白布が汚れてきた事に気付き、親光はそれを無造作に解いた。下から現れた傷は、肘下から手首付近まで二本。まだ日数も経っていない事もあり、生々しく抉れていた。
親光は、汚れを落とすつもりで傷の付いた左腕を躊躇なく川に浸けた。
「おおおおっっ、しみるのう!」
叫ぶと親光はけらけらと笑った。大瑠璃は主の突然の大声に驚いて前脚を上げたが、笑い声を聞くとまた歯を見せた。
「お前はどこぞ痛めてないか? 大瑠璃」
痛む左腕を振り水を払いながら親光は愛馬に尋ね、その体をあちらこちらとぽんぽんと叩いて、隅々まで見た。
「……大丈夫そうだのう」
全身を確認し、顔の前に戻った親光の胸元に、大瑠璃は鼻先を寄せて直垂の中を探る様子を見せた。くんくんとにおいを嗅いでいる。
「もうないぞ」
親光は右側の襟元を掴み、直垂の中を見せると愛馬の頭を撫でた。
先ほどの干し柿を探していたのだろう。大瑠璃は脚を上げ下げし、激しく水音を鳴らした。
「困ったやつだのう、俺の分が無くなると言うておろうに……。仕方ない、戻ったら一つだけぞ?」
親光は困った顔をしたが、すぐに愛おしそうに愛馬の顔を覗き込んで白い歯を見せた。
「おや結城の若様。その背中の痣はどうされた?」
背後から声。
親光は特に驚く事もなく振り返った。
そこには破れた笠を被った毛むくじゃらの生き物が二本脚で立ち、親光を見ていた。
「……お前、また化け忘れておるな?」
親光が言うと、その生き物は自分の姿を見回し「おやおや」と言った。
「若様があまりに楽しそうにしとるからじゃ」
毛むくじゃらの生き物は、河原の石の上をひょこひょこと歩き、波打ち際までやってくると、川の中の親光に
「なるほど、これはまた妙なモノと関わりましたなぁ、若様」
と言った。
親光は大瑠璃の鼻先を撫でながら、「ん?」とその生き物を見る。
「何の話だ?」
「いやはや、若様の甘い物好きがまさかそこまでとは」
「だから何の話だと聞いておる」
親光が大瑠璃の頭をぽんぽんと叩くと、愛馬は水の中へ入っていき、再び楽しそうに遊び始めた。それを見て親光は河原に上がり、毛むくじゃらの生き物の横に座った。
「幼き日の若様に出会うてから早十三年……。危なげなくお育ちかと思うておりましたら、これはまあ、兄君様がご心配なさるのも無理はありませぬなぁ」
「……兄上? 先ほどから何をもったいぶっておる、朧」
朧と呼ばれた毛むくじゃら──獺は口に手を当てて笑った。
第2話 <朧> をご覧下さり、ありがとうございます。
日本では獺は絶滅種に指定されていて(ニホンカワウソ)、何十年と目撃されてはいませんが、妖怪として江戸時代などにも描かれている生き物です(調べたら江戸などにもいたみたいですね)。妖怪として描かれている獺は、朧のように笠を被っていますので、興味を持たれた方はぜひ調べてみて下さい(鳥山石燕のが有名なのかな?)。
次回は <川辺にて>
ご覧いただけましたら幸いです!
【用語】
■青粕毛 馬の毛色のひとつで、青毛に白い毛が入ってるもの……、と言ってもイメージしづらいですよね。ざっくりですが、「少し色落ちした黒いデニム」や「アッシュグレー」が近いかも知れません。なお、この時代の馬の毛色としては珍しいのか、AIさんに尋ねてみましたが、かなり珍しいっぽいです。現代でも珍しいようです(細かく調べてはいませんが……)。競馬でもそもそも粕毛の毛色は登録されていないらしく、サラブレッド以外の馬での毛色のようですね(この時代の馬はサラブレッドではありませんけども)。
そんなわけで、「大瑠璃」というのは現実にいる鳥の名前でもありますが、青みがかった毛色、という事で名付けられたものになります。もちろん、親光が乗っていた馬の名前も毛色も、すべてはこの物語での話です(笑)。
■直垂 この時代あたりの武士といえばこの格好がイメージされやすいと思います。近くて分かりやすいのは、お相撲の行司さんですね。
肩脱ぎにする、というのは肩を出す感じに脱いでる状態になります(袖から腕を抜いて肩まで全部出てます)。袖括や括緒は、直垂の袖や裾についている、点線みたいに入っている紐の事です。腕まくりなどをした時に、あれを絞ると袖が落ちてこない仕組みです。
■得宗 教科書に出てくる用語ですね(笑)。得宗専制政治とかありましたね。北条家の本家(トップ)です(すごく簡単に言うと)。
■面懸 馬の顔にかかってる紐みたいなの、あれです(ざっくり)。




